パソピアとの出会い ~プロジェクトX風に~
形式確認とは
形式確認の問題点
コンピュータを使おう
安定した記録ができるコンピュータを
東芝パソコンサロン渋谷
OA-BASIC語を学ぶ
システム分析
データの洗い出し
システム始動
パソピアの購入
OA化
コンピュータアレルギー
和解
結びにかえて
終わりにあたって
昭和56年秋に新しい職場に移りました。「コンピュータ事始め(HP 25ミニ)」以降の「私とコンピュータとの関わり」について、このあたりから、NHKのかつての人気番組「プロジェクトX」風に話を起こしていくことにいたしましょう・・・
(少し、脚色しています。また、差し障りがある個所は、あえて異なった文字にしてあります。ご了承ください。)
新しい職場は、製品の基準の作成、工場の検査や製品の認証、認証マークの交付などを行うところだった。
彼(=私です)が最初に配属されたのは、○○部だった。
事務作業そのものが初めての彼にとって、すぐには仕事に慣れることが難しかった。
やがて、そこで任されたのは、形式確認というものだった。
彼は、頭を抱えた。
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形式確認事務を説明しておきましょう。
○○部では、一定以上の品質管理レベルがあり、基準適合義務を課せると認めた工場に対して、それを登録しました。
登録された工場から申請された製品が検査に合格すると確認した証明書を工場に対して交付しました。
製品は、一定の区分(カテゴリー)内から代表的な製品を提出することになっており、工場は、認証されたカテゴリーに属する製品については、自社検査(一部外注検査が必要な場合もあります)に合格すれば、認証マークを表示することができました。
形式確認の有効期間は、製品(品目という。)によって1年から5年までの期間が定められていました。
期限が来たときは、工場が更新申請を行い、検査に合格すれば、その権利は、更新され、認証マークを表示し続けるできます。
更新申請を行わない場合は、失効となり、当該区分に属する製品には、すべて認証マークを表示できなくなります。
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彼が任された当時、形式確認には、大きな問題があった。
それは、更新処理の問題だった。
品目数が50、工場数が数百、有効な形式確認の件数は、千件近くあった。
近く、更新を迎える形式確認がどれであるか、失効したものは、どれであるか、有効なものは、どれなのか、一目で把握することは、難しかった。
形式確認は、台帳に記載されていたが、更新処理がなされると台帳の更新欄にその旨を記載する方法だった。
1ページには、複数の工場の複数の形式確認が列挙されていて、更新がなされたり、失効したりする度に記述は、ますます、記述がわかりにくくなった。
品目や工場は、年々、増加し、件数も増えつつあった。
このままでは、管理が破綻する。皆、そう、思った。
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彼は、コンピュータを使えば、この問題を解決できると思った。
しかし、彼の職場には、コンピュータがなかった。
当時、数十人規模の職場にコンピュータがないことは普通のことで、不思議なことではなかった。
一方、世間では、主として愛好家のためにNECからPC8001やシャープなどから国産パソコンが販売されるようになっていた。
まだ、高価ではあり、趣味的なものと考えられていた。
職場に入りたての彼が、業務に使えるかどうか分からぬパソコンを導入して欲しいとは、言える時代ではなかった。
「そうだ、私が試して、よければ買ってきて使えばいい」と彼は、思った。
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早速、秋葉原でカタログをもらってきて調べてみた。
人気のNEC PC8001などは、データやプログラムをカセットテープに記録していた。
最初の職場でカセットテープの読み取り不良に泣かされた経験があった彼は、カセットにデータを記録する方法では、業務には、使えないと思った。
しかもPC8001では、漢字が使えなかった。
帳票を印刷する際、工場名は、カタカナを使うとしても「形式確認証」というタイトルや共通の記載項目、品目名などには漢字を使いたかった。
ちょうどその頃(1981年9月)、東芝から初代「パソピア」が発売された。
CPUは、ザイログ社の8ビット、Z80(4MHz)、メモリーは、RAM 64KB(MBではありません)、ROM 32KBという当時としては、かなりハイスペックなマイコンだった。
なによりパソピアでは、記録装置として、外付けではあるが、フロッピーディスク装置(320KB×2台)が利用できた。
フロッピーディスク装置は、安定した記録を維持できる。
(当然ですが、ハードディスクなど付いていません。パソコン用のハードディスクなどありませんでした。当時のハードディスクは、現在の洗濯機くらいの大きさがあったからです。)
彼は、パソピアを試してみよう思った。
上がパソピア本体。右上のカセットのようなものは、後日、増設したRAMパック。
上は、外付けのフロッピーディスク装置。重厚な作りである。パソピア本体より重くて大きい。
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彼にはオフコンのCOBOL語の経験は、あったが、この程度のパソコンで果たして形式確認業務ができるかどうか、完全な自信はなかったが、できるのではないかという気もした。
幸い、職場は、隔週の土曜日が半休だった。半休の午後と休日の土曜日、渋谷にあった東芝パソコンサロンに通った。
パソピアには、OA-BASIC版とT-BASIC(マイクロソフトのBASIC互換)版とがあった。
OA-BASICは、東芝の大型コンピュータ部門が設計したもので、習い覚えていたCOBOL語と共通点があった。
いわゆる直接編成ファイルや索引順編成ファイルなどのランダム呼び出しが可能だった。
彼は、迷わず、OA-BASIC版を使った。
(下図は、パソピアの利用の手引き。手引きの中央の写真の左がプリンタ、右がFD装置。)
ぼろぼろになったテキストがある。彼が使った東芝のOA-BASIC語のテキストだ。
当時は、マイコンやパソコンのプログラムに関する書籍は、ほとんどなかった。
まして、発売されたばかりのOA-BASICに関する本は、皆無だった。
東芝のこのテキストだけが頼りだった。
簡単なプログラムを作成してみた。COBOLと異なりBASICは、インタプリタであった。
コンパイルなしにすぐに実行できる。はまった。
面白かった。これなら業務に使えると思った。
形式確認事務をコンピュータで扱うには、まずは、職場の事務の流れを分析する必要があった。
新人職員である彼の利点は、なんでも聞けることだった。
職場の全体のシステムを分析した。(上図 1981/11/14の日付がある)
1981/11/16の日付の形式確認の情報関連図。
業務の流れは、結構、複雑であったが、なんとか、コンピュータで処理できそうであった。
このように分析すると、主なマスタテーブルとして、工場、形式確認、品目の3つが必要であると彼は、考えた。
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しかし、コンピュータに乗せるためには、データを洗い出さなくてはならない。
すべて紙に書き出してみた。工場には、品目毎に1から登録番号が振られていた。
書き出した項目は、品目番号、登録番号、形式確認番号、形式確認日である。
日付は、西暦下2桁とした。
日付の西暦下2桁という判断は、記録容量を節約するため、当時としては、普通の考えだったが、後年、西暦2000年問題が生じた。
(下図は、書き出したデータの一ページ)
工場マスタは、品目番号と登録番号がキーにした直接編成ファイルとした。
直接編成ファイルは、上記の2つのキーからランダムな数字を生成し、それを元にホームレコード番号を計算するもの(ハッシュ関数)である。
(索引順編成ファイルにしなかったわけは、システムを単純にし、壊れにくくするためだった)
品目マスタは、品目番号をキーにした。形式確認マスタは、品目と形式確認番号(1から999)をキーにした。
後年のシステム変更の際には、上記に形式確認年の項目をキーとして追加したが、当時は、記録容量をできるだけ少なくしたいという思いがあった。
工場や品目は、年ごとにそれほど大きくは、増加しないが、形式確認年を追加し、更新時に新規のレコードを追加していく方法では、記録容量が大きくなりすぎて、だめだと思った。
形式確認マスタに更新回数、最新の確認日などをデータとして記録すれば、品目と形式確認番号だけのキーでもシステムは、動くと思った。
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彼は、前述のように東芝のパソコンサロンに通ってデータを入力することにした。
しかし、まずは、入力を行うプログラムを書く必要があった。
現在のようにエクセルやアクセスなどがある時代ではなかった。簡単なことをするにも自力でプログラムを書かねばならなかった。
(OA-DISK BASICのシステムディスク。5.25インチサイズで2D(両面倍密=320KB)の文字が見える。)
データを単純なテキストファイルとして保存するプログラムは、比較的、容易に書けた。
データディスクだけ持参して、せっせとデータを入力した。
当時の東芝パソコンサロンは、今から考えるとおうようだった。お店のパソコンでプログラムやデータを作ることを快諾してくれた。
彼は、これでパソピアを購入して、システムを作成できると思った。
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いよいよ、パソピアを購入した。
1982年2月のことだった。
これを見ると本体が163,000円に対して、プリンタが153,000円、FD装置が290,000円とFD装置が一番高いことが分かる。
トータル61万円余りは、彼の給料から見て、相当高い買い物だった。
結局、システム全体は、数十本のBASICプログラムから構成されることになった。
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その頃、花王石鹸(現在の花王)では、パソコンを業務に使用して実績を上げているという本が出版された。
「花王のパソコン社内革命」である。(初版は、昭和56年10月)。
彼は、昭和57年3月にこの本を入手して熟読した。
上記の書籍では、主としてPC8001の活躍と、今では、もう見られないがソード社のパソコンなども使われていた。
ソードのパソコンに搭載されていた簡易言語PIPS(ピップス)なども評価されていたように思う。
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彼は、パソピア一式と一応、完成したシステムを職場に持って行った。
みなが歓迎してくれると思った。
しかし、部長に言われた。
「持って帰れ」。
上司の課長の取りなしで、なんとか持ち帰りは、勘弁してもらった。
当面、休み時間や17時以降に使うことになったのである。
彼は、コンピュータアレルギーという言葉があることを知った。
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データなどを随時、入力していった。数ヶ月すると彼のシステムは、急速に現実のデータに近づいた。
そのうち、部長も認めてくれ、内部管理業務だけでなく外部向けの帳票(形式確認証など)を印刷して使用できるようになった。
そうなるためには上司の課長達やその他の皆さんのお力添えも相当あったと思われるが、工場宛に随時、更新通知を出せるようにしたことも一つの理由だったと思われる。
これは、今日では、当然と考えられるがコンピュータならではの画期的なことだった。
ようやく、パソコンが業務に使われる時代が来ようとしていた。
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上記では、私一人でいろいろやり遂げたように書きましたが、実際は、職場の先輩やら上司の方々のアドバイスとご支援があったらばこそです。
この場を借りて、みなさまにお礼を申し上げます。
当時は、このように草の根、ゲリラ的にパソコンが職場に入りつつある時代であったということがおわかりいただけると思います。
次回(コンピュータ事始め(NEC PC9801))では、パソピアから16ビットパソコン、NECのPC9801への移行について、お話ししたいと思います。
今夜も(いや、今回もでした・・おいおい、それは「その時、歴史は動いた」でしょう)、
ご覧いただき、ありがとうございました。
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では、今月は、ここまで。
今後も時間ができましたらば、随時、更新していきたいと思います。
皆様、お元気でお過ごし下さい。
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