また、桜の季節がやってきました
インターネット上の情報の正確性について
在ると見えるか?
意欲は見えるか?
見えると在るか?
終わりにあたって
このコラム「今月のご挨拶」をインターネット上で公開した頃、「桜・京都・山村美紗」というタイトルで書いたのが、2000年の4月でした。
それから、幾たびも春が巡り来て、はや、10年が過ぎ、また、桜の季節がやってきました。
そういえば、気象庁は、今年からサクラの開花予報を取りやめることになったそうです。
昨年末の報道によると、気象庁が開花予報を行うようになったのは、昭和30年頃からで、市民から、「サクラがいつ開花するか?」という問い合わせが多くなったことがきっかけだったとのことです。
ところが、現在では、日本気象協会やウェザーニュースなどの民間の予報が出揃うようになり、気象庁が開花予報を出す必要性が薄くなったということです。
ただ、実際にサクラが開花した日付は、気候温暖化などの資料として、重要なので、今後も記録をとり続けるとのことです。
それにしても、どうして、私たちは、これほど、桜の花にこだわるのでしょう。「お花見」や「桜前線」などの言葉のニュアンスは、とうてい、英語には、ならないでしょう。
春になったから桜が咲いたと感じるのか、桜が咲いたのを見て春になったと感じるのかと、問いかけたいぐらいですね。
もちろん、論理的には、前者が正しく、春になったから、サクラが咲いたのであります。
とはいっても、人間の感覚は、そんなに単純ではないようです。
「サクラが咲いたな」、「やっと、春になったわね」などという言葉をたくさん聞いて、私たちが育ったことにより、サクラの花=春、春=サクラの花、というイメージが脳に根付いているだろうと思います。
ですので、子供の頃、海外で育った方は、サクラの花にそれほどの感慨は、ないのではないか、とも、想像しますが、この点は、調査したわけではないので、当てにはできません。
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少し、脱線しますが、先頃、最高裁判所において、インターネット上で、特定の会社を誹謗中傷した容疑事件の有罪判決がありました。
要点は、インターネット上の情報だからといって、世間の人が一概に信頼性が低いと感じているのではない(と最高裁判決に携わった裁判官の多数が考えた)ので、雑誌や新聞記事などのリアルな媒体に記載するのと同等程度の注意を払って書く必要があるとのことのようです。
常識的に言えば、納得できる点も多々あります。何らかの意図を持って、あるいは、特定の意図を持たずに面白半分で、ゆえなく、個人や会社を誹謗・中傷する行為は、インターネットであろうと、他のどのような手段であろうと許されるべきではありません。
とはいうものの、どの程度の注意を払って、インターネット上の記事を書いたらば良いのでしょうか?
インターネット上のホームページやブログ、ツイッターなどを書く人の数は、爆発的に増加しています。
今回の判決は、誹謗・中傷という行為に対する判決ではありますが、もう少し、一般的な観点で考えてみましょう。
それらは、モラルや常識を含んだ領域も入ることになりましょう。
まずは、意識して、誤った情報を流すことは、論外です。
でも、「ひとり合点」して正しいと思い込んだ場合や「第三者から聞いたこと」の正否を判断せずに流してしまうことは、あり得るでしょう。
個人レベルでは、新聞社や放送局、雑誌社で行われるような調査は、なかなか、難しいものがあります。
しかし、今や、個人とは言え、書く人が正しいと信じていれば良いとは、さすがに言えない時代となったということでしょう。
その理由は、インターネットの利用者が極めて多くなったからです。
そこで、これからは、何らかの批判的な記事を書く上は、それが正しいと信じるべき、ある程度の客観的な根拠・論拠が必要でしょう。根拠とは、たとえば、定評のある辞書や百科事典、新聞や放送局などのニュースソースがあることなどです。
しかし、そのようなものが見つからない場合は、往々、インターネットで検索して、上位にランクされた記事を参考にするでしょう。
では、この上位にランクされた記事は、どの程度、正しいでしょうか?
これらの問いに対する判断基準は、現在のところ、判然とはしません。
私、個人としては、この「今月のご挨拶」のご紹介の中で記載していますように、
「内容には、誤りがないよう注意はしていますが、場合によっては、なんらかの誤りを含んでいる場合があり得ます。
私は、以下の文章の正確性について明示的にも黙示的にも保証を与えません。」という文言がよりどころではあります。
「内容には、誤りがないよう注意はしています」という部分は、先に述べた、桜の開花予報の「昭和30年頃から始めた・・」という部分は、インターネット上の新聞記事を参照したもので、適当な年月ではないというあたりです。
本来は、出処を明確に記すべきであると、思うのですが、一々、それらを記載していくことも、あまりに煩瑣に陥るようにも思います。
要は、学術論文ではないのですからね。
なお、本記事より、論文的な「DERIVE de ドライブ」の場合は、導いた結果を具体的な数値で計算してみたり、あるいは、参考書を元に検算しています。
また、できるだけ、出典を明記するようにはしています。
その程度では、完璧とは言えないでしょうけれど、今後も注意していきたい点です。
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「ジャーン」
「お、ともちゃん。今月も登場じゃな」
「はい。「見えるか」って、タイプすると、「見える化」になってしまうわね」
「はは。トヨタ自動車のQC活動の影響のようじゃな。
しかし、見えると見えない、というのは、天と地ほども違うことじゃな」
「たとえば、どんなこと?」
「簡単な例じゃと、パソコンの裏側にあるUSB接続口にUSBケーブルを挿そうとする場合などじゃな」
「LANケーブルなども、見えないと、手探りではやりにくいわね」
「そう、LANケーブルは、USBケーブルよりも、見えないと、抜き差しがしにくいの」
「で、今回のお題は、在ると見えるか?、ですか」
「そう。ともちゃんは、どう思うかな」
「えーと。私も一応、現代の学生という「設定」ですので、在ると見えるとは言い切れないでしょ、ということを知っていますよ」
「ふ~ん。たとえば、どんな例じゃろうな」
「原子とか分子は、在るけど、見えないわ。あと、「点」とかも、「線」もそうね」
「現代版「枕草子」のようじゃな。
原子や分子は、直接、見えなくとも(直接、観測できるようになっている場合もあるが)、その他の様々な観測手段で、見える化、されているのう。
後者の「点」は、抽象的な概念なので、物ではない、という違いはあるがの」
「そうね。見える、という言葉自体が問題になっているのね。
見える、ということを、常識的に、狭く、とらえると、観測したい「物」に光が当たって、その反射光を私たちの目がとらえることにより、その存在を把握するという行為のことですから。位置だけがあって面積も体積もゼロの「点」が観測できないのは当然ね」
「闇夜のカラス、は、見えないということじゃな」
「ああ、あたりが真っ暗だと、いるはずの黒いカラスも見えない、ことね」
「可視光線では見えなくとも、赤外線やもっと波長の短い、電波であれば、黒いカラスも見えるの」
「するってぇーと、存在する「物」は、何らかの手段で、必ず、観測できる(見える)ってことですか?」
「物理学者は、そのように考えたいじゃろうな。原子や電子、陽子なども、定着するまでは、単なる仮定にすぎないとか、いろいろと批判は浴びたが」
「でも、「ダークマター(暗黒物質)」とか「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」って、観測できないんじゃなかった?」
「よう知っているな。
確かに、そのような物質なりエネルギーを仮定すると、観測事実を説明はできるが、果たして、何なのか、在る物なのかは、未だに、観測できないので、「暗黒」なんじゃからな。
その意味で、「暗黒」というより、「未知」といった方が正しいようにも思う。
ま、観測できていないことでは、重力波も現実には観測されていない。
アインシュタインによって、存在は、予言されているがの」※
「観測手段の進歩の問題と言うことかしら」
「多くは、そう考えられるじゃろう。
重力波の場合は、非常に微弱な伸縮を検出する必要があるのじゃからな」
「あ。そういえば、物質波はどうなるのかしら?
存在しても観測すると点になってしまうから直接、観測できないわね」
「物質波自体が物という限界を超えていると思うのう。ある種、抽象的な存在じゃな」
「じゃ、単なる仮定なの?」
「そうは言えんじゃろう。
たとえば、昔の人にとっては、√2や√-1(虚数単位)などは、認めたくない「物」じゃったのだが、今の我々にとっては、確かに存在していると思うじゃろう」
「数自体が「物」じゃないよね?」
「う~ん。
核心を突いてきているのう。
「数」とか先ほどの「点」、「線」などは、高度に抽象的な概念じゃな」
「概念と物とは、違うことのようにも思えるけど」
「そうじゃな。
確かに、古代の人々に今の我々の生活を説明すると、説明しきれんじゃろうな。
しかし、今や、「物」と「概念」との境目は、非常に曖昧になってきておる。
抽象的な概念も使いこなしているうちに「物」のように思えてくる。
それは、ある意味で「錯覚」なのじゃが、そう錯覚した方が我々の脳が、より自在に、概念を駆使できる構造であると思うのじゃ」
「物の場合は、観測できる(可能性がある)けど、概念は、観測できない(可能性なし)、ということかしら」
「そうも、言えるかな。そのあたりは、言葉の定義の問題のようにも思うがの」
※ 重力波
2016年2月12日産経新聞号外の記事によると、米国の研究チームが重力波の初検出に成功した。
チームは、カリフォルニア工科大学、マサチューセッツ工科大学などのメンバーで構成されている。
LIGO(ライゴ)と呼ばれる観測装置を使い、2015年9月14日に観測したとしている。
この発表が正しいとすれば、1916年にアインシュタインの一般相対性理論により予言された重力波が約100年後に実際に観測されたことになる。
2017/7/1 追記
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「冬季オリンピックが終わったわね。
でも、日本選手は、ちょっと、残念だったわ」
「ま、終わると、たいてい、そう言われるの。
だいたい、日本人は、せっかちじゃからな。結果が見えないと、失敗と思っちまうものじゃ」
「へー。ま、あたしも、あんまり、根気が続く方じゃないわ」
「そうじゃろう。じき、忘れちゃう」
「「人の噂も七十五日」ということね」
「ははは。
しかし、今は、普通の噂じゃ、75日も持たんじゃろう」
「オリンピックって、言えば、日本の選手のひとりが服装を批判されたわね」
「うん。そのように話を振られると、言わない訳(書かない訳ですが)には、いかんじゃろう」
「はい! 形が大事か、心が大事か、ということね」
「そうそう。
どうしても、日本人は、形から入る傾向があるから、形が整っていないと、心も整っていないと決めつけてしまうのじゃな」
「でも、心は、見えないわね。
なーるほど、そう結びつけたいという訳ね」
「「心は(外から)見えない」が「姿は(外から)見える」ということじゃな。
一面の真実を突いているとは思うがの」
「でも、形だけこしらえても、心がないと、「仏作って魂入れず」じゃない」
「よ。ともちゃん。ことわざ連発じゃな。
心は、その人の姿・形を通じて、外に現れるという考えがあるからのう。
映画「阿弥陀堂だより」の中に、そのような内容のセリフがあった気がする」
「でも、いずれ、脳の働きが可視化されれば、「意欲が見える」ということになるんじゃない?」
「そうも考えられる。
その時こそ、心が姿を通じて外に現れるという言葉の意味を、より深く知ることになるじゃろう」
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「観測されたデータをどう解釈するかという意味かしら?」
「いや。ここでは、デザインや広告を考えよう」
「ふ~ん。イメージ広告というのが、はやったことがあるわね」
「そうじゃな。
何の広告なのか、簡単に分からない広告があふれたときがあったのう。
バブル期の頃かな」
「広告デザイナーの立場に立てば、消費者に伝えたい商品や会社の雰囲気をなんとか形に(見える化)したいという努力は、分かる気がする」
「そうも言えるが、結局のところ、広告やデザインがいくら頑張っても、実態がなくては何にもならないということじゃな」
「また、形か心かということに戻ってきた感じじゃない」
「そういうわけではない。
見えないものを形にしたいときは、多い。
しかし、その時は、「見えるものを形にする」(より良く見せよう、より分かりやすく見せようとするのは、広告やデザインの目的じゃ)ときよりも、更に、気をつける必要がある、ということじゃ。
見えなくても確かに「在る」ものなのか、それとも、実際には「無い」ものなのか、を広告主自身やデザイナーが、よく見極める必要があるということじゃな」
「私たちも、そうでしょう。
見えないものを在るかのように見せられている(と感じる)時は、本当は、どうなっているのか、ということに十分に注意を払う必要があるということでしょ」
「見えるからといって「在る」とは限らない、ということじゃな。
最も、悪質な例では、ナチスの人種差別思想や戦前の日本の「国体」じゃな。
マイナスのことを意図的にあたかもプラスのように見せかけてしまう。
そして、困ったことに、それを本当に「在る」と錯覚してしまう人達が出てくる。
「日本のいちばん長い日(運命の八月十五日)」(大宅壮一編:角川文庫:昭和48年刊)を読むと、「国体」をめぐる無益な論争で貴重な時間を費やし、助かるべき多くの命を失ってしまったことが分かる」
「冒頭のインターネット上の情報の話もそうね。
それらの情報を無批判に、正しいとか、間違っているとか、思い込むのは、危険なことね。
そういえば、あたし、「ともちゃん」も、そうよ」
「ともちゃんは、在るのか、という話じゃな。
しかし、欧米の人がこの文を読んだらば、「神の存在」について、書いていないのを怪しむじゃろうて」
「まあ、そうでしよう。
ある意味、「神」こそが、人類史上最大の「イメージ」広告ですもの」
「そう。
神の問題で戦争も起これば、人も死ぬ。
人より神の方がなんと罪深いものか」
「アノー。コチラ、イエスデス。ワタシタチノコト、ゴカイシテマス・・」
「おじさん、おかしな声がしますが・・」
「ココニハ、モハメットサマヤオシャカサマモ、イマスヨ」
「うん。うん。
なるほど。分かりました。イエス様。概念を物と信じたればこそ、ということですか。
「神」や「仏」は、古代の人が作り出した優れた「概念」じゃ。
当時は、その概念で、この「世界」をうまく説明できた、ということじゃろう。
なんと言っても、神仏は、「万能」という属性を持たされているんじゃから、「不可能」という文字がありえない。
神仏で説明できない現象などこの世に存在せん。
こんなに、うまく説明できれば、当時の人々は、神仏の「存在」を信じよう。
ところが、段々に時代が下れば、神仏は、科学(=自然法則)という新しい概念にとって代わられてしまう。
もちろん、現代科学でも説明できない現象等は、多数ある。じゃが、それを今更、神や仏で説明されてもどうかなと思うのう。
つまり、古代の人たちと同様に、「神」や「仏」をあたかも人や物のように在ると考えるとそれは錯覚としか言いようがない。
そんな錯覚を元にすると、唯一神は、何じゃとか、神仏は、実在するか、しないかという、不毛の議論が始まってしまう」
「ヨクワカッタクレマシタ。デハ、サヨウナラ」
「おじさん、もう、行ってしまったようです」
「イエス様達も、せっかちですな。
もう少し、ゆっくりとしていかれれば、よいものをのう」
「ワタシハ、マダ、ココニイマスヨ」
「あ、お釈迦様ですか!?
え、なるほど。
お釈迦様の仰るには、この文自体も、正しいかどうかは、読む人がよく考えるように、伝えて欲しいって」
「まったく、そのとおりじゃな。
「釈迦に説法」とはこのことか」
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今回もご覧いただき、ありがとうございました。では、来月まで、どうか、お元気でお過ごしください。
今後とも、ご愛読のほど、よろしく、お願いいたします。
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