会員の皆様へ(2013年7月のご挨拶)

合理的と云うこと

目次

 蛙のにらめっこ
 坂の上の雲
 司馬遼太郎の小説の主人公と合理性
 射撃表とコンピューター
 合理的と云うこと
 終わりにあたって

蛙のにらめっこ

今年の3月7日の夜でした。ちょうど、啓蟄(二十四節季の一つ。3/5頃)の頃の生暖かい晩です。
 庭に出てみると、上掲の写真のように、だいたい2mぐらい離れて、大小の2匹の蛙が向かい合って、じっとしています。
 まるで、にらめっこをしているみたいです。

 左図は、2013年の2/27~3/11付近の東京の最高気温と最低気温のグラフです。
(気象庁のHPのデータを基に作成)
 3/4あたりを境にして、最高気温が急激に上昇していることが分かります。
 最低気温の増加は、僅かずつですが。
 さて、左側の蛙は、かなり大きく、体重では、右の小蛙の5倍ぐらいあります。
(体重測定はしませんでしたが)
 縄張り争いなのか、はたまた、お目合いなのか。
 縄張り争いでは、とても、小蛙に勝ち目がなさそうです。



 小蛙は、その数日後、物置のそばにあるコンクリートブロックの一つの穴の中にいることが分かりました。その後、そこで、今年の5月頃まで、暮らしていたようです。
 ブロックの穴は、小さいのですが、ちょうど、小蛙の大きさにはぴったりで、しかも、その深さは、約20cm程度と深く、簡単には、カラスなどに捕まえられないだろうと思われます。
 ただ、小蛙には、気の毒なことに、ブロックが立ててあったため、筒抜けで、屋根が無い状態です。
 大きな方は、どうも、物置の下にいるらしく、滅多に見かけませんでしたが、こちらは、物置自体が屋根代わりなので、やはり、大蛙だけのことは、あるわいと、妙に可笑しい気がしました。
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坂の上の雲

「ジャーン」


「おうっと、驚いた。ともちゃんか」

「坂の上の雲は、確か、3年にわたっての放送だったわね」

「そうじゃ。
司馬遼太郎氏(1923~1996)の原作によるテレビドラマ『坂の上の雲』は、NHKから、第1部(2009/11/29~2009/12/27)、第2部(2010/12/5~2010/12/26)、第3部(2011/11/26~2011/11/26)と3年間にまたがって、放送されたな」

「例のテレビドラマデータベースによるとね~。
 主題歌(作詞:小山薫堂、作曲:久石譲)、『Stand Alone』も素敵だったわ。
 あたしだって、原作(文藝春秋社:2004年4月新装版)を読んだのよ。
 だけど、テレビドラマ化は、作者が亡くなられてから後のことだったわね」

「日本とロシアとの近代の『戦争』を扱った小説ゆえに、司馬氏の生前は、ドラマ化を許さなかったそうじゃ」

「たしかに、小説では、情緒的な描写を、あえて、抑えていると書かれているんだけど、戦闘場面は、どうしても、生々しくなってしまうからでしょうね」

「まあ、そのような場面をまったく描写しないという選択は、難しいじゃろう。
 しかし、往々、そのような映像は、戦争の賛美、愛国心の発揚やロシアへの敵愾心をあおると懸念されたのじゃろう」

「放送では、そのあたりにかなり気を遣っているなあと思ったわ」

「それは確かじゃ。
 偶々じゃろうが、時期が韓国や中国との間での領土をめぐる争いが再焼しつつあるときに一部重なったな。
 わしなり思うのじゃが、司馬氏は、日露戦争を通して、明治という時代(1868年~1912年)を描きたかったのは、当然としてじゃ、同時に、日本人の中に潜む『合理性』と『非合理性』を描きたかったんじゃないかと思うのう」

「なるほど。そういう見方があるかも。
 でも、明治の頃にあったものが、全部、後々まで、残ったのかしら」

「それは、残ったものもあるし、消えたものもある。
 太平洋戦争(1941年12月8日の真珠湾攻撃~1945年8月15日のポツダム宣言受諾による降伏)は、日露戦争(1904年~1905年)の終戦から、僅かに、40年足らずしか経っていない。
 司馬氏も指摘されているように、明治の頃の政府や軍部にはあった、合理性(慎重さ、装備や武器の準備、日英同盟、アメリカへの停戦工作、ロシアへの革命工作など)は、太平洋戦争の頃には、まるで、別の国であるかのように、まったく無くなってしまっていたり、形を変えてしまっていた。
 他の人の筆を借りれば、日本人は、いわば、踊りながら、太平洋戦争に突入してしまった。
 一方で、理よりも情を優先するきらいがある非合理的な日本人の心のくせは、今でも、残っていると思う」

「合理的と言えば、海軍の方が陸軍よりも勝っていたみたいね」

「それは、言えるようじゃな。
 作中で、司馬氏が書かれていることじゃが、陸軍は、機械力よりも人数を頼みにしていた面が強い。
 野砲(軽カノン砲:機動性があるため野戦で多く使用される)の『三一年式速射砲』(明治31年に陸軍が採用)では、『駐退機』がなかったため、大砲の発射の度に砲車が後ろに下がってしまうので、ロープで引っ張って、元に戻すなど、手間と時間がかかり発射間隔がロシア側のものよりも遅かったということじゃ。
 また、なんといっても、砲弾不足に悩まされていたという。
 どのくらいの数が戦争に必要かという見積もりが数大変甘かったのじゃな」

「当初、用意していた砲弾を1ヶ月足らずで使ってしまったということね」

「砲弾だけでなく、食料などの物資の輸送手段にも事欠いたようじゃ。
 鉄道の線路や貨車は、ロシア側が放棄したものを利用できたようじゃが、肝心の機関車が最初、用意できなかったため、人力で貨車を押したという話も載っている。このように輸送や補給、すなわち、『兵站』という重要な概念を軽視する傾向は、太平洋戦争終結まで続いたようじゃ。
 俗に、『輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く~』とも揶揄された話(輜重輸卒と輜重兵とは異なるそうじゃが、重視されていなかった点は同様だと思う)も残っているくらいだからな」

「そこへ行くと、海軍では、船がないと、戦争にならないので、優秀な軍艦をなけなしの予算をはたいて、買い集めたのね」

「高橋是清などがヨーロッパやアメリカに公債募集にかけずり回ってな」

「そうした軍艦で、ロシアのバルチック艦隊を破ったのね」

「まあ、わしらは、東郷平八郎や秋山参謀による丁字戦法とよばれる常識破りの戦法や兵士の優秀さなどは、なんとなく聞きかじりはしていたんじゃが」

「そのあたり、司馬氏は、ロシア側と日本側の双方の記録や軍人、技術者に詳しく取材し、膨大な資料を基に冷静な観察を行ったのね」

「本を読むと分かるが、日本海海戦(1905年5月)の勝因として、東郷や秋山という指揮官や作戦以外に、当時、世界水準と言われた無線機、大砲の砲弾に詰められた下瀬火薬などの優れた装備、兵器の力があり、一方、バルチック艦隊側には、ロシア皇帝の判断力不足、日本の同盟国であったイギリスの妨害、艦隊司令官であった『ロジェストウェンスキー』の資質、兵員の練度不足など、多くの難点があったことが分かる」

「と言っても、バルチック艦隊は、はるばると、アフリカの喜望峰を回って、インド洋を通って、太平洋まで、出てきたんだから航海だけでも大変だったわね」

「秋山参謀が、『行こかウラジオ(=ウラジオストク)、戻ろかロシア、ここが思案のインド洋』と、バルチック艦隊の場所とその心情を推測して新聞記者に語ったと、作中にあるが、戦いの勝敗には、原因があるという、孫子の言葉を思いだすのう」

「海戦は、日本の大勝利とはいえ、戦艦『三笠』にも多くの犠牲者が出ているのに、艦橋(上甲板の中央から上に高く設けられた甲板)に立っていた東郷平八郎と秋山参謀は、少しの傷も受けなかったというあたり、まさに、運を感じる」

「司馬氏は、『東郷は、運のよい男であった』と記し、その言葉は、東郷を連合艦隊司令長官に選んだ、山本権兵衛(海軍大臣)のものじゃったということだな。
 船というものは、板子一枚下は地獄じゃからな。
 人事を尽くしても、なお、最後、人の力では、どうにもならない天命があるという考え方は、湧いてくるかもしれん。
 しかし、講和後に、秋山参謀があまり、天佑、天佑と言いすぎるので、それは、ちょっと、おかしいじゃろうと、先輩から注意されたようじゃ。
 出来得る準備をした上で、結果として、天の助けがあったので、最初から、『神頼み』していたわけではないということもあろう。
 とはいうものの、バルチック艦隊にしても、ロシア側の陸軍司令官のクロパトキン大将にしても、もし、彼らが・・であったらばと考えれば、終始、薄氷をわたるような危うさは、つきまとっていた」

「一方、非合理という点で、旅順の要塞攻略を行った、乃木希典(第3軍)には、相当厳しいわ」

「203高地の激戦など、旅順要塞の攻略では、203高地が戦いの主役だと思っておったが、乃木軍が要塞の中央突破に固執して多くの戦死者を出していたことなど、いずれも知らんことが多かったな。
 乃木希典は、死後、『乃木神社』に祭られ、神格化されたが、実像は、指揮官としては、劣っていた人らしく、この戦争でも、早々に、二人も男児を戦死させるなど、運の悪い男でもあった。
 さらに、その乃木を補佐するべき第3軍の伊地知参謀長が、融通の利かない無能な作戦家であったことが、乃木を悲劇の主人公にしてしまったようじゃ」

「児玉大将が203高地に攻撃を絞るように、乃木軍を督促し、攻城砲の配置転換を強制的に行わせたんで、ようやく、203高地を落とせたというんだけどね。
 運が悪いというなら、一番、運が悪かったのは、第3軍に配属された兵士や士官達でしょうが。
 203高地の激戦の後で、児玉大将と乃木が漢詩を作る会を催している場面は、非現実的というか、そんなことしている場合か、みたいで、理解できないわ」

「まあ、そういった点は、明治ならでは、とも言えるじゃろう。
 その頃、すでに大将、中将という階位の年配者でないと、漢詩は、作れん時代になっていたと書かれているからな。
 感覚的には、戦国時代の武将達の心情に近いかもしれん。
 漢詩ではないが、織田信長が、『人間五十年、下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか』(敦盛)を謡って、桶狭間に出撃したというエピソード(実際に見たわけではないからどこまでが本当なのかは分からんが)、そんな感じではないのかな」

「第3軍の突撃が、なぜか決まって、月の26日に行われた訳は、あまりの悲惨さを通り越して、まるでブラックユーモアだわ」

「東京の大本営でも、その点を不思議に思って、わざわざ、大本営から中佐を乃木司令部に送って、その理由を尋ねさせたということじゃな。
 その際、伊地知参謀長曰く、
『理由が3つある。一つは、(大砲の)砲弾の導火線が1ヶ月ぐらいで湿気って使えなくなるので攻撃が1ヶ月ごとになる、二つは、南山(砦)を突破した日が26日で縁起がよい、三つ目は、26という数字は、偶数で2で割り切れる、すなわち、要塞を割れるということだ』、と話し、乃木希典も、横でうなずいたということじゃ」

「このエピソードほど、第3軍の、ばかばかしいくらいの非合理的な戦いを象徴するものは、ないでしょうね」

「確かにな。
 司馬氏も、この挿話を紹介しつつ、『この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう』と結んでいる」

「その抑えた言葉が余計に非合理性を伝えてくれる。
 ロシア側司令官(ステッセル中将)も、当然、26日には、日本軍の攻撃があることを予測して備えさせていたということだけど、当然よね」

「日本軍が旅順攻略戦で多くの人的損害を出した一つの、他にもたくさんありすぎて、ここには書き切れんが、これも大きな理由だった。
 伊地知参謀長が挙げた、3つのうち、少なくとも後の2つは、全くの非合理的な内容じゃからな。敵軍が待ち構えている中に突撃して、むざむざと、殺されていった兵士達の霊は、浮かばれないな」
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司馬遼太郎の小説の主人公と合理性

「『坂の上の雲』で、連合艦隊の参謀であった秋山真之(さねゆき)と騎馬隊の指揮官であった兄の秋山好古(よしふる)、そして、俳人の正岡子規の3人を主人公にしている。
 特に、秋山兄弟は、合理的な思考を備えた人物として記されているんじゃな」

「そうね。
でも、秋山真之は、日本海海戦が奇跡的な大勝利(ロシア側の死者は約5000人、捕虜は、約6100人、対して、日本側の死者は、百数十人であったという)に終わって、佐世保に入港してまもなく、停泊していた戦艦三笠が深夜に火薬庫が爆発して沈んだという事故(約340名が死亡)のあたりから次第に精神的な平衡を失っていったということね」

「しかし、うかつじゃが、三笠が爆発して沈んだということは、知らんかったな。
 今、確か、横須賀に保存されている船は、三笠じゃなかったのかい?」

「そこなんですよ。
 そこといっても船の底ではないわよ。
 確かに、一度、沈んだんだけど、後で引き上げて修理して、また、使われたということなの。
 その後、三笠は、第1次大戦にも出動したり、様々な困難を受けて、最後は、スクラップ直前までいったんだけど、内外(特にアメリカ)の援助により、現在、横須賀港に保存されている。三笠こそが数奇な運命をたどったのよ」

「そういうことか。
 真之が日本海開戦前にさまざまな想定をして、シミュレーションをしていたということじゃが、彼が人一倍、想像力が豊かじゃったからなしえたと思うのう。
 しかし、同時に、文学的な才能もあり、そのことは、彼が感受性も豊かであったという印じゃろう。
 そのため、外部から受ける強い衝撃を内部で倍増させてしまう体質だったのじゃないかな。
 そういう意味では、秋山真之は、必ずしも、軍人には、向いておらんかったのかもしれんのう。
 兄の秋山好古には、そういう傾向は、見られないようじゃな。
 好古は、騎馬隊を指揮しながらも、当時、日本軍があまり備えていなかった機関銃を部隊に備えさせ、徹底して、合理的な戦いを行い、寡兵をもって、強兵となんとか対峙させた有能、かつ、剛胆な指揮官として描かれている。
 寡黙じゃが、諧謔を解するというか、ユーモアの才があったようじゃ。ユーモアというものは、緊張を解く効用があるからのう。
 わしの感じでは、司馬氏は、好古にもっとも好意を寄せているような気がするのう」

「『坂の上の雲』以外でも、司馬氏は、合理性を追求した人物を主人公にしている例が多いように思うわ。
 たとえば、『北斗の人』(千葉周作)、『花神』(大村益次郎)、『燃えよ剣』(土方歳三)、『空海の風景』(空海)、『関ヶ原』(石田三成)などね」

「『合理的』という言葉は、理に適うという意味じゃよって、果たすべき目的のための最適な手段を探求することじゃ。
 今、ともちゃんが挙げた小説の主人公達は、いずれも、その時代の中で、優れた合理性を備えていた人物じゃな」

「でも、合理的な人は、ときとして、冷徹、ひいては、冷血ともなり得て、民衆の間では、どうも、人気が出ないようね」

「それは、確かにそうじゃ。
 『関ヶ原」の石田三成より真田幸村が、「燃えよ剣」では、土方歳三より近藤勇が、そして、「空海の風景」では、空海(弘法大師)より最澄(伝教大師)の方が、どうしても、好まれる傾向があるじゃろう」

「今の私たちに人気があるかどうかだけじゃなく、石田三成がもっと違った性格であれば、関ヶ原で西軍が勝ったかもしれないし。
 といっても、昔に戻って、もっと、人付き合いをよくしたらなんて、忠告してあげるわけにはいかないわね」

「『情が深いため時に非合理的な行動を取る熱い人』の方が『合理的であるため時に情に冷たい人』よりも、大衆に好かれることは、洋の東西を問わないかもしれんのう。中国の『三国志演義』でも、軍師の諸葛孔明より、豪傑ではあるが情にもろい関羽や張飛の方が民衆に人気があるからのう」

「『坂の上の雲』の乃木は、情の深い人として描かれているけど、その情は、兵が何千人と死に、そのことを悲しんで詩を作ったりするという体のもので、目の前で無駄死に同然に死んでゆくの兵士達を救うために戦い方に工夫をしたり、無能な部下を叱ったり、有能な部下や外部の有力な助言を取り入れるという実際的な能力を欠いていたと、作者も述べている。
 まったくもって同感。というより、どうしてこんな人を司令官にしてしまったのよ、と言いたいわ」

「戦場での目標を、『最小の犠牲で最大の戦果を挙げる』とするならば、乃木には、その意識が希薄で、作中では、彼が明治という近代国家の軍人でありながら、江戸時代の武士としての体質(主君=明治帝のためには命を惜しまないが他の犠牲には目をつぶる)を色濃く残していたからだとも書かれているのう」

「海軍では、山本権兵衛により、維新の功労者というだけで、高位にあった海軍の軍人を戦前に一掃し、近代の兵学校で教育した軍人を登用したのに対して、陸軍が維新の功労者なり、長州や薩摩といった派閥を重視した人事を行っていたことが最大の不幸だったかもしれないわ。
 その意味では、一度、引退していたにも関わらず引っ張り出された乃木は、運が悪かったと言えるし、乃木自身も犠牲者だったとも言えるかも」

「まあ、こう書いて来るとじゃ、現代にも通じるものがあることが分かるじゃろう。
 今に至っても、変わらぬ日本人の特性というか、癖、がな。
 会社や役所で、派閥の力関係やあいつは嫌いというだけで不適切な人事が行われたり、また、はなはだ合理的でない方針や政策が行われたりする例が多数見受けられるのも、日本だけではないと思うが、特に顕著ではないかな」

「優れた歴史小説は、書かれた歴史を通して、現代の闇を照らすという効用があるわね。
 司馬氏が合理的な生き方、考え方をした人達を小説の主人公に選んだ本当の理由は、もちろん、わからないけど。
 多分、氏が本質的に合理的な人だからだったと思うわ」

「そうじゃな。
 以前、ある方から、司馬氏が書かれた色紙を見せていただいたことがあるがの。
『厚情必ずしも人情に非ず、薄情の道忘れる勿れ』とあった。
 この文章そのものは、司馬氏の作ではないが、その心情を伝えてくれる気がするのう」
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射撃表とコンピューター

「大砲の射撃表というものがある。
 大砲で砲弾を撃った際にどの位置まで飛ぶか、すなわち、希望する位置に砲弾を落とすためには、ある量の火薬だと射撃角度を何度にすれば、よいかということを知るための早見表のようなものじゃそうだ。
 下記の本によれば、ポケットに入るくらいの文字通りの本もあれば、大砲自身につながれていて、自動的に角度を調整する仕組みのものなどがあったということじゃな」

「ただ、自動的にと言っても、機械内部の構造は、『アナログ式』で予め計算された数値に合うように機械的な仕組みで歯車やカムなどで角度を調整する方式であり、当然ながら、その機械自身がその場で計算することは出来ないので、予め求めておく必要があったという訳ね」

「そういうことじゃな。
 そして、一つの大砲に対して、大体3000本くらいの弾道(砲弾の軌跡)を求めることが必要であり、1本の計算には、人手では、卓上の手回し計算機を使って、約12時間以上かかると見積もられていたそうじゃ。
 当時すでにあったアナログ式の「微分解析機」では、1本あたり20分程度でかかったとのことじゃ」

「なるほどね。
 それで、1台の微分解析機を使って、1つの大砲の射撃表を完成させるのに、1000時間=約40日かかることになるため、平時ならばともかくも、戦時においては、この速度は、致命的な遅さとなるか。
 つまり、せっかく作られた新しい大砲を戦地に送るのに、40日も待たないとならないのですから。
 そこで、(男性は戦地に送られていたので)若い女性を多数集めて、計算手として働かせていたと言うことね。原理的には、3000人で計算すれば、1つの大砲について、12時間で終わることになるから」

「さすがに、それほどは、速くはできんかったと思うが、それに近い状況は、あったということじゃ。
 そんなに、計算が複雑で、時間がかかるのは、主として地上が真空でないためじゃ。
 もちろん、それ以外にも影響する要素は、たくさん挙げられている。
 しかし、ともかくも、空気があることにより、砲弾には、重力以外に、空気抵抗(高さ、湿度、風向き、風の強さ、温度などにより異なる)による力が働く。
 そして、この力は、砲弾の速さや形状によっても異なるので、弾道を求める方程式は、連立非線形微分方程式となり、厳密解が求められないのじゃな。
弾道を求めるためには、どうしても、数値計算(と試射)が必要というわけじゃ」

「そこで、世界で最初の(真空菅式)電子計算機といわれる、ENIAC(エニアック)の開発の動機として、この射撃表作りの目的があったとされているのね」

「『計算機の歴史』(ハーマン・H・ゴールドスタイン著:末包良太・米口肇・犬伏茂之訳)(共立出版:1979年)に書かれていることじゃな。
 世界で最初の電子計算機という点は、かならずしも真実とは言えないという指摘もあるようじゃが、現代のコンピューターに大きな影響を与えたという意味では、ほぼ間違いではなかろう。
 と、ここまでは、以前も別の個所で書いたのじゃがな。
 今回、『コンピュータの発明(エンジニアリングの軌跡)』(能澤徹 著:テクノレビュー社:2003年12月8日)を読み返して、このENIACがペンシルバニア大学から発注者であるアメリカ陸軍の『弾道研究所』に納入されたのは、日本がポツダム宣言を受諾して降伏した1945年8月15日よりも後のことだったと指摘されていることに気がついたのじゃ」

「確かに。
 さっきの、ゴールドスタイン氏の本にも、1946年2月15日に正式な納入式典が行われたとあるわ。
 もちろん、正式納入前に、弾道の計算もテスト的に行われたことも書かれているけども。
 結果的には、大戦中には、弾道計算に間に合わなかったようね。
 で、陸軍に納入後は、ロスアラモス研究所で行われていた原爆を含めた原子物理学などの数値計算に使用されたとあるわ」

「いずれにしても、こういった個所を読むだけでも、アメリカを相手として、太平洋戦争を仕掛けたことは、まったくもって、無理なことであったことが分かるのう。
 しかも、アメリカだけではなく、イギリス、フランス、オランダなども含めてのことじゃからな。信じられないほどの無謀さとも言えるのう」

「同盟している国は、ドイツ、イタリアとの『三馬鹿同盟』だしね。
ところで、日本では、射撃表なるものを大戦中にどのように作成していたのか、という点を調べてなかったわ」

「それがよく分からないのじゃな。
 もちろん、射撃表や爆撃表(航空機からの爆撃用)を作っていたことは、事実じゃが。
 少なくとも、アメリカほどの規模で行っていたということはないようじゃ」

「トラクターやブルトーザーなどの土木機械も、大戦中には、実用化されずに終わったようだし」

「わしの母が言っておったな。
 敗戦後に、まだ、進駐軍がおった頃のことじゃそうだが、電信柱を進駐軍の兵士がほんの数人で、トラクターなのかブルトーザーなのかは、分からんが、機械を使って、あっという間に立ててしまったということじゃ。
 それを見て、母も、これは、日本が負けたのは、当たり前だと思ったという」

「そこが不思議なんだな。
 映画では、ドイツ兵が自動車やオートバイを走らせている場面があるのに、日本軍は、車を知らなかったのかしら」

「さすがに、自動車をしらなんだということは、なかろうが。
 日本に自動車が輸入されたのは、明治の末らしいが(1903年(明治36年)。かつての三越の前身である三井呉服店が自動車を購入したとWebにありました)、1923年(大正12年)には、日本で初めてのタクシー会社が東京に作られたようじゃ。
 翌年からは、『円タク』(懐かしい。わしの子供の頃は、こう呼んでいたものな)と呼ばれ、少しずつ利用が始まったということじゃ。
 国産車は、1935年に、日産、トヨタというようなメーカーが生産に取りかかったようだ。
 その後、軍用にも使用された。
 Wikiによると、陸軍に自動車学校というものがあって、関東軍に派遣されて自動車部隊として活動したとのことだ。
 しかし、戦時中は、飛行機、軍艦、武器などの生産が優先されたろうから、自動車まで、生産能力が回らなくなったと思う。
 肝心のガソリンも入手が困難になっていったからな。
 とは言え、自動車を含めて、どうも、機械力を重視していなかったとは思う」

「気合いで行けみたいなことかしら。
 こういった『非合理性』は、明治時代には、むしろ、昭和時代よりは、薄かったかも知れないわね」
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合理的と云うこと

「『精神一到何事か成らざらん』というような、物質よりも精神を重視する傾向は、日露戦争前夜からあることはあったようじゃ。
 たとえば、『八甲田山死の彷徨』(新田次郎 著:新潮社:1971年(昭和46年))を読むと、そういう傾向がその頃からあったと書かれている。
 ちなみに、第5連隊の悲劇とは、東北の八甲田山系を訓練場として、第8師団の第4旅団に属していた、青森の第5連隊と弘前の第31連隊が雪中行軍を競わされた末に、指揮官の判断ミスや装備の不十分さなどに折からの悪天候が加わり、青森の第5連隊の約200名が凍死した事件(1902年(明治35年)1月~)を指す。
 この事件を機に、装備の改良が行われる結果とはなったというがの。痛ましい限りじゃ。
 とは言うものの、何事につけ、曰く、精神力、というような空念仏を唱えるような傾向は、太平洋戦争前後に強くなったのじゃないかな。
 戦後は、その反動で、今度は、機械の生産に邁進して、今日の工業社会を作ってきたのじゃ。
 ところが、一昨年の、東日本大震災、特に、東京電力の福島第1原子力発電所の事故をきっかけに、科学離れとか、自然に帰れ、というような反動が起きているようじゃな」

「心の重視ね。絆とかも。
 悪いことではないと思うけど」

「そうじゃな。どうも、日本人は、急に方向を変えたがるきらいがある。
 バランス感覚がないというか、せっかちというのかな。
 まあ、心を重視するのは、よいことじゃが、機械を軽視したり、無視したりすることは、危険じゃ。
 二者択一ではないのだからな。
 福島原発の廃炉作業でも、ロボットの利用が促進されつつあるようじゃ。
 考えれば、これまで、そのような危険な作業に人間を従事させていたという、わしらの社会の非合理性が問われている気がするのう。
 他にも、そのような非合理的な作業や仕事があると思う。
 機械で出来ることは、機械にやらせるという方針を徹底する必要があらためてあると思う。
 『マイナンバー』法案もようやっと、国会を通ったがの。10年~20年は、遅かったという気がするのう」

「確かにね。
 名前と番号のどちらかが合理的かと問われれば、そりゃ番号でしょと答えるわよ。
 でも、ついこの間も、ある病院で名前を呼ばれずに、番号で呼ばれて腹を立てた人がいたとか、いないとか」

「日本は、同姓同名が少ないからじゃろう。
 先日のテレビ番組で、同姓同名の多い国ランキングという主題のところをちょっと、見たが、案の定、日本は最下位じゃった。
 つまり、同姓同名が一番少ない国の一つだから、逆に、マイナンバーの必然性というか、必要性に気がつかないのかのう。
 それはさておき、余談かもしれんが、2013年4月頃、『レーザー砲』の映像が公開されたのう。
 アメリカで開発が進んでいるものだそうだ。CGではないと思うがの。
 これまでの大砲や機関砲などでは、砲弾の反動を吸収する機構が複雑だったり、照準が細かく振動したりする。
 また、そして、当然じゃが、砲弾(ミサイルも同様)が目標に届くのに時間がかかる。
 レーザーは、光なんじゃから、速いし、反動もないじゃろうし、機械的な仕組みも簡便になる。一発の費用が安くなるとの試算もある」

「スターウォーズみたいね。
 光だったら、逃げるひまが無いわよ。
 と言っても、到達距離が短いんでしょ。確か、1~2kmくらいかしら」

「それはそうじゃ。パトリオットミサイル(PAC3)は、射程 20km以上じゃからな。
 しかし、考えてみれば、レーザーで1kmでも、空恐ろしい距離じゃ。
 技術の進歩は、驚くべきものがある。
 ENIACは、1970年頃の初期の電卓程度の計算能力と言われている(『コンピュータの発明(エンジニアリングの軌跡)』による)が、真空管18000本、重量30トン、175KW/hの電力(当時の大型放送局並み)を使い、その発熱量だけでも大変なものじゃったそうだ。
 当時(1946年頃)、いずれ、高性能のコンピューターは、ナイヤガラの滝の水量でもって冷却しないといけない規模になると言われ、従って、発熱量で規模の上限が決まるとも言われていたもんじゃ。
 しかし、トランジスター(1947年12月にベル研究所のショックレー博士などにより発明)などの半導体とその後の集積回路などの発明によって、ブレークスルーが起き、コンピューターの小型化、高性能化が急速に進んだ。
 現状(約半世紀後)は、ご覧のとおり、ということを忘れてはいかんな」

「実現可能と分かれば、開発が一挙にエスカレートするということね。
 良いことかどうかは別として」

「それが、合理的ということの一面ではないかな。
 自らに都合の悪いことにも、目をつぶらずに、考えることが、『合理的』だと思う。
 非合理的とは、現実を軽視したり、無視して、その代わりに、自ら、グループ、宗教、国家などの理念とか信条のみから、行動を計画したり、活動したりすることを指すと思うのじゃ」

「つまりは、いろいろな人の意見を聞いて、理に適った判断を行うことだわね」

「もう少し、付け加えると、目的、計画、実行、の3段階が、いずれも合理的であることが必要だと思う。
 非合理的な目的に対して、合理的な計画や実行方法で対処されると、恐ろしいことになる。
 たとえば、アウシュビッツのように。
 もっとも、ドイツ人であれば、日本人には言われたくないじゃろうな。
 お宅の『731部隊』はどうなのか、とな」

「なるほど。
 そう考えると、八甲田山の第5連隊の遭難事故では、目的は、日露開戦を考えてのことだから、第8師団の第4旅団長の指示は、合理的であり、第5連隊の計画も第31連隊の計画を参考にして、それなりに(人数が多すぎたかも知れない)合理的だったんだけど、計画では、研究のために随行するはずの大隊本部の大隊長が、実行にあたって、本来の指揮官である中隊長を差し置いて、命令を下すような非合理的なことが、起きたのが、事故の一番の大きな原因だったわね」

「そうじゃ。
 付け加えると、第4旅団長長の指示となっているが、第8師団参謀長の指導の下に行われながらも、正式な旅団命令は出ていないとのことじゃな。
 装備や予算の不備を指摘されないように、また、いざというときに責任を取らないための(まさに姑息な)計画は、とても合理的とは言われないじゃろう。
 また、第5連隊の計画も、大隊本部の随行する部分に、連隊長が懸念を示した、(と小説ではなっている)ように、やや非合理的な面があったと思う」
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終わりにあたって

 今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 今月は、遺憾ながら、戦争の話で終始した感があります。
 決して、私が『戦争大好き人間』や『兵器オタク』だからではありません。どうぞ、誤解なきようお願い申し上げます。
 合理的、非合理的、という題材にたまたま、当てはまっただけです。
 なお、文章や数字に記憶違いや写し間違いなどがあるかも知れません。ご留意ください。
 また、次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。
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作成日 2013/7/1、目次を追加 2019/5/5

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