1970年代、プログラムを作成する場合は、ハードウェアが直接理解できる機械語で作るほか方法はありませんでした。
その後、Basic(ベーシック)語を搭載したパソコンが現れ、BasicシステムがOSとプログラム作成言語の両方を担う時代が続きました。
しかし、Basicシステムは、OSをも兼ねていたため機種毎に開発する必要があり、また、プログラミング言語も大型計算機で使用されていたFOTRAN(フォートラン)等が使用できず、プログラムを作成する際、特にユーザーレベルではベーシック語が使用されました。
その頃、アメリカのデジタルリサーチ社がパソコンにとって初めてのOS(基本ソフト)としてCP/M(シーピーエム)を開発しました。
アプリケーションプログラムを作成する会社にとっては、CP/Mが動作するパソコンであれば、ほとんど同じプログラムが利用できるため開発工数が減るため大変歓迎しました。
また、ユーザーにとってもCP/Mを利用することによりBasic語以外のFOTRANやPascal(パスカル)といった言語やVisicalc(ビジカルク)といった表計算ソフトが利用できるため大いに普及しました。
しかし、日本では、一部のユーザーが使用するのにとどまりました。それは、プログラミング言語以外にCP/M対応の実用的なアプリケーションソフトがほとんど販売されなかったことが原因でしょう。
この背景には、実用的なソフトでは日本語を容易に扱えることが求められましたが当時の8ビットパソコンでは、荷が重すぎたこと、かな漢字変換が開発されていなかったことがあげられます。
当初は、デジタルリサーチ社のCP/M−16とMS−DOSとは互いにシェアを分け合っていましたが、価格がMS−DOSの方がやすかったためついには、16ビットパソコン用のOSとして標準的な地位を獲得しました。
その後、Ver(バージョン)2にいたって日本でも採用されはじめ、アプリケーションソフトを購入するとMS−DOSがついている(バンドルされている)時代でした。
MS−DOSは、他のソフトにバンドルされておらず別売されています。Ver3以降は日本で販売されるソフトの大半がMS−DOSに対応するという時代が続きました。
しかし、MS−DOSの基本画面では、無愛想なプロンプト(A>)が表示されるだけでしたのでとりつきにくいものでした。
そこで様々なメニューソフトと呼ばれるソフトが発売され、アプリケーションソフトの起動やファイルのコピーといったことも容易にできるようになりました。
MS−DOS自身もVer5からDOSシェルと呼ばれるメニュー画面を利用することができるようになりましたが利用している人は少ないかもしれません。
現在のバージョンは、6となっており、ディスクの圧縮や削除ファイルの復活といった機能もサポートとするようになっています。