会員の皆様へ(2009年8月のご挨拶)

判決の品質管理

目次

 日食
 丁半揃いました!
 えん罪と判決確率
 製品の品質管理
 クレーム処理の重要性
 判決の品質管理
 終わりにあたって

日食

2009年7月22日(水)は、東京でも部分日食が観測できました。
 上記の写真は、その際、庭に置いた青いビニールバケツの水に写った太陽です。
 右下の三日月型に白く光っているものがそうです。
 この写真は、だいたい、午前11時40分頃のものです。
 当日は、あいにく、天候が不安定で、雲が多い天気でしたので、一時的にしか観察できませんでした。
 鹿児島県トカラ列島の悪石島で皆既日食を観測しようとした人たちは、残念ながら、大雨になってしまったようです。
 インド、ブータン、硫黄島付近は、天候も良く太平洋上の船などからも、皆既の一部始終をよく見ることができ、その様子は、NHKの特別番組で紹介されました。
 とりわけ、興味深かったのは、洋上の船からの風景で、皆既の間は、あたりが完全に真っ暗闇になるのではなくて、水平線全周とその近くは、オレンジ色に光って見えるという点でした。
 なるほど、月の影が地球に写っているのですから、影の外側は、明るいので、このようになるとの説明でしたが、理論的には、確かにそうでも実感してみないとなかなか、分からないものだなあという感じでした。
 また、中国の上海は、天候が悪く、残念な状態だったようですが、前述の放送では、墨汁をバケツの水に溶かして日食を観察するという、中国のおばあさんの智恵が紹介されていたのも、面白いと思いました。
 昔、私が小さい頃、「たらい」の水に映して見た記憶があります。その頃は、我が家に洗濯用の「たらい」(木で作られた平たいおけのこと)があったのでしょう。
 小さいこどもは、たらいで行水をするというのが夏の習慣でした。
 しかし、上述の墨汁を入れるというのは、さすが、中国4千年の智恵!、という気がしますね。
 黒い水であれば、よりコントラストがハッキリした太陽の姿が映ったことでしょう。次回の参考にしたいものです。
 なお、3年後(2012年5月21日)には、金環食(東京では、午前7時35分最大食)が観察できるとのこと。期待したいです。
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丁半揃いました!

TBS放送の「水戸黄門」も今回(2009年7月)で第40回のシリーズを迎えるとのことです。
 ドラマ「水戸黄門」については、「水戸黄門大学」(http://www.tbs.co.jp/mito/univ_MITO/index-j.html)に詳しいのですが、放送の中で、時々、出てくる場面に「賭場」がありますね。
 そこで、私が、常日頃から思っている疑問ですが、壺振り役が「・・丁半そろいました!」というセリフを吐きます。
 ちなみに、「丁」は、丁度、「半」は、半端ということからきたようですが、2つのサイコロの目の和が偶数のときは「丁」、奇数のときは「半」なので、サイコロが正確であれば、確率的には、どちらも1/2の確率で生起します。
 とはいうものの、毎回のサイ振りでは、ばらつきがあるので、丁が続くこともあれば、半が続くこともあります。

 賭場の参加者は、たいていは、どちらかに偏ると思われますので、「揃う」ためには、誰かが、少ない側に追加して賭けなければなりませんな。
 ドラマでは、そこの場面が無く、すぐに「丁半揃いました!」となるので、違和感があります。
 おそらくは、「胴元」が追加していると思うのですがね。
 数学的には、少ない側に掛け金を追加することは特に必要なく、計算で(そろばんでしょう)、分配することもできるのですが、それもなく、賭け札(というのかな?)を勝った側が全部取ってしまうように見えます。
 ま、ドラマでは、「賭場」が主役ではなく、ドラマの背景なので、別に気にする必要もないのですが、TV画面では、すぐに「丁半揃いました」と来るので、「いつのまに揃ったのだい?」とひとり、ツッコミを入れてしまいます。
 何時の日か、きっちりと、そこのところを解明して欲しい(「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」(TV東京)でもいいのですが・・)なと思います。
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えん罪と判決確率

先日、えん罪事件がありました。詳細な説明は、省きますが、DNA鑑定が大きな決め手となって殺人罪で有罪とされた方が、再審請求のDNA鑑定の結果、無罪となった事件です。
 解説によれば、当時のDNA鑑定の精度は、現在に比して低く、数百分の一程度の割合で誤認識が起きるという状態であったわけですが、判決では、この誤認識の確率を結果として無視した形となりました。
 当時、裁判では、DNA鑑定の結果のみが取り上げられたわけではないでしょうが、現在の精度でも誤認識の確率は、極めてゼロに近いものの、完全にゼロとすることはできないわけです。
 では、どの程度、確率がゼロに近ければ、無視できるのでしょうか? あるいは、実際の判例では、どの程度以下は、無視されるのでしょうか?

 別の例を考えてみましょう。帝銀事件では、平沢死刑囚が出所不明の多額の現金を持っていたことが証拠の一つになったのでした。
 ここで、ある被告が1億円の出所不明の現金を持っていて、「宝くじに当たった」と主張したとしましょう。
 実際は、宝くじの高額賞金の場合、引き替えたときに記録が残るので、客観的な証拠はあるはずですが、仮にそのような証拠がないとしてみます。
 1億円もの賞金に当たる確率は、ゼロではありませんが、極めてゼロに近いです。
 この確率は無視できる程度でしょうか?

 今や、天気予報でも降水確率が言われるようになりました。判決でもどの程度の確率(だいたいの話でしょうが。たとえば、完全に、ほぼ間違いなく、概ね、などの言葉でも良い)(「判決確率」とでも言いましょう)で判断したのかを公表すべきでしょう。
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製品の品質管理

工場で物を作る際には、製品規格に合わない製品も発生します。
 通常、これらは、工程中に(たいていは複数の)検査工程(全品検査や抜き取り検査を行う)を設けることにより、一定レベル以上の製品が工場から出荷されるようにコントロールされます。これが品質管理(QC)ですね。
 しかし、こうした検査をすり抜けて不良品が出荷されてしまうこともあります。

 たとえば、抜き取り検査の場合は、生産者危険、消費者危険を考えます。
 前者については、抜き取り数検査を多くすればするほど手間が増加し、また、検査レベルを厳しくすれば、するほど不合格となるロットが増加するので不合格ロットを全品検査する頻度が多くなり、生産者に負担となります。
 従いまして、生産者危険率は、一定水準以下ににとどめたいと考えます。

 また、抜き取り検査には、破壊検査(耐久性、強度など)を伴う場合もあります。
 これらの検査も数が多いと手間も増えますが、当然ながら破壊検査の対象となった製品は出荷できないため、歩留まりが悪化します。
 これも一定レベル以下にとどめたい、という点も考慮する必要があります。
 生産者危険率をどの程度にするかは、出荷製品の品質がどの程度、重要なのかにより、様々な商業的な判断が入ります。
 一概に工学的に決めることはできません。

 後者の消費者危険は、合格ロット中に不合格品が混入するという危険です。
 これはゼロにはしたいものの、完全にゼロにするためには、コストが合わないことが多いので、ある程度の妥協が必要です。
 その妥協の程度は、製品の品質が消費者の生命や身体にどの程度、影響するかによって異なります。
 また、特定の項目について法律等により規制されている場合もあり、そのような場合は、極力、ゼロにすべき部分もあります。
 そうでない項目については、やはり、商業的な判断によります。
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クレーム処理の重要性

上述のような出荷製品の不具合は、自らが気づく場合もありますが、大半は、消費者あるいは中間業者、小売店等からのクレームとして顕在化します。
 注意すべき点は、出荷後、相当期間が経過してから不具合が顕在化する事例もあるということです。
 今、問題になっているアスベスト製品をはじめとして医薬品などでは、長期間経過してから不具合が発覚(あるいは発見)されることもあります。
 そこで、クレーム処理は、重要です。

 以前は、クレーム処理を「やっかい事」と考えて、後ろ向きの仕事と考えていた企業も多かったのですが、現在では、クレーム処理こそ、生産品の改良や工程見直しの材料の宝庫であると気がついて、前向きに取り組む会社が多くなってきました。
 (とはいうものの、クレームのためのクレームというか、言われ無きクレームを言ってくる消費者が多くなっているという問題は、ありますが。)
 そこで、クレーム処理の方法ですが、まずは、統計的な前処理が重要でしょう。

 クレームのデータベース(といっても、簡単なエクセル表でも十分なことが多い)を作成して、クレームの対象製品、クレームの対象となった品質(項目)、重要度、発生時期、申し出者、原因等を列記していきます。
 原因の追求が大切なことは言うまでもありませんが、それには、時間がかかります。
 まずは、特定の製品なり品質へのクレームが増えている「兆候」をとらえることが重要なことです。
 そして、その上でそれが重大なクレームと思われれば、詳細な分析を行い、自らが検査するなり、外部の検査機関に依頼して原因等の追及を行い、生産現場や品質管理部門に迅速に情報をフィードバックしていくことです。

 要は、過ちを犯さない人間あるいは工程はない、ということを肝に銘じて対処することが肝心です。
 これは、決して、工場や労働者を「性悪説」に立ってとらえるべきということではありません。
 善良な人間や注意深い人、あるいは誠実な企業でも過ちを犯す、ことがあると心得ることです。

 「過ちて改めざるをこれすなわち過ちという」という名言がありますが、「過ちて省みざるをこれすなわち過ちという」と付け足したいですね。
 自省を込めて付け加えますと、間違いを指摘されて、すぐ直す人がいらっしゃいます。
 もちろん、直すことは重要ですが、「なぜ間違えたのか」と自らに問いかけることが同じ過ちを犯さないために、より大切だと思います。
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判決の品質管理

この「今月のご挨拶」は、たいてい、題目を決めてから書き出すのですが、今回は、ちょっと、大きな問題を取り上げすぎた感があります。
 すでに識者が以前より論じられていることかも知れません。いや、論じられているべき事柄でしょう。
 当方は、法律や裁判について素人ですので、かえって、自由に書けるということはあります。
 以下、見当外れの妄言かも知れないことをお断りしておきます。

 そこで、判決の品質管理です。それって、何?、と言われそうですね。
 確かに、裁判は、間違いがない、という誤った認識に長年支配されていました。再審請求の門戸が広がったのは、昭和50年頃のようです。
 しかし、落ち着いて、考えてみると、第1審で有罪、第2審で無罪となるなど、正反対の判決が出る例は、それなりにあるようです。
 裁判の品質管理で重要な点は、
 「無罪であるべき被告を有罪にしない」、
 「有罪であるべき被告を無罪にしない
 という2点ですが、いずれも、神ならぬ身である裁判官に100%正確な判断を求めることには、無理があります。

 これは、大胆に言えば、先に述べた工場の品質管理と同様です。
 前述のクレームは、再審請求に当たるかも知れません。
 とは言っても、製品の品質管理との違いはあります。
 それは、「判決」に対する検査方法が確立されていないという点です。
 このような検査すると前述の2つの点の真偽を100%、判定できる方法が(現在のところ)無いということです。

 そのため、現在、3審制が取られていますが、上級審の判断が優先されます。
 この場合、上級審の判断に下級審の経緯なり判断がまったく影響を与えないのであれば、誤判率は、結局の所、最終審の誤判率で決まってしまいますので、3回やることによる誤判率の改善は、あまり期待できません。
 上級審は、下級審の判断に耳を貸す必要がありますし、当然のことながら、そうなっていると思いたいです。
 けれども、、下級審の判断にまったく左右されてしまうのであれば、上級審の意味が薄くなります。
 一方、上級審ほど裁判官の人数は、増えるので、多数決により、偏りが少なくなるであろうことは、平均を取るとばらつきが減少するという品質管理の手法に共通した点です。これを根拠にすれば、上級審の方の判断を上位に置くことに一定の意味はあるでしょう。
 と、ここまで、書いてきて、「誤判率」で試みに検索してみると出ました!
 「日本裁判官ネットワーク」(http://www.j-j-n.com/)に竹内浩史氏の書かれた記事(http://www.j-j-n.com/coffee/s_dodoitsu/dodoitsu17_070201.html)が裁判官の合議制について、数学的に論じていました。

 しかし、人数が増えればいいのか?、とも言えるでしょうね。
 例の裁判員制度が、いよいよ、というか、やれやれ、というか、始まりましたが、素人が大勢参加すれば、かえって、誤判率が増えてしまうのではないか、という点については、どうも、量的な議論がなされていないように思います。
 要は、現在の裁判の判決について、統計とその検証がどの程度なされているのか、という点。そして、その上で素人の集団を第1審に参加させると、現在の誤判率の値が、この程度に低下するという見通しであるという説明が必要でしょう。
 それは、無理であって、やってみないと分からない程度の話で本制度が始まったのであれば、裁判員制度は、ばくちのようなものですな。(丁か半か!)
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終わりにあたって

 今回もご覧いただき、ありがとうございました。では、来月まで、どうか、お元気でお過ごしください。
 今後とも、ご愛読のほど、よろしく、お願いいたします。
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