会員の皆様へ(2011年11月のご挨拶)

「非凡」の勧め

目次

 凡天
 梵天(王)
 光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』
 平凡は難しい
 『非凡』の勧め
 終わりにあたって

凡天

「『凡天』って、『梵天』の書き間違いじゃないの?」

「お~、ともちゃんか。
今年も残り少なくなったのう。
『凡天』は、下の写真にある、耳かきの先についていることがある小さなふわふわした丸い綿のようなものじゃ」
耳かきの凡天

ポンポンのようなものね」
「ポンポンというのは、紙や布で作る、フワフワしたもののことじゃな。
何かの飾り付けに使ったり、チアガールなどが手に持って振ったりするものか」

スターポンポン(マイクロソフト クリップアートより)
「チアガールが使うものは、どうやら、『スターポンポン』というもののようね。
ポンポンやさん』というページがあるわ。材質的には、布にアルミコートしたキラキラしたものが多いわね。
http://store.shopping.yahoo.co.jp/pomche/index.html」

「ふ~ん。ちょと、驚くな。こんなにたくさんあるとはな。
ポンポンというのは、一般には、フランス語の『pompon』(ふさふさしたもの)から来たという説が有力のようじゃ。
ボンボンとも言われるのう。こちら、フランスのお菓子の『bonbon』から来たとも言われている」

「で、凡天は、どっから来たのかしら」

「まー、フランス語起源ではないと思うがの。
一説では、修験者が着る『梵天袈裟』というものがあるそうじゃが、その袈裟についている丸いもの(梵天と呼ぶ)からというのがもっともらしいように思うのう。
これは、『耳掻き博物館』さんのページなどに記載されている。
ま、房飾りの変種だと思うがな」

「飾り用の房は、タッセル(tassel)といって、結構、手作りでも流行っていららしいわ」

「ほー。
お盆提灯などの飾りひもの先も房になっているな」

「年寄りらしいことを言うわね。同じようなものでしょうけど」

「そういえば、造り酒屋さんの軒先に『杉玉』を飾ってあったことがあったな。あれも、凡天的な『丸いもの』じゃな。
古の人は、丸いものに神秘を感じていたのかも知れん。
その意味では、神事などに用いる『梵天』(竹竿の先に御幣を束ねて付けたもの)が『凡天』の語源という説も一理あると思うのう」

「あと、延縄(はえなわ)漁に使われていたガラス玉も梵天と言われていて、ここから来たという説も紹介されているわね」

「そうじゃな。今は、材質がプラスチックなどに取って代わられていて、ガラスではなくなったようじゃがな」

「広辞苑(第6版)では、マクワウリのことを『梵天瓜』ともいうと書かれているわ。
梵天様もあちこちに引っ張り出されているのね」

「それは、知らなんだな。
こんなふうに、言葉は、だんだんに消えていくのかな」
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梵天(王)

梵天又は梵天王というのは、元々はインドの神様じゃな。それが仏教に取り入られて梵天と呼ばれるようになった。
『梵字』という言葉を聞いたことがあるじゃろう。サンスクリット語というインドで古くから使われている言葉じゃな。
もっとも、今、調べたところでは、インドには、公用語として、なんと、22個の言語あり、それに加えて、英語は、イギリスの植民地時代の名残で、準公用語としての地位を得ていると記されている」

「卒塔婆に書かれているアラビア語の文字みたいなものなのね」

「まあ、そうじゃ。卒塔婆は、サンスクリット語で『ストゥーパ』と呼ばれていて、漢訳される際に『卒塔婆』という字が当てられたのじゃな。
(だから、卒倒したお婆さんではないぞ。あ、字が違うか!)
ストゥーパは、元々は、釈迦の遺骨や遺品を収めた塔の意味じゃったが、次第に広く仏を供養するための塔を意味するようになり、日本では、簡略化されて今では木の板になってしまっている。
(私は、『ストゥーパ』が仏教以前からサンスクリット語では『塔』の意味で使われていたのではないかと思うのですが、類書やHPでは、ほぼ、このような説明しか見つからないため、ここではこのように記載しました。)
梵天は、ヒンドゥー教では、『ブラフマー』と呼ばれ、『シヴァ』、『ヴィシュヌ』と並んで3人の重要な神様の一人じゃそうじゃ。
お経に見える仏教的世界観は、下図のような広大なものじゃ。
(『密教曼荼羅』(久保田遥羅・F.E.A.R.:新紀元社)などを参考にしました)」

仏教的世界観

「梵天王の支配する世界は、欲界(6個あるんだ)と色界(物質界)な訳ね。
須弥山(しゅみせん)の下の方は、どうなっているの?」

「須弥山の高さは16万由旬(1由旬≒7㎞なので約56万㎞)で半分が海の中じゃそうじゃ。
ちなみに、上図では、金山や香海などを簡略化しているが、これらは七層となっている。
その外側に塩水の海が広がっていて、4つの大陸がある。その一つがわれわれの住む『閻浮提(えんぶだい)』ということになっておる」

「あ、孫悟空に出てくるやつね!。
孫悟空が術の修行にはるばると海を渡って着いたところが、閻浮提の南贍(なんせん)部州だもの。
というと、海の底はどうなっているかということが知りたいわ」

「そうじゃな。
実は、前述の本によると、虚空の中に、風輪(高さ160万由旬≒1112万㎞。周囲の長さは10の59乗由旬≒7×10の59乗㎞。
知られているわれわれの宇宙の大きさは、だいたい500億光年≒4.7×10の22乗㎞なので、途方もない大きさじゃ)があり、その上に水輪、水輪の上に金輪(こんりん)が乗っていることになっている。
その金輪の上に上図のような構造が乗っているとしている。
風輪などの内部が詰まっているのか、中空なのかは、よく分からんがな。
こんな感じかな」

「その本では、『金輪際』の語源がここにあると書いてあるわね」

「日本語には、仏教用語が語源となっているものが結構多い。
こんりんざいもその一つというわけじゃ。
海の底には金輪がありその底には水輪があるので、その境目を金輪際と呼んで、ここは、本当に底の底じゃ。
だから、今では、絶対というような意味に使っているのう」

「こういった世界を小世界と呼んでいて、梵天が支配というか、管理しているという発想ね」

「小世界を1000個集めて小千世界、小千世界を1000個集めて中千世界、中千世界を1000個集めて大千世界と呼ぶ。
すなわち、大千世界とは、10億個の世界の集まりというわけじゃ。これを三千世界と呼ぶ。
ちなみに、三千とは千を3回掛けるという意味だそうじゃ」

「まったく、インドの人の想像力には、脱帽するばかりね。
『インド人もビックリ』とよく言うけど、私に言わせれば、『インド人にはビックリ』の間違いじゃないの!と思うもの」

「大千世界を蓮の花の1枚の花弁に見立て、1000枚の花弁で作られた蓮華座に大日如来が座っているという話もある。
ということは、大日如来の光は、1兆個の世界をあまねく照らしているという、何とも有り難い話じゃ」

「ていうか、まったく、あり得ねぇ話じゃん。
太陽や月は、どこにあるのかしら」

「太陽や月は、須弥山の回りを回っているということじゃろう。
ま、確かに、観測とは無縁の観念上のものじゃから、今のわれわれの知識で批判しても始まらない。
(始まらなければ終わりだぞ)
ただ、面白いと思うのは、この世界観がある種のパラレルワールド(平行宇宙)になっていることじゃ」

「確かに。そのあたりがキリスト教とは違うみたいね」

「われわれの宇宙を考えても、常に、その外側は、どうなっているのか、という究極の疑問が残る。
あるいは、われわれの住む宇宙以外の宇宙があるのではないかと。
そして、無数の宇宙が、虚空に浮いては消え、消えては浮いているのではないか?
こう考えると、上のような世界観は、全くの絵空事とは言えない部分も含んでいると思う。
また、小世界が階層的になっていることも面白い」

「須弥山のなかには、四天王が守る四王天があり、頂上には、忉利天(とうりてん)があって、帝釈天が守っているということね」

「須弥山を含めて地上にいる『天』を地居天といい、夜摩天より上空にいるものを空居天と呼んでいるそうな。
全部で33人の天(王)がいるということじゃ。
ここで『天』というのは、天界の主(管理人か?)であるが、天界自身も『天』と呼ばれるので紛らわしい。
ただ、梵天や帝釈天などの『天』の寿命には、限りがあり、輪廻から逃れられない存在じゃ。
一方、如来や菩薩などは、欲界、色界を抜けて、無色界(精神世界)も抜けて、その外に住んでいるという考えじゃな」

「確か、兜率天(とそつてん)には、弥勒菩薩がいるということね」

「そう。弥勒菩薩がおわす宮殿を『摩尼(まに)宝殿』といい、49の妙なる輝きを放つ宝院で形作られている」

「ああ、思い出したわ。
その宝院の一つを模したものがインドの『祇園精舎』で、さらに、その一つを模したものが空海(774~835)が唐に渡ったときに密教を受け継いだ恵果和尚がいた青龍寺の向かいにあった西明寺と言われているのね」

「恵果和尚は、密教の系譜を受け継ぐ唐では唯一の人じゃったそうな。
ちなみに、密教では、大日如来-金剛薩埵菩薩-龍猛-龍智-金剛智/善無畏-不空-恵果-空海-という付法の系譜と呼ばれる考え方がある」

「それで空海は、密教の第八世という訳ね」

「そういうことじゃ。
この間のいきさつは、司馬遼太郎氏の『空海の風景』(中央公論社:1975年)に詳しい。
大日如来と金剛薩埵は、観念上のものじゃが、龍猛以降の人は、インドの人で、恵果は、中国の人じゃな」

「それはそうと、弥勒様や帝釈天は、仏像でも、なじみがあるけど、梵天様の像は、少ないんじゃない?」

「確かにな。
梵天様は、日本では、あまり活躍しているイメージがないなあ。
ただ、釈迦が悟りを開く前に多くの魔物がその邪魔をしたそうな。その際、帝釈天や梵天が現れ、釈迦を励ましたということじゃ。
また、釈迦が悟りを開いた際にも、その教えを広く世間に伝えることを勧めたのも梵天となっていて、このように、仏教上は、梵天王は、重要な役割を果たしている。
そうは言っても、梵天=小世界のようなものなので、上掲のような壮大な宇宙観は、小さな日本では、ピンと来なかったのかな。
日本での梵天信仰は、他の仏、菩薩や天などと比較して、特には行われなかったのではないかと思うのう。
有名な仏像としては、京都の東寺の講堂に(空海の企画による仏像による曼荼羅として)帝釈天と並んで立派な梵天像(四羽の鵞鳥の上の蓮華座に座す)がある。
奈良の東大寺の法華堂(三月堂)に梵天と帝釈天がある。
法隆寺にもある(『続 仏像 心と形』(望月信成・佐和隆研・梅原猛:日本出版協会:1965年)が、どうも、拝見した記憶が無い」
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光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』

「光瀬龍氏(1928年~1999年)の『百億の昼と千億の夜』(早川書房:1973年新版)は、わしがSF小説というものを知るきっかけとなった作品じゃった。
もう、かれこれ、半世紀近くも前のことになるのう。当時のものは、もう無いので、数年前に入手した本は、文庫版じゃ」


百億の昼と千億の夜「萩尾望都氏の手になるマンガにもなっているわね。1994年 秋田書店から刊行」

「最初に読んだときには、マンガは当然ながら無かったので、文庫版と同時に買ったんじゃが、原作にかなり忠実なものになっているなあ。
こういう風に描かれると、なるほど、シッタータや阿修羅王が生き生きと感じられる。
それにしても、梵天王は、地味じゃな。
帝釈天は、『シ』(惑星開発委員会:宇宙の外の存在で生命の存在を消そうとしていると考えられる)の手先にしても、美形に描かれているのにな。
そもそも、梵天王は、『シ』の手先なのか、そうでないかもハッキリとはしないからな」

百億の昼と千億の夜(萩尾望都)「ここでは、弥勒やキリストといった聖者や聖人が悪として描かれている一方で、シッタータ(釈迦)やかつて悪魔だった阿修羅がサイボーグになって対決するという大胆な構想になっている」

「ま、主人公達の名称はともかく、宇宙に対し感じる、私たち人間の世界の小ささとその存在する時間の短さ、はかなさを描いた作品という感がするのう。
なんというか、『スターウォーズ』などのように宇宙のあちこちに生命が発展したり、あるいは、互いに派手な抗争を繰り返すという体のものではない。
宇宙の因果を支配する『転輪王』でさえ、その存在を隠さねばならない相手とは、宇宙の外の者だったというエピローグが印象的じゃ。
宇宙の外というと、それは、前述の仏教的世界観では、如来や菩薩の世界じゃからな。
そのようなことがこの物語の背景のヒントになっているのかもしれん」

「『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり』という平家物語の冒頭の一節も思い出されるわね」
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平凡は難しい

「『凡』とは、おおよそ、という意味があるとのことで、『平凡』とは、普通、というような意味で使われている。
だから、『梵天』様とは関係が無いじゃない」

「ま、梵天と関係はないじゃろう。ボンという音が同じだけじゃがな。
梵天様がちょっと地味な存在じゃから、案外似ていなくもないかな。
平凡で思い出すのは、わしが小学校の時、何年生じゃったか、高学年じゃったろうが、作文に、『平凡な人生を送りたい』というようなことを書いたんじゃな。
そうしたら、当時の担任のH先生が、『平凡は難しい』というようなコメントをされたことが妙に引っかかったのじゃ。
H先生は、太平洋戦争に従軍して大変な苦労をされたから、本人が思ったり、努力してもどうにもならない宿命というものがあると教えたかったのか、あるいは、平凡な人生を送りたいと書いたわたしの消極的な姿勢を正したいと思われたのかなとも思う。
今でも、折りに触れて、思い出される」

「でも、あれよね、2011年3月11日の大震災を経て、みんな、平凡な人生の大切さを感じているみたいね」

「うん。それは、それでよいことじゃと思うが、あまり、そのことにとらわれすぎてもいかんと思うのじゃ。
日本では、ここ20年以上不景気が続いているので、学校を卒業して企業や官庁に就職して、結婚して、子供を育て、やがては定年を迎え、孫子に囲まれて人生を全うする、というような、わしらの親世代やわしらの世代では、それこそ平凡な生き方と考えていたことが、極めて、難しくなってしまった」

「まったく。
おじさん達の世代では、進学だけ考えていれば、なんとかなったでしょうが、私たちは、『就活』、『婚活』なんかも努力しなくては、平凡な生活はおくれないのだもの」

「平凡は難しい、という言葉が違った意味を持つようになってしまったのう」
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『非凡』の勧め

「じゃによって、いっそ、そんな『平凡』という幻想は、捨ててしまえ、と思うのじゃな。
平凡など求めずともよい、と割り切ってしまえば、人と異なった生き方でも臆することなく暮らしていけるのではないかと思う」

「で、それが非凡ですか」

「そうじゃ。
通常は、人並み外れて優れていることをいうのじゃが、ここでは、そういう誤解がないように『非凡』と括弧書きにしてみた」

「人と違う生き方をしろと言うことですか?」

「無理にそうせんでもよいがな。
ただ、『平凡』という一世代前の観念に振り回されないようにして欲しいと言いたい。
とらわれすぎると、平凡という夢を実現できないこと、それだけで人生に永遠に不満を感じてしまう人になるじゃろう。
それはその人にとっても周りの人にとっても不幸なことだ」

「積極的な意味では?」

「なんとしても、今の日本は、時間が停まっているように感じられてならんのじゃな。
こじんまりとまとまってしまったというべきかな。徐々に衰退していくのをただ待っているばかりという気がするのう。
ここは、一つ何か夢を描ける『非凡』人が現れて欲しいということじゃ。
とは言っても、ヒットラーの様な人は論外じゃ。独裁者は人気者の仮面を被って現れる、という言葉があるようにな。
消極的な意味では、すでに述べたように、人と違うというだけで、自他ともに、その人を軽々に判断をしないようにしたいということじゃな」

「その人、その人の生き方がみな、非凡ということが理想ですね」

「そうじゃな。そんな感覚を大切にしたいのう。
人は、みな、生まれながらにして仏性を持つという、そんな教えもある。
お互いに尊敬する考え方があれば、つまらない、争いなどは起きぬじゃろう」
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終わりにあたって

今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 また、来月も、本欄で元気にお会いできますよう願っています。 
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更新日 2017/1/28 一部追記 2017/4/6、目次を追加 2019/5/6

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