会員の皆様へ(2012年11月のご挨拶)

無意識的サギと意識的サギ

目次

 誤報!
 ノーベル賞が背景に
 疑問点はあったが・・
 無意識的サギと意識的サギ
 無意識的サギ(トリック)の影響力は強い
 無意識的サギ(トリック)の効用(思い込み、勘違いの力)
 自然が示す無意識的サギ(トリック)
 終わりにあたって

誤報!

読売新聞の読者であれば、2012年10月11日の木曜日の朝刊を見て驚いたでしょう。
1面トップ記事として、「iPS心筋を移植」という大見出しがあったからです。米国ハーバード大の森口講師らが実施という記事でした。
 同日の朝刊3面でも「iPS実用化へ加速」という記事で、アメリカでは、「暫定承認」という臨床応用のための制度があり、今回の移植は、ハーバード大学から暫定承認を受けて行われたということであり、日本では、今後どのように対応していったらよいか、というような視点での記事が掲載されました。
 さらに同日の夕刊でも、「死の間際 iPSしかなかった」という見出しで、同氏の写真入りで、感動的な記事が掲載されました。
 ところが、既に大方の皆様がご存じのように、10月13日の朝刊で、「iPS細胞移植は虚偽」として同紙自らが否定しました。
 この間の経緯は、10月26日の朝刊記事の中で、総括され、さらに、今回の誤報を除いても、過去に同紙が掲載した森口氏の業績に関する6本の記事中5本が虚偽の内容と判定され、誤報となりました。
 すでに、同氏に対する東京大学の処分の発表があり、また、新聞社内の関係者の処分も終わりました。
 以下では、今回の事件の責任を蒸し返す趣旨ではなく、なぜ「誤報」という事態が起きたのか、そして、今回の事件に触発されて考えたことなどを書いてみました。
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ノーベル賞が背景に

2012年のノーベル生理学・医学賞は、京都大学の山中伸弥教授とイギリスのジョン・ガードン博士の2名が受賞しました。
 このニュースが流れたのが10月8日のことでした。
 一方、10/13の誤報を報じた夕刊の記事によれば、同氏より、新聞社に最初に情報が寄せられたのは、2012年9月19日であったとされています。この後、いくつかのやりとりの後に、東大医学部付属病院の会議室で読売新聞社の記者による独占取材が行われたのが、10月4日の午後であり、6時間にわたったとあります。
 この時点では、山中教授の受賞は、確定していなかったわけですが、山中教授は、すでに以前よりノーベル賞の有力候補となっていたため、科学部の記者としては、iPS細胞の移植という情報提供に、大きな衝撃を受けたものと思われます。
 山中教授が有力候補の一人であることは、2012年9月19日の朝日新聞記事でも、アメリカの学術情報サービス会社である「トムソン・ロイター」が、2010年に山中教授を同社の受賞予想者の一人として選んだことが報じられていることからも明らかです。
 記者が得たiPS細胞移植という情報は、学問的にも重要なだけでなく、臨床的に応用され患者が救われたという点でも、極めて価値があったと推察できます。
 そして、10月8日の山中教授の受賞発表以降、メディアがこぞって、iPS(induced pluripotent stem cells:ヒト人工万能幹細胞)関連のニュースを大きく報道するようになったことで、いっそう、重要性が高まったでしょう。
 特に、注意したいのは、同氏が10月10日、11日(現地時間)にアメリカの学会で詳細を発表するということが記者に知らされていたことです。このため、新聞社としては、早く掲載したいというあせりがあったことも見逃せない点です。学会で発表されてしまえば、せっかくのスクープの価値が下がります。10/11の朝刊記事は、ぎりぎりのタイミングであったと思われます。
 すなわち、今回の誤報の背景には、1987年の利根川進氏以来、日本人が25年ぶりのノーベル生理学・医学賞受賞という話題性と学会発表前のタイミングで掲載したいという大きな2つの要因があったと思われます。
 これが、たとえば、学問的には、重要な事項であっても、一般受けしない話題であれば、記事も小さな扱いとなるでしょうし、掲載時期も学会発表後の適宜、でよいという判断になったでしょう。
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疑問点はあったが・・

私は、10/11の記事を見て、すごいことだな、と単純に感動してしまいました。
 ただ、10/11の朝刊3面内に、「氷点下の過冷却の状態でiPS細胞を増殖した」という記述がありましたが、そんな低い温度で増殖するのかなとは、少し疑問に思いました。
 しかし、細胞の写真まで載っていたので、それを信じるなというのは、無理がありました。
 同日の夕刊には、「日本では無理だった」という副題があり、これもなんとなくですが、アメリカならありかも、という不明瞭ながらある種の説得力がありました。
 これらの点を含めて、10/26の総括記事では、情報を得た記者自らが疑問点として、次の点を考えたとのことです。
 ・ブタで行われたとされる心筋移植実験の論文が未公表であること。
 ・同氏の肩書きが「ハーバード大客員講師」となっているが、インターネットで調べるとハーバード大の名簿にはない。
 ・手術が行われたとされるマサチューセッツ州総合病院で臨床試験をした人の取材ができない。
 ・iPS細胞の働きで成功したのではない可能性もある。
 ・大ニュースであるのに、学会での発表形態が「ポスター発表」というのは不自然である。
 ・iPS細胞を用いた臨床試験がハーバード大で本当に許可されるのか。
 しかし、記者は、デスクにメールでこれらの疑問点を送った後、特段の指示がないため、かえって安心してしまったという。
 一方、デスクは、記者がこれらの点を後で確認したと思い込んでしまったという。
 同紙の報道以降、共同通信も同一内容を配信したことにより、一時は、大ニュースとして全国を駆け巡ってしまいました。
 その後、各社の取材により、暫定承認や手術の有無という根幹部分での疑問点が次々と浮上し、10/13に同紙自らが今回の移植記事を誤報とし、10/26に今回以外の過去の6回の掲載記事の内5回分を否定するという異例の事態となりました。
 残念な点は、記者が最初に考えた疑問のいくつかを追加取材すれば、これらの疑惑にすぐに気がついたと思われることです。同紙が過去に6回も同氏関連の記事を掲載していたことから、記者側に同氏を信じる気持ちが強かったと思われ、これが災いして、客観的な事実を見るべき目が曇ってしまった言えるでしょう。
 付言すれば、記者が「事実」である信じた要因として、見せられた「写真」や「動画」以外にも、取材が「東京大学医学部付属病院」の会議室でおこなわれたこと、「ハーバード大学」、「アメリカ」、「マサチューセッツ州総合病院」というキーワードに「箔」を感じた点があったと思われます。
 権威ある「場所」を利用した詐欺行為には、「かご脱け」と称するものがあります。今回は権威を持った大学病院の会議室であったことから、これに類似しています。違うのは、同氏が大学に無関係ではなく、同大の特任講師であった点であり、これは、「場所」の効果をより高めたことでしょう。
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無意識的サギと意識的サギ

以下では、今回の事例から離れて、一般的な「サギ(トリック)」について、考えてみましょう。
 ここでいう、「サギ」とは、日本の刑法で言うところの詐欺罪に問われるものだけでなく、相手の了解を得ずに真実を偽る一般的な行為を指すものとし、「善」、「悪」という倫理的な判断は、無視しましょう。
 たとえば、古い例ですが、「エヴァ・C」という女性がいました。1912年頃、憑依状態に入ると無意識的に、さまざまな物体を出現させる「超常現象」を演出した女性です。これは、宮城音弥氏の「神秘の世界」(岩波新書:1961年11月初版:1968年9月第11刷)によります。要は、本人自身は、憑依(トランス)状態になっており、普通の判断ができないように見えるが、特定の人の教唆により、あたかも意識的に手品を行ってしまったということです。結果としては、二人による手品(トリック)でした。
 しかし、手品の場合は、手品師が意識して欺くのであり、トランス状態では、できないのですが、エヴァ・Cの場合は、無意識的に共犯者の示唆により行うため、かえって露見しにくかったということです。この場合は、「霊媒」の「実験会」で写真が撮られており、それがサギとされる決め手となったとのことです。
 「霊媒」や「実験会」など、耳慣れない用語が出てきました。まさにオカルティズムです。
 20世紀の初めには、通常の科学では、説明ができない現象、特に、透視、念力、未来予知能力などに対して、興味が高まっていたようです。日本でも「こっくりさん」と呼ばれる複数人で、行う、占いが流行しました。
 横溝正史の「悪魔が来たりて笛を吹く」の中にも、こっくりさん占いの場面が登場します。
 また、哲学者 井上円了(1858年~1919年)を取り上げたNHKの番組(2011年10月12日 歴史秘話ヒストリア)でも、 明治~大正時代に活躍した「妖怪博士」こと、井上博士がこっくりさんの秘密を深層心理として説明したとされました。こっくりさんに参加した人達は、そのことを意識していないため、「これは不思議だ」、という感覚が湧くというものです。
 このような例は、「無意識的サギ」と称されるものです。ある種の宗教などでも利用しているでしょう。
 一方で、通常のサギは、意識的に行われます。 「振り込め詐欺」などは、典型的な例です。
 この2つのサギでは、無意識的なサギの方が見破りにくいでしょう。サギを働く側にだます意図がない分、かえってだまされやすいのです。
 いずれにしても、サギにかかる人がサギを働く側を信頼していれば、それだけ、この「不思議感覚」は、増強されます。
 カルト宗教にはまったり、簡単にオカルト現象を信じてしまう人には、人を信じやすい人(=善人)が多いと思われます。そのような善人が、さらに周囲の人達に働きかけると、どんどん、信仰者が増加してしまうこともあるわけです。
 江戸時代末に熱狂的に流行した「ええじゃないか」(おかげ参り)なども一つの例です。人々の生活が圧迫されていたり、厳しく統制されていたりすると、あのようなヒステリー現象が起きるようです。
 そういえば、先日の中国の反日デモでも、一部にヒステリックな行動が見られました。文化大革命による紅衛兵運動もそうした傾向があったでしょう。
 信心を持たない悪人よりも信心を持つ善人の方が、かえって、大きな災いをもたらす歴史的な事例を挙げるときりがありません。
 戦前の日本の国粋主義やドイツのナチズムなども、ある種の宗教といえるでしょう。この種の中心には、無意識的サギ師がたいていはおり、配下の者の心をつかんでいます。配下の者は、心底から信じている者や功利的に従っている者など様々ですが、結果としては、この種の信仰を拡大してしまい、場合によっては、それにより、多数の犠牲者が発生します。現代では、「オウム真理教」がそのような典型例として挙げられるでしょう。麻原死刑囚が意識的サギ師なのか無意識的サギ師なのかは、もはや、解明できませんけれど、ある程度、本人が信じ込みやすい素質を持っていたのではないかと思われます。そのため、半ば、無意識的にサギ行為を働いてしまい、周囲の者が信じて単純に驚くことから、自らも、半ば、信じ込んでサギ的な行為を止められなくなってしまったのではないでしょうか。
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無意識的サギ(トリック)の影響力は強い

今回の記事は、当然ながら、記者自身が「事実」と信じてしまっていたため、新聞が前節にいうところの「無意識的サギ」を働いてしまったわけです。これが記事全体に「迫真的な」現実感を与え、その結果として、多くの読者を欺くことになってしまいました。
 また、その過程で、専門家や恩師の方にも、いくつものコメントをいただいた点も、罪深いことでした。今となっては、狐に化かされた感があります。
 さすがに、山中教授の談話は、10/11の段階では、「論文掲載前の情報で詳細が不明でありコメントできない」というものでした。
 今回は、検証されて、2日後に訂正があり、サギが早期に分かったことは、よかったです。
 しかし、過去の5本の記事までが、誤報とは、驚きます。記者はともかく、同業の学者達がどう思っていたのか、このあたりは、いまだに不明です。もっと、早い段階で分からなかったのかどうか。意図せずに、個人のための「提灯記事」を書いてしまったことは、残念でした。
 とはいえ、今回の事例で、この種の「無意識的サギ」により、情報の操作が容易にできることが証明され、一方、早い段階で、たとえば、複数人の記者による取材や他社との共同取材などの形態をとっていれば、サギに気がつくのも早かったであろうことが明確になったことは、貴重な経験と言えるでしょう。
 人が無意志的サギにだまされやすいという面白い事例があります。
 トランプのポーカーゲームにおいては、しばしば、自分の持つカードを偽って賭を行います。これを「ブラフ(bluff)」と呼んでいます。通常は、意識して、偽る(=意識的サギ)のです。これは、普通の人には、なかなか難しい。表情や声などに表れてしまいます。従って、無表情のことを「ポーカーフェース」という言葉もあるくらいです。
 ところが、デンマークの物理学者のニールース・ボーア博士の逸話の中に、この種の「無意識的サギ」の例がありました。
 あるとき、ボーアが仲間の学者達とポーカーを行っていたときのことです。ボーアがひどく、自分の手(カードの組)がよいことを吹聴したため、競り合いに耐えかねて、皆が降りてしまったところ、最後にボーアがゆうゆうと自分の手を見せました。ところが、一番驚いたのがボーア自身で、彼は、カードの模様を見誤っていたのでした。すなわち、彼自身が強いカードの組合せであると心底から信じていたので、それが大きな説得力のある「ブラフ」を演じさせたということが分かったのです。
 このように「無意識的サギ」が強い影響力を持つことは、スポーツなどでも、多くあるでしょう。少なくとも、自分自身に暗示をかける力が強い人(=自信を持つ)の方が、同じレベルの力の選手同士で競り合うときに、結果がよくなる要因と思われます。
 しかし、このとき、自分やコーチなどが、意識レベルで「強い」と言い聞かせても、だめで、そのことを本人自身が「事実」として信じ込まないと、かえって、結果が悪くなることは、「勝つと思うな 思えば負けよ」という「柔」の歌詞にも見られるとおりです。
 このような、望ましい意味の「無意識的サギ」を起こす要因として、既に記載しましたが、「場所」の効果は大きいでしょう。
 よく知られていますが、野球やサッカーなど、「ホーム」と比較して、「アウェー(away)」(敵地)では、どうしても弱いというのも、「応援」を除けば、「場所」が与える心理的な効果でしょう。
 場所以外にも目から入る情報は、大きいです。私たちが仏像や寺院などを見るとき、大きい、輝かしい、などの特徴があれば、より印象が深くなります。
 これは、奈良 東大寺の大仏や平泉の金色堂などを考えるとすぐに分かることです。
 あるいは、異性と会う場所を「ロマンチックな」場所に選択することが効果的であるという説も喧伝されていますね。
 また、インターネットでお世話になる、Google検索でも、上位にアップされるためには、より重用(ランクの高い)なサイトからリンクを張られていることが大切であると言われています。この「ランク」の概念も考えてみれば、一種の「箔」であると言えます。
 こうして考えると、人や物の、「肩書き」、「衣装」、「体裁」、「建物」、「学歴」、「年齢」、「容姿」、「外観」、「歴史」、「出身」、「色」、「形」など、その「本質」を見抜くことを妨げるものは、ほとんどすべて、「箔」であり、「サギ(トリック)」であるとも言えます。
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無意識的サギ(トリック)の効用(思い込み、勘違いの力)

前節まで、無意識的サギのマイナス面を主として述べた形となりました。
 しかし、プラスの面について、スポーツ以外の重要な働きを挙げておかないとバランスを失するでしょう。
 それは、科学の進歩に及ぼす「無意識的サギ」の力です。
 換言すれば、無意識的サギの効用は、「思い込み」、「勘違い」などによる「推進力」です。
 たとえば、ギリシャの「プラトン学派」では、物質を5種類の正多面体と対比させて考えていました。通常の3次元空間では、正多面体は、正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体の5種類しかありません。これは、当時考えられていた、水、火などの5元素と関係があるのではないかと。このような対比は、現在では、否定されていますが、ユークリッド幾何学が自然の解明という動機(それ自体は確かに勘違いだった)に支えられて進歩しました。
 また、中世では、錬金術が盛んに試みられました。鉛や水銀から金を作ろうというものです。元素を他の元素に化学的操作で変換することは、できないので、これも思い違いではありましたが、この無駄な試みの中から、様々な化学物質や化学分析、器具などの進展が図られたのです。
 あるいは、天体観測は、そもそも、未来の予知のためでした。すなわち、天体の運行が人間の運命や国の将来を占う基礎となっていたのです。このような考えももちろん間違いでしたが、天体観測から、天動説という、やはり、間違いではあったけれども、重要な段階を経て、地動説やニュートン力学も生まれたのです。
 現代では、ハイゼンベルクの不確定性原理は、文字通り、「原理」と信じられてきましたが、最近、観測問題に関して、拡張されるべきであると指摘されています。(小澤正直:「不確定性原理・保存法則・量子計算」:日本物理学会会誌:2004年3月)。とは言え、不確定性原理が量子力学の建設に大いに、というか、不可欠であったことも事実です。
 通常の科学の教科書では、このような紆余曲折を無視して、一本道で、科学が進歩してきたように記述します。もちろん、生徒をまごつかせないためであり、また、記述を簡素にするためでもあります。けれども、現実の科学史は、大きく異なっていることは、知っておく必要があるでしょう。すなわち、間違った前提や思い込みから、やがて、正しい結論が出てきたことをです。
 興味を持たれた読者には、「思い違いの科学史」(朝日新聞社:1978年1月:青木國夫・板倉聖宣・市場泰男・鈴木善次・立川昭二・中川茂)をお勧めします。
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自然が示す無意識的サギ(トリック)

自然は、果たしてどうでしょうか。ここでは、自然を物理法則と等しいと考えます。
 自然は、故意に人を欺いたりはしませんが、一方、素直に、その正体を明らかにもしません。
 この意味で、自然は、「無意志的サギ」による目くらまし(人間にとってはそう思える)を用いて、その本質=真理を私たちが見ることを妨げていると言えましょう。
 以前、ギリシャにおける自然哲学について、少し触れました。当時の人にとっては、水や火などが自然を構成する基本要素のように思えたのです。
 しかし、その後、原子や分子の発見により、たとえば、水は、人間の目には直接見えない分子から構成されていることが明らかになりました。さらには、原子も、電子や陽子などの素粒子により構成されていると・・・。未だ、その終着点は、明らかではありません。
 そう、ここまで、考えてくると、自然の行う「無意志的サギ」は、「欺瞞」ではなく、それもまた自然の持つ一面であることに気がつきます。
 すなわち、水は、確かに、水素原子と酸素原子の結合した水分子からなるものですが、私たちがふだん目にする、川の流れや雨、海の波、雪や氷、沸き立つ蒸気など、その姿もまた、水であると言えます。
 やあ、禅における「十牛図」も思い出されました。(またしても、「奥のわき道」ですか)
 もし、あなたが、本当に上記のように思えるとすれば、十牛図の9の境地かも知れません。
 ちなみに、十牛図(十牛禅図)とは、宗の「廓庵(かくあん)師遠」が考えたものという。悟りへの道のりを牛を探す牧童に例えて図解したもの。
 「続 仏像 心とかたち」(望月信成・佐和隆研・梅原猛:NHKブックス:1965年第1刷、1983年第60刷)に、望月先生が書かれていることを簡単に要約しますと、
1.尋牛:山中を牛を求めてさまよう牧童。牛を捕らえる縄などはもっているが牛の姿が見つからない。
2.見跡:牛の足跡を見つけた様子。
3.見牛:牛の姿を見つけた様子。
4.得牛:牛を捕らえた童子。しかし、牛は、暴れて、牧童の言うことを聞かない。
5.牧牛:牛を手なずけて飼えるようになった。
6.帰牛帰家:手なずけた牛を連れて家に帰る牧童。
7.忘牛存人:牛を連れて帰ったが、考えると、牛は、自分の心の中に居たことに気がついた。
8.人牛倶忘:自分という存在も本来ないことに気がついた。
9.返本還源:人も牛も本来あるように在ることに気がついた。
10.入鄽垂手:進んで人と交わり衆生を済度する様子。布袋様の姿が描かれていることが多い。
となります。
 私たちの科学の探究は、対象によっては、6番ぐらいまでは、進んでいるものもあるでしょう。
 あるいは、ようやく、3~4番程度までしか来ていないものも多いでしょう。
 もちろん、1番の段階に在るものも、あります。
 だからこそ、自然の提示する「無意識的サギ(トリック)」を見破ることは、推理小説を読むのと同様に面白いのだと、といえるのかも知れません。
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終わりにあたって

 今回もご覧いただき、ありがとうございました。
 また、次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。 
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