2018年3月のご挨拶

年の表記方法(和暦と歴史、六十干支、西暦の改暦)

目次

 はじめに
 日本の元号(年号)
  元号で使用されている漢字の回数や割合
 大化の改新
  注1 古代の天皇一覧
  注2 皇室と蘇我氏の系図
  注3 大化の改新前後の歴史(『隠された十字架』の記載を基に編集)
 十干十二支(六十干支)
  十干と十二支
  日本書紀に見る日付の表記例
 ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦
 年と年度(2018/3/10追記)
 昔の事件の日付の表記(2018/3/10追記)
 遅すぎた「省庁データ 西暦に統一」(2018/7/1 追記)
 平成の次の年号(元号)(2019/1/4、2019/4/1、2019/4/5 追記)
 令和を迎えて(2019/5/1 追記)
 終わりにあたって

はじめに

「新聞などのニュース記事では、5W1H が肝心と言われるじゃろう。いつ(when)、どこで(where)、だれが(who)、なにを(what)、なぜ(why)、どのように(how)、ということじゃな。この6つの要素のなかでも、特に重要なのが、いつ、と、どこ、じゃ。その、いつ、なのじゃが、日本の新聞では、年の表記法として、和暦と西暦が使われている。並記している場合もあるが、大抵は、どちらか一つじゃな」

「たしかにね。
 『20年には、・・・』とか書いてある場合、これは、2020年のことなのか、平成20年の話なのかなと、読者が考えないといけないわ」

「 ともちゃんかい。3月になるというのに、なかなか暖かくはならないのう。

さて、西暦だと、数字4桁となるので、縦書きの紙面が多い新聞では、縦に2018年と書くか、半角の数字2桁で18年、ここで、数字2桁は、いわゆる、縦中横で編集というようなことになる。

一方、和暦は、数字2桁なので、そこは楽なのだが、平成とか昭和などの元号を書かないと分かりにくい。元号まで含めると、西暦の場合と、その利用する長さは、さして、かわらない」

 

「そう。元号を含めた和暦や西暦4桁は、紛らわしくないけど、数字2桁のみの場合は、問題ね。こいつが、和暦の元号を略した数字なのか、西暦の下2桁なのか、内容から考えないと分からない場合もある」

「その通りじゃ。コンピューターの『西暦2000年問題』を思い出してほしいものじゃ。

※ 西暦2000年問題は、1960~1980年代頃に開発されたコンピューターシステムでは、データの節約のため、日付の年部分を西暦下2桁で保持していたケースが多かった。このため、2000年になった場合、その数がゼロとなり、システムの誤作動などが起きると恐れられた。実際は、2000年以前にデータフォーマットやプログラムの改修を間に合わせたため、社会的に大きな影響を与えた例は、少なかった。(2018/3/13追記)

ついでに言えば、和暦だけだと、紛れはないものの、海外の人には、伝わりにくい、また、後世の日本人も西暦に換算する手間がかかるじゃろう。今や、国際化が進み、また、あらゆる文章がデータベース化されて残るご時世なんじゃからな。100年後の人のことを考えてみて欲しいものじゃ。(2018/3/13追記)

ま、今回は、そのような問題意識を持って、書き出してみたんじゃ。しかし、元号から、大化の改新に話を進めて、久しぶりに、梅原猛先生の『隠された十字架(法隆寺論)』(新潮社:昭和50年6月15日第27刷)をパラパラと読み返してみた。

 
 上掲は、法隆寺金堂 1965年撮影。

ところが、字は小さいし(これは、老眼が進んできているせい)、難しい人名が頻出するし(梅原先生の責任ではない)、さらには、ほとんど、絵がないので(マンガ版『隠された十字架』はないかのう)、なかなか、理解が進まない(それは脳の老化が進んでいるためでもある)のじゃな。

そこで、歴代の天皇の一覧を作ってみたり、本の最初のあたりにある、皇室と蘇我氏の系図をExcelに写してみたりすると、多少、登場人物が分かってきたような気がする。だが、系図とは言うものの、相関図とでも言うべき複雑さ。半日がかりで、『皇室と蘇我氏の系図』を写したんじゃが、くたびれた。もう一つの皇室と藤原氏の方は、省いてしまった。天皇の一覧表の抜粋を注1に、皇室と蘇我氏の系図を注2に掲げた。

さて、同書で引用されている、日本書紀などの記事には、十干十二支(=六十干支)による日付の表記が含まれておる。以前、読んだときも、気にはなっておったが、本筋には、あまり関係が無いので、読み飛ばしていたんじゃな。今回は、そのあたりを取り上げてみた」

「なるほど。年と日は、国や時代により、その起点の違い(年ならば、冬至か春分か、日ならば、日の出か日没か)は、あっても、基本的な長さは、同一なんだけど、月は、違うわね。単に1年をいくつかに分割しただけだから」

いやいや、1ヶ月も、月の満ち欠けが元になったのじゃから、やはり、重要な普遍的な意味があるじゃろう。ただ、月の公転周期は、1太陽年の1/12と、ぴったりとは一致しないので、太陰太陽暦は、苦労してきたわけだな。

※ 月は、その公転周期:約27.3216・・日(=恒星月)で地球のまわりを1回転するが、その間に地球も太陽に対して公転するため、月の満ち欠けに着目した場合、新月から新月までの時間は、約29.5305・・日(=朔望月)となる。(これらの数値は、理科年表 2014年版 による。)

一方、1太陽年は、365.24219・・日であり、1年を12ヶ月とすると、1ヶ月の長さは、30.4368日程度は、必要となる。ところが、1朔望月が、約29.5305日なので、朔望月を基にすると、12ヶ月では、約10.87日余り足りない。このため、月の満ち欠けと暦上の1ヶ月を対応させようとする太陰太陽暦では、閏月を入れて、その差を調整する。(2018/3/14追記)

さて、六十干支は、循環してしまうので、時間の記録手段としては、合理的とは言えない。しかし、十干十二支を基にすると、10と12の周期があり、また、組み合わせると、60という周期が生まれる。

現代でも、昼・夜の長さを12時間、1時間を60分、1分を60秒としたり、角度においても、1度を60分角、1分を60秒角とするなど、時間や角度では、12あるいは60が生き残っている。(2018/3/13追記)

また、甲子園球場は、きのえね、の年にあたる1924年(大正13年)に作られたので、この名前になったとか、トリビア満載じゃ。1年を12月、1月を10の3倍の30日、更に60の6倍が360で、これが、ほぼ、1年の長さ(365.242219・・日)であることに気がついた古代の人は、驚き、畏れたことじゃろう。(※ 1924年は大正13年でした。2018/7/28に訂正しました。)そこから、占星術や陰陽道などが生まれてきたのじゃからな」

「現代の私たちから見ると、現象は、周期的に見えても、背後にある時間は、一方向にしか進まない。けれど、古代ギリシャの人も、天上の世界は、理想世界なので、円運動を行うと考えた人もいるみたい。(天上で起こる)日の出・日の入り、季節の変化、惑星の運動なども周期的に循環する。地上の人間や生物の世界は、不完全なので、循環しないと」

「まあ、わしらも、必ずしも合理的でない、いろいろな習慣を引きずっている。日本では、1週間とか、七曜などは、明治になってから取り入れたわけだしな。わしも、昔、出張で台湾に行ったとき、テレビや新聞に『星期1』とか書かれているので、何のことか分からず、聞いてみると、曜日じゃった。星期1から星期6までが、日本の月曜日から土曜日に対応し、日曜日が星期日なのだ。この『星期日』を『せいきび』のように読んで、何かの記念日かと思うと、それは、間違いだった。

  
 一方、上旬、中旬、下旬は、十干の10日が基本になって考えられたということじゃ。この言い方は、今でも、日本で使われているので、なるほどと思う。さらには、いろいろな記念日や祭日もある。

クリスマス(イエス・キリストの誕生日:12/25)や前夜のクリスマス・イブ、クリスマスプレゼント、サンタクロースなどは、日本になじんで大分経つ。

※『クリスマスイブ』は、クリスマスの夜のことであるが、今は、12/24の夜を指す意味で使われている。これは、NHKの『チコちゃんに叱られる』(2018/12/21)でも取り上げられて、わしも『ボーっと生きてきた』ことを実感したな。詳細は、ウィキペディアの『クリスマス・イブ』などに詳しいが、簡単に説明すると、キリスト教会の祭事暦では、一日は、日没から、次の日没までとなっているそうじゃ。このため、クリスマスは、通常の暦の12/24の日没から12/25の日没までとなることから、12/24の日没から深夜までを(クリスマスの)前夜と呼んだ。なお、祭事暦では、日没から深夜までを前夜と呼んでいる。従って、『クリスマスイブ』は、本来は、クリスマス 12/25の前の日に行うという意味ではなかったことになる。しかし、現在は、一日を午前0時から午後12時までと考えることが普通であるため、辞書等でも、キリスト生誕の前夜祭や宵祭と説明されていることが多い。(クリスマスイブに関する緑字の注釈を 2019/1/11 追記)

バレンタインデー(2月14日。『269年頃殉教死したローマの司祭ウァレンティヌス(バレンタイン)の記念日。この日に愛する人に贈り物をする。日本では1958年頃より流行し女性から男性にチョコレートを贈る習慣がある。』(広辞苑第7版) もなんか分からないうちに定着した。

とは言うものの、辞書で引いてみないとどのような日なのか、正直、分からない。
 さらには、調べても、肝心の司祭ウァレンティヌス(バレンタイン)が、どのような事情で殉教したのかまでは、普通、調べないじゃろう。

さらには、まさかと思って油断していたハロウィン(10/31。『諸聖人の祝日(11/1)の前夜に行われる祭り。スコットランド・アイルランドのケルト的伝統に起源を持つ収穫祭で魔除けの意味を持つ。』(広辞苑第7版) も、俵万智さんのサラダ記念日の短歌風に言うと、『この味がいいねときみが言ったから十月末はかぼちゃ記念日』のようなテイストだったが、最近は、ずいぶんと目につくようになってきたしのう」 

「その諸聖人の祝日は、『万聖節』の方が古い訳のようね。(万世橋ではないわよ!)いわば、ハロウィンは、日本のお盆のような行事だと思うわ。(あたしって安直な女?)

ところで、あたしの予想では、今後流行るのは、イースター(復活祭)かも。『キリスト教会で、イエス=キリストの復活を記念して春分後最初の満月直後の日曜日に行う祭事』(広辞苑 第7版)

春分が出てくるのは、なじみやすいんだけど、『その後の最初の満月直後の日曜日』、という条件が難しくて、毎年、暦を見ないと分からなそうね。口で説明しても、簡単には、分かってもらえなさそうだし。
 ちなみに、2018年は、春分が3月21日(水)で、その後の満月は、3月31日(土)なので、結局、イースターは、4月1日(日) となるということよ」

「こうやって見てみると、新しい記念日は、キリスト教関係が多いのう。日本では、キリスト教徒の割合が少ないにもかかわらずな。 ま、どんな行事や習慣も、徐々に本来のきっかけが忘れられていくものじゃから、かまわんがの」
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日本の元号(年号)

「今年は、日本では、平成30年じゃが、平成もあと1年ほどで終わることになるのう」

「天皇のご退位(平成31年4月末日)に伴って、元号が変わる予定だからね。あたしは、生まれたときから、『平成』(という設定)なので、初めてだわ」

「改元当時、今は亡き、小渕官房長官が『新しい元号は、平成であります・・』と墨痕鮮やかな額を掲げて記者会見をされていたのを思い出す。 
 
 と、こんな感じじゃったかのう。YouTubeに動画があるので、ご覧いただくことができる。今、見てみると、会場の緊張感と新元号が発表された直後の慌ただしさが分かる。この示された額が小さなものだったので、好ましい印象じゃった。もし、額の大きさが、年末恒例となった『今年の漢字』で使われるような大きい額であったなら、ちょっと違和感があったろう。30年前のことじゃから、こちらも年をとるわけじゃ」

「日本の年号は、元々、中国の年号に範をとったもので、大化の改新の『大化』(645年)から、現在の『平成』(1989年)まで、約 250個もあるそうね。

※年号の数は、数え方により、231個、238個、247個、249個、250個になる。これは、南北朝時代の年号の数え方や数える対象が年号なのか改元の数なのかにより、差が出るからである。

・ 231個は、南朝を正統と考える歴史観によるものであり、南北朝時代は、南朝の年号のみを数える。(継続したのは、北朝だけど・・)
 ・ 238個は、南北朝時代は、北朝のみの年号を数えた数、
 ・ 247個は、名称の重複しない年号に注目したもので、南・北朝の双方で、重複しない年号の総数、
 ・ 249個は、名称の重複に関わらず年号に注目したもので、南・北朝の双方で、重複を無視した年号の総数、
 ・ 250個は、1390年に北朝の明徳に統一されたが、その統一も新しい改元と見なした場合の改元の総数、
 緑字の部分は、2018/3/5 追記した。 

 ※上記の補足を行った理由について「終わりにあたって」に追記しました。(2018/3/10)

ほとんど、漢字2文字なんだけど、天平勝宝など、4文字のものも少しある。読み方は、伝わっていないので、何と読むのか正確には、分からないものもある。天皇が代替わりしたときのみ改元することになったのは、明治以降なので、こんなに数が多くなってしまったみたい。なお、『元号』と『年号』は、ほぼ、同じ意味で使われているので、ここでは、区別しないことにしましょう。具体的な年号の一覧は、たとえば、ウィキペディアなどを参照してみてね」
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 ※ 年号に使われている漢字の個数を多い順に並べてみました。(2018/3/14追記)
  元にした一覧表は、終わりにあたって、に記載した『年号(元号)一覧表』
 (www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengoui.html)です。
 年号は、南北朝を合わせて、重複を排除したもので、247あります。うち、5つは、漢字4文字、残りは、2文字からなる年号です。
 従いまして、文字の総数は、(247-5)×2+5×4=504個、となります。全部で72種類の文字しか使われていません。下のグラフが、それぞれの使用回数の割合です。


 


 実際、下の表を見ると、亀は、あるが、鶴は、ない。(鳥は、1回)、吉や福なども1回と意外に少ないことなどが分かります。

番号 使用文字 使用個数 累計 累計割合
1 29 29 6%
2 27 56 11%
3 27 83 16%
4 21 104 21%
5 20 124 25%
6 19 143 28%
7 19 162 32%
8 19 181 36%
9 19 200 40%
10 17 217 43%
11 16 233 46%
12 16 249 49%
13 15 264 52%
14 15 279 55%
15 15 294 58%
16 14 308 61%
17 13 321 64%
18 12 333 66%
19 12 345 68%
20 10 355 70%
21 10 365 72%
22 9 374 74%
23 9 383 76%
24 9 392 78%
25 8 400 79%
26 8 408 81%
27 8 416 83%
28 7 423 84%
29 7 430 85%
30 6 436 87%
31 5 441 88%
32 寿 4 445 88%
33 4 449 89%
34 3 452 90%
35 3 455 90%
36 3 458 91%
37 3 461 91%
38 3 464 92%
39 3 467 93%
40 3 470 93%
41 2 472 94%
42 2 474 94%
43 1 475 94%
44 1 476 94%
45 1 477 95%
46 1 478 95%
47 1 479 95%
48 1 480 95%
49 1 481 95%
50 1 482 96%
51 1 483 96%
52 1 484 96%
53 1 485 96%
54 1 486 96%
55 1 487 97%
56 1 488 97%
57 1 489 97%
58 1 490 97%
59 1 491 97%
60 1 492 98%
61 1 493 98%
62 1 494 98%
63 1 495 98%
64 1 496 98%
65 1 497 99%
66 1 498 99%
67 1 499 99%
68 1 500 99%
69 1 501 99%
70 1 502 100%
71 1 503 100%
72 1 504 100%


 

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大化の改新

「大化の改新のきっかけは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)が軽皇子(かるのみこ=後の孝徳天皇)、中臣鎌足(=後の藤原鎌足)らとともに蘇我蝦夷と入鹿を滅ぼした政変だった訳ね。

そのとき、おびき寄せられて、内裏で殺されたのは、蘇我入鹿(いるか)で、その知らせを聞いた父親の蘇我蝦夷(えみし)も屋敷に火を放って、自殺。その後、第35代の皇極天皇は、退位し、軽皇子が第36代孝徳天皇として、即位し、中大兄皇子らが実質的なまつりごとを行った。この時代の天皇の名前と在位期間、略歴は、注1の一覧表を見てね。

ところで、広辞苑第7版では、大化の改新について、次のように書いているわ。

大化元年((六四五))六月、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが蘇我氏を打倒して開始した、古代の大政治改革。孝徳天皇を立てて都を難波に移し、翌年、皇族・豪族の私有地・私有民の廃止、地方行政組織の確立、戸籍・計帳の作製と班田収授法の実施、租・庸・調などによる統一的な税制の実施の四か条から成る改新の詔を公布し、中国の律令制度にならって公地公民制に基づく中央集権的支配体制の形成をめざした。ふつう白雉(はくち)元年((六五〇))までの五年間をさすが、これらの目的が実現するには、壬申の乱((六七二))などを経て大宝律令制定までの日時を要した。』」

「その儀式で天皇への上奏文を読み上げていたのは、注2の皇室と蘇我氏の系図を見てもらうと分かるが、入鹿の従兄弟の『倉山田石川麻呂』なんじゃ。そのため、入鹿も油断したとも言われる。

さて、討たれた入鹿の首が皇極天皇の御簾に食らいつく生々しい絵巻が『談山神社』(奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。祭神は藤原鎌足)に残る。その首を葬ったという言われが残るのが、奈良県明日香村に残る入鹿の首塚じゃ。

 
 上の写真は、入鹿の首塚。(1993年7月 撮影)

厩戸王(後に聖徳太子と呼ばれる)と共に物部氏を滅ぼしたのは、蘇我馬子じゃ。太子は、574年~622年じゃよって、入鹿の殺戮(乙巳(きのとみ)の変:645年)は、太子の没後、20年ほどしか経っておらん。

なお、今、飛鳥に残る『飛鳥寺』は、蘇我氏によって開かれた日本で最初の仏教寺院として知られておる。飛鳥寺には、『飛鳥大仏』の名で呼ばれる銅製の釈迦牟尼仏(重要文化財)が安置されている。建物は、後世のものだが、仏像は、7世紀初頭の作とされ、日本最古の仏像と言われる。首塚は、この寺の西の隅にあるのじゃな。
 
 
 飛鳥寺。(1993年7月 撮影)
 なお、入鹿がおびき出された内裏は、飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)として、現在も、発掘調査が行われている。
 
 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) (1993年7月 撮影)
 明日香村の『旅する明日香ネット』 https://asukamura.com/ を拝見すると、上の写真よりも大分、整備が進んでいるようじゃ。

日本書紀では、入鹿は、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)他一族を滅ぼす(643年)などの悪行を働いたため、乙巳の変で誅されたとされている。しかし、前出の『隠された十字架』などでは、これらの記述を(日本書紀の実質的な編纂を指揮した)藤原不比等(鎌足の息子)の意図的な粉飾と書かれている。
 鎌足の策謀により、蘇我氏の悲劇がどのように進行していったか
を同書に従って、抜き書きしたが、長くなったので、注3にまとめた」
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 注1 古代の天皇一覧

天皇名 読み 在位 備考
1 神武 じんむ   歴史上の実在は、疑わしい
(中略)    
15 応神 おうじん 正確な期間は不明  
16 仁徳 にんとく  
17 履中 りちゅう  
18 反正 はんぜい  
19 允恭 いんぎょう  
20 安康 あんこう  
21 雄略 ゆうりゃく  
22 清寧 せいねい  
23 顕宗 けんぞう  
24 仁賢 にんけん  
25 武烈 ぶれつ  
26 継体 けいたい 応神天皇の五世の孫彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子
27 安閑 あんかん 継体天皇の第一皇子
28 宣化 せんか 継体天皇の第2皇子、「日本書紀」によれば、大伴狭手彦(さでひこ)を派遣して任那(みまな)・百済(くだら)を助けさせ、在位四年で没したという。
29 欽明 きんめい ~571 継体天皇の第4皇子、即位は539年(一説に531年)という。百済(くだら)の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)
30 敏達 びだつ 572~585 欽明天皇の第2皇子
31 用明 ようめい 585~587 欽明天皇の第4子、聖徳太子の父
32 崇峻 すしゅん 587~592 欽明天皇の皇子、蘇我馬子を倒そうとして、かえって馬子に暗殺された
33 推古 すいこ 592~628 欽明天皇の第3皇女、最初の女帝、聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う
34 舒明 じょめい 629~641 敏達天皇の皇子の忍坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子、田村皇子、蘇我蝦夷に擁立されて即位
35 皇極 こうぎょく 642~645 舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母、孝徳天皇に譲位、後に重祚して斉明天皇
36 孝徳 こうとく 645~654 茅渟王(ちぬのおおきみ)の第1王子、軽(かる)皇子
37 斉明 さいめい 655~661 皇極天皇の重祚(ちょうそ)。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年、後飛鳥岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、同地に没す
38 天智 てんち 668~671 舒明天皇の第2皇子、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位
39 弘文 こうぶん 671~672 天智天皇の第1皇子、671年天皇没後、近江朝廷の中心となったが、翌年壬申の乱に敗れて自殺。明治になり、弘文天皇と名を贈る
40 天武 てんむ 673~686 舒明天皇の第3皇子、671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位する
41 持統 じとう 690~697 天智天皇の第2皇女、天武天皇の没後、称制。草壁皇子没後、即位
42 文武 もんむ 697~707 草壁皇子の第1王子。母は元明天皇
43 元明 げんめい 707~715 天智天皇の第4皇女。草壁皇子の妃。文武・元正天皇の母
44 元正 げんしょう 715~724 草壁皇子の第1王女。母は元明天皇
45 聖武 しょうむ 724~749 文武天皇の第1皇子、光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した
  (後略)

※在位と備考は、広辞苑(第7版)及び日本国語大辞典精選版(9)による。
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   注2 皇室と蘇我氏の系図


 ※ 『隠された十字架』の図版を参照して作成しました。
 ※ 同書の図版の『皇室と藤原氏の系図』から、鎌足、不比等など一部の者を上図に追加しました。
 ※ 赤字の人名は、女性。
 ※ 丸で囲んだ数字は、即位の順。
 ※ 弘文天皇は、天智天皇の長子 大友皇子に、明治になり追贈された諡号。
 天智天皇の没後、次の帝位を巡って、大友皇子と天智帝の弟 大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武帝)との間で争いが起きた。
 大友皇子が近江朝廷を立てるが、いったん吉野に逃れた大海人皇子が盛り返して勝利する。
 これを『壬申の乱』(672年)と言い、その後、天武帝の血筋の天皇が続くきっかけとなった。
 ※ 古代の人名は、動物の名前(馬、鹿など)、植物(茨、竹、粟など)が目立つ。 
   体の部分(足、手など)もある。(小足媛の小は、子供の意味なのか、現代で言えば、小顔美人だったかな?)
   2018/3/12追記

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    注3 大化の改新前後の歴史(『隠された十字架』の記載を基に編集)
 プロローグ
 第31代 用明帝の後に即位した第32代 崇峻帝(欽明帝皇子)が馬子討伐を図った嫌疑で蘇我馬子により殺される。
 崇峻帝五年(592年)のこと。翌十二月第33代 推古天皇が即位する。
 さらに、推古元年四月、聖徳太子(574~621)が摂政となる。太子、19歳。
 (太子が崇峻帝暗殺を事前に知っていたかどうかは、不明だが、事後にせよ事情を知ったであろう。
 ただ、崇峻帝が亡くなったことは、太子にとって、悪いことではなかったと思われる)
 聖徳太子は、冠位十二階、憲法十七条の制定を行う。
 また、小野妹子を遣隋使として、隋に派遣する。
 遣隋使や留学生は、その後、何回か派遣され、やがて、遣唐使へとつながっていく。
 推古三十年(622年)、聖徳太子 病没する。
 この頃になると、太子は、現実の政治の醜さに絶望していたと思われる。
 『世間虚仮 唯仏是真』(政治は嘘や欺しばかりだ。この世で仏法のみが真実である)という太子の言葉が残されている。
 四年後の推古三十四年(626年)蘇我馬子も病没し、子の蝦夷が大臣の位に上る。
 蘇我氏悲劇の幕開けと言うべきか。


第1幕
 推古三十六年(628年)、推古帝が病没する。
 太子、馬子、推古帝と立て続けに、有力な庇護者を失った山背大兄王の立場は、苦しくなった。
 翌629年、蘇我蝦夷は、次の天皇に山背大兄王ではなく、敏達帝の皇子の子の田村皇子を立てる。
 これが、第34代舒明帝である。
 ここに、蝦夷と山背大兄王との対立が表面化する。
 舒明帝は、舒明十三年、に没する。
 このとき、大臣は、蝦夷であった。ただちに、皇后の皇極帝が即位。
 その後、入鹿は、皇極帝に接近し、寵愛を受け、父の蝦夷をしのぐ権力を持つようになる。
 中臣鎌足が軽皇子の政治顧問として、山背大兄王の暗殺を勧めたのは、この頃であった。
 軽皇子は、有力なライバルである山背王を除く利点が大きく積極的に事を進めたと思われる。
 同時に、鎌足は、入鹿にも、山背大兄王の抹殺の暗黙の了解を取り付けたのではないか。
 入鹿は、何かと小うるさい山背大兄王を除くことは、メリットがあると考えたのだろう。
 それも、自分の手を汚さずに実行できれば、結構であると、応じたに相違ない。
 こうして、山背大兄王以下の聖徳太子の子ら二十数名が斑鳩にて殺戮される。
 実行部隊の指揮官は、軽皇子の近臣の巨勢徳太らである。
 その後、鎌足は、入鹿により、功を認められて、神祇伯に推されるが病と称して辞退する。
 (官位につかずに、私的な顧問として、活動するのが鎌足のやり方であった。
 官位についてしまうと役所の組織に組み込まれてしまい、自由に動けないのを嫌ったのであろう。)


第2幕
 鎌足は、同様に病を理由に自宅にこもっていた軽皇子を訪問する。
 軽皇子は、自らが行った山背大兄王一族殺戮という罪に悩んでいたのではないか。
 心を痛めていたのであろう。
 そこへ、政治顧問の鎌足が訪れたので、ひどく喜ぶ。
 喜びの余り、自らの妃であった阿部小足媛を鎌足に与える。
 鎌足は、たいそう驚き、軽皇子に、いずれ天皇にしてあげましょう、と言う。
 しかし、鎌足は、内心では、軽皇子の器量に落胆し、更に、大事をなすことができる皇子を探す。
 唯一の候補が皇極帝の第1皇子 中大兄皇子であった。
 鎌足は、今度は、中大兄皇子に近寄ったのであろう。
 皇子も、母親である皇極帝と入鹿の親密な関係を嫌っており、ここに入鹿暗殺が計画された。
 蘇我一族の不平分子であった、入鹿の従兄弟の石川麻呂が計画に引き込まれる。
 蝦夷、入鹿を除けば、あとは、あなたが蘇我氏の長であるとでも甘言をささやかれたのであろうか。
 三韓の使者がやってくる行事の日に入鹿を内裏に呼び出す。
 天皇への奏上文を読み上げるのは、石川麻呂の役目である。
 しかし、奏上文の終わり近くなっても、暗殺者が現れないので、石川麻呂は、恐ろしさで、声が震えてしまう。
 入鹿は、どうしたと問う。石川麻呂は、あまりに天皇のおそば近く畏れ多いためと弁解する。
 そこにようやく、中大兄皇子ら暗殺者が飛び出し、入鹿に切りつける。
 入鹿は、天皇の御簾にすがって叫ぶ。なにゆえ、わたしを殺すのですか、と。
 天皇も皇子に、なにゆえ、入鹿を切ると問う。
 しかし、皇子は、逆に、母である皇極帝に、母上こそ、なぜ、私たち息子より、入鹿を可愛がるのですか、と問い返す。
 胸をつかれた帝は、黙って奥に下がってしまう。
 入鹿の首をはねた後に、中大兄皇子は、他の皇子らに呼びかけて、蝦夷を討つ。
 蝦夷は、敗北を悟り、自らの屋敷に火をかけて、自殺する。

 第3幕
 皇極帝が退位し、軽皇子が第36代孝徳帝として即位する。
 ここでも、鎌足と中大兄皇子は、ひどく用心深い。
 鎌足は、若い中大兄皇子には、帝位は、まだ早いといって、叔父さんを先に帝位に就けなさいと助言したのであろう。
 孝徳帝の元で入鹿暗殺の功労者である、前帝の老臣であった阿部倉梯麻呂が左大臣に、石川麻呂が右大臣に任ぜられる。
 やがて、大化五年(649年)に左大臣 阿部倉梯麻呂が亡くなり、右大臣 石川麻呂が左大臣になると思われた。
 しかし、左大臣の死からわずか五日後、突如、石川麻呂に謀反の疑いがかかり、殺される。
 そして、山背大兄王殺害の功労者 巨勢徳太が右大臣に、大伴長徳が左大臣に登用される。
 白雉四年(653年)、中大兄皇子は、孝徳帝を置き去りにしたまま、母の皇極上皇らと難波から飛鳥へと移る。
 両大臣をはじめ近臣に見捨てられて、孝徳帝は、失意の内に翌654年に没する。

 第4幕
 退いていた皇極帝が再び帝位に就く。第37代斉明天皇である。
 中大兄皇子は、摂政として、実権を握る一方、ライバルを次々と殺めていく。
 まず、異母兄弟である古人皇子が天皇に推挙されるが、必死に断り、出家までするが、謀反のかどで殺される。
 斉明天皇の代でも右大臣であった巨勢徳太が亡くなる。
 すると、待っていたとばかりに、有間皇子(孝徳帝と阿部小足媛の間の子)が、やはり、謀反の罪で殺される。
 孝徳帝の重臣であった巨勢徳太らが生きている間は、有間皇子には、手を触れられなかったのであろう。
 さらに、中大兄皇子の疑いの目は、鎌足の長子 定慧(じょうえ)にも向けられたのではないか。
 定慧は、孝徳帝の妃であった阿部小足媛の子供である。
 鎌足の子かも知れないが、あるいは、孝徳帝の子かも知れない。
 鎌足は、定慧の命を救うために思い切った手段に出る。
 出家させて、しかも、国外に送り出すのである。出家にあたっては、家臣の幾人かも同時に出家している。
 これは、白雉四年(653年)定慧十一歳の時である。
 そののち、中大兄皇子は、朝鮮半島の任那救援にもあたるが、唐と新羅の連合軍に大敗してしまう。
 いわゆる、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)である。
 中大兄皇子は、敗戦後、九州各地の防備を固めさせる。
 この戦いの最中、斉明天皇が九州で没した。(661年)
 中大兄皇子が称制( 天皇が在位していないとき、皇后、皇太子などが臨時に政務をとり行なう)を行う。
 朝鮮で行き場のなくなった定慧は、665年の九月に日本に帰国するが、十二月に何者かに毒殺されてしまう。
 中大兄皇子の謀臣であり、最大の功労者である鎌足でさえ、定慧の命を救うことは、出来なかった。
 このとき、鎌足は、因果応報、という仏教の教えを思い知ったのではなかろうか。
 自らが図り、多くの者の命を奪ってきた報いなのではないかと。
 談山神社には、鎌足を中心として、定慧と不比等の像が左右に置かれている。
 668年、中大兄皇子が第38代 天智天皇として即位する。
 鎌足は、重い病に伏し、病床を見舞った天智帝は、鎌足に大織冠を授け、内大臣とし、藤原の姓を賜る。(669年)
 鎌足の死後、次男 藤原不比等が後を継ぎ、藤原氏は、栄華を極めていく。

エピローグ
 
鎌足の死後まもなく天智帝がみまかる。
 天智帝の第1皇子である大友皇子と天智帝の弟の天武帝が皇位を争う壬申の乱が起こる。
 壬申の乱の結果、天武帝が勝利し、大友の皇子は、自裁して果てる。
 その後、天智帝に連なる皇子達が殺される。
 これらの一連の悲劇は、彼らの祖である鎌足らの策謀により、滅ぼされた者の怨念ではないか。
 特に聖徳太子の子 山背大兄王らを殺害した恐怖が藤原一族を苦しめる。
 それは、やがて、法隆寺をはじめとする寺院の建立や日本書紀などの作成とその粉飾に手を染める動機になったと考えられる。

 
※ 歴史が時の権力の意思により、書き換えられた(この場合は、創り出された)例ということか。
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十干十二支(六十干支)

十干と十二支

「あのー。話が、明日か、あさってにそれていっちゃっているので、戻すわよ。あたしが知りたかったのは、『大化』以前は、年をどう記録していたのかな、ということなの」

「いや、ともちゃんの言うとおりじゃのう。中国では、元号がなかった時代は、十干十二支で年・月・日を表していたようじゃ。その方法は、朝鮮や日本にも伝わった。たとえば、大化元年(645年)じゃが、乙巳(きのとみ)の年にあたるそうな」

「そこんところよ。
 十干は、(こう)・(おつ)・(へい)・(てい)・(ぼ)・(き)・(こう)・(しん)・(じん)・(き)、という10通り。それぞれ、木、火、土、金、水の5行に対応していて、兄(え)、弟(と)に二分して10通りとなるのよ。


 つまり、甲=のえ、乙=のと、丙=のえ、丁=のと、戊=つちのえ、己=つちのと、庚=のえ、辛=のと、壬=みずのえ、癸=みずのと、と読むようよ。10通りと十二支の12通りとの『最小公倍数』は、60なので、60ごとに同じ組み合わせが現れる。
 なので、年の場合は、60歳になったことを還暦ともいうわけ。この数え方を六十干支ともいう。

でも、年であれば、60年ごとに同じものが現れるので、これのみでは、一意に年が定まらない重大な欠点がある。逆に、過去の確かな記録に、ある年の六十干支が書いてあれば、あとは、順繰りにそれから計算して割り振れるわね。

割り振り時の注意だけど、十干(甲乙丙丁・・)と十二支は、独立に割り振っていくの。つまり、甲子の次は、乙丑、丙寅、・・ であって、甲丑、甲寅、・・ ではないのね。そこで、疑問は、確かな日は、どうやった求めたのかしら?」

「十干十二支は、陰陽五行説に基づくものじゃな。
 1年は、太陽の運動(本当は、地球の公転)、1月は、月の公転運動、1日は、地球の自転運動であり、六十干支は、この3つに別々に割り当てられる。また、現在の『東宮』は、皇太子様のお住まいじゃが、春は、万物がよみがえる季節であり、それを東と対応させていることによる。おそらく、東から太陽が昇ることからの連想と思われるがの。青春、白秋、など、色と方位も陰陽五行に関係する。(2018/3/13追記)

なお、Excelで、、とか、、とかをセルに入力して、セルの右下隅のフィルハンドルをマウスによりオートフィルすると、十干なり、十二支が連続してコピーされることは、知っておる方も多いじゃろう。また、Excelでは、1900/1/1 を1番とする『日付シリアル値』があるのう。Excelで、1900年以前の日付をセルに入力しても、文字列として扱われるだけで、日付として、加減算の対象にはできない。

さて、インターネット上の『こよみのページ』(http://koyomi8.com/)を拝見すると、西暦593年の推古帝が即位した年から、六十干支は、計算できるようになっていた。この最初の年は、癸丑(みずのとうし )にあたる。で、わしも、Excelで西暦との対照表を作ってみた。それが、これじゃ ⇒ Rokuzikkansi.xlsx

ウィキペディアの『干支』の項を参照すると、中国の殷(紀元前一〇二七年(諸説あり)まで黄河下流域に栄えた中国最古の実在の王朝)の時代まで遡るそうじゃ。また、初耳じゃったが、干支による『紀年』は、木星の観測と関係があるという記述もあった。(太歳紀年法
 しかし、下記に引用したように、やがて、十干と十二支を60年周期で繰り返す方法、『干支紀年法』になったそうじゃ。

後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[8]。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である』」

「直近の甲子(きのえね)は、1984年(昭和59年)ね。十干は、10の周期だから、西暦年数を10で割った余りで分類できる。 1984を10で割った余りは、4なので、これを甲とすれば、次の表に従って、十干を求めれば良い。

西暦年を10て割った余り 十干
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9

たとえば、2018年は、10で割った余りが8なので、 (ぼ)となる。同様に、1984を12で割った余りは、4なので、これを子とすれば、次表を得る。

西暦年を12て割った余り 十二支
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11

たとえば、2018年を12で割った余りは、2なので、 (いぬ)となる。従って、六十干支では、今年、2018年は、戊戌 (つちのえいぬ)となることが分かる。これは、おじぃさんが作った表でも確認できる」

「たしかにのう。
 前節の壬申の乱、の壬申は、その西暦年を n とすれば、(nは、正整数)、十干のから、最初の表を見て、n≡2 (mod=10)、
 十二支のから、次の表を見て、n≡0 (mod=12)、と合同式を使って、表示できる。

※数式処理ソフト DERIVE では、MOD(n, 10) = 2 、MOD(n, 12) = 0 のように関数を使って表す。この連立合同方程式を解くと、nの最小解は、n=12 と求められるので、一般解は、n=12+60k であることが分かる。(k=0~)

具体的には、12,72,132, 192, 252, 312, 372, 432, 492, 552, 612, 672,・・、
 この中で、大化の改新(645年)後で、もっとも、近いのは、672年なので、これが壬申の乱の年ではないかということになる」
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日本書紀に見る日付の表記例

「しかし、ともちゃんが書いてくれたように、六十干支のみでは、60年ごとに繰り返してしまうので、絶対的な時点が定まらない。そこで、元号あるいは天皇名+数字による記法が併用されるようになったのであろう。

例えば、現存する日本最古の歴史書『日本書紀』では、天智九年(670年=庚午)のことを次のように書いている。
 ※天智帝の在位は、668~671であるが、斉明天皇の死(661年)直後から称制を行ったので、天智九年は、661+9=670年。

(原文は、日本書紀全文検索:http://www.seisaku.bz/shoki_index.html による。)

 第二十七巻 天命開別天皇 天智天皇
 (中略)
 九年春正月乙亥朔辛巳、詔士大夫等、大射宮門內。戊子、宣朝庭之禮儀與行路之相避。復禁斷誣妄・妖偽。
 二月、造戸籍、斷盜賊與浮浪。于時、天皇、幸蒲生郡匱迮野而觀宮地。又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。
 三月甲戌朔壬午、於山御井傍、敷諸神座而班幣帛、中臣金連宣祝詞。
 
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘大雨雷震。
 五月、童謠曰、
  
于知波志能 都梅能阿素弭爾 伊提麻栖古 多麻提能伊鞞能 野鞞古能度珥
  伊提麻志能 倶伊播阿羅珥茹 伊提麻西古 多麻提能鞞能 野鞞古能度珥

 (以下略)

上記の漢文の現代語訳の概略は、次の通り。
 (日本書紀(現代語訳・口語訳の全文:http://nihonsinwa.com/column/poya/2)による。
 即位9年1月 宮で大射の儀式をした。マナーを規定し、妄言などを禁じた。
 即位9年2月 戸籍を作る。長門城1つ、筑紫城2つを築いた。
 即位9年3月 山御井で御幣を捧げた。中臣金連が祝詞をあげた。

 即位9年4月 法隆寺に火災
 即位9年5月 奇妙な童謡が歌われる。

『隠された十字架』では、赤字で示した、夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘、大雨雷震。について、次のように書かれている。

夏四月(うづき)の癸(みずのと)卯(う)の朔(さく)壬申(みずのえさる)(三十日)に、あかつきに、法隆寺に災(ひつ)けり。一つの家も残ることなし。大雨が降り、雷がはためいた。すなわち、天智九年(670年)四月の三十日の明け方に法隆寺に火災があり、全焼した。大雨と雷が激しかった

※宮殿に雷が落ちるのは、怨霊の仕業と解されていた。また、紫色で示した同年五月の童謡(万葉仮名)は、次の通り。

打ち橋の 集落(つめ)の遊びに 出(い)でませ子 玉手の家(へ)の 八重子の刀自 出でましの 梅はあらじぞ 出でませ子 玉出の家の 八重子の刀自
 ※刀自は、とうじの意味。家の中の仕事を行う人。女性を指す意味でも使われる。(日本国語大辞典)
 ※打ち橋は、川の両岸に材木あるいは板を架け渡しただけの橋。(日本国語大辞典)

中国では、宮殿の火事は、女性の怨念のせいにされるという。ここで、法隆寺の火災は、一つの怨念のせいとされるのである。誰かが娘さんを呼んでいる。玉出の八重子さんを呼んでいる。いったい誰がそんなに呼んでいるのか。あるいは、聖徳太子が呼んでいるのであろうか。そして、鎌足の死も太子が呼んだのであろうか。』」

「法隆寺の怨霊に引きずられすぎている感じだけど、天智九年の四月三十日の六十干支は、何なのかしら?」

「インターネットの『こよみのページ』から、
 
 左側の『新暦と旧暦』をクリック、

 
 『新暦と旧暦の変換』⇒『和暦・西暦対応表表示』をたどり、
 670年は、601~700年のリンクをクリックして、次の画面にて、
 
 
 670年(天智)9年のリンクを開く。
 

 そして、4月の部分を見ると、下図の通り。

 
 このように表示される。

これと、原文を対照すると、夏四月癸卯朔 は、四月一日(=月齢は新月)の干支が、癸卯 であることを示す。なお、朔 は、新月を意味し、中国の暦法では、一日に朔を割り振ったことによる。(後述) 前出のウィキペディアの記述にもあったように、日の干支は、古代から連続している。四月一日の干支は、前月の三月二九日の干支 壬寅 の次のものになるに過ぎない。すなわち、壬⇒癸、寅⇒卯、と。

1日が癸なので、壬申 は、癸から壬までの間隔 9を基に、1日+9日=10日、あとは、10日毎に繰り返し、20日、30日のいずれかである。また、1日の卯を考慮すると、卯から申までの間隔 5を基に、1日+5日=6日、あとは、12日毎に繰り返し、18日、30日、となる。結局、2つの条件を満たす日は、30日であり、壬申は、30日であることが分かる。
 このように、同じ月の中では、六十干支が重複することはない。

しかし、月や日の干支は、年の干支のように、簡単に、計算で求めることはできない。基になるその年の暦が必要である。
 ※1日ごとに六十干支を割り振ることは、機械的にできるが、その日が当時の暦で何年何月の何日なのかは、当時の暦がないと分からないという意味。

※天智九年は、当時の暦の閏年で1年が384日もある。
 ※『こよみのページ』の脚注では、実際に使用されていた暦に基づき表示していると書かれている。
 ※ウィキペディアの『中国暦』の項を参照すると、天智九年では、中国で445年~509年まで使用されていた『元嘉暦』がこの頃使われていたという。

すなわち、『元嘉暦』は、『日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた(『日本書紀』によれば554年)。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。推古天皇10年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。

その後、中国で665年~728年まで利用された『鱗徳暦』が『儀鳳暦』の名前で、天武帝の時代に伝わった。『儀鳳暦』は、『持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。

と、ながながと、引用させてもらったが、天智九年の頃は、元嘉暦によっていたと考えられる。ま、これ以上、追求すると、暦という大きな問題を扱うことになるので、これぐらいで勘弁してもらおう」

「このウィキの記事を見ると、中国では、ずいぶんと、暦を変更しているのね。中国の暦(太陰太陽暦)の特徴は、『中国の暦法はいわゆる太陰太陽暦であり、1月の長さを月の月齢約29.3日を基準に1年における月の配列を太陽の運行を基準に定める。新月を朔、満月を望といい朔日を月の初めの日として配当していった。(中略)年始は前漢の太初暦以来冬至の翌々月、つまり立春前後に設けられ1月には必ず雨水が含まれた。これにより1年の始めと四季の始めが一致するようにされた。そして中国暦の大きな特徴は上記のような日付の配当するカレンダーとしての機能のほかに日食や月食、惑星の運行位置を計算して予報する天体暦(エフェメリス)としての機能をあわせもっていたことである。このため日食・月食の誤報がしばしば改暦の理由になった』上の太字個所が日本書紀の天智九年の四月一日の記述に『朔』と書かれている理由ね」

「上に書かれているように、中国暦で、しばしば、改暦が行われたのは、暦による日食、月食の予測と実際の観測が合わなくなったことが原因のようだ。これは、暦に太陽の運行以外の月や惑星の運動なども盛り込んでしまったためである。現在は、日食、月食は、もとより他の天体の運動は、別々に計算して、現在の暦の中に投影して表示する。これなら、暦と日食等の観測とが矛盾する問題は、出てこない。

さて、年の話に戻ると、年号あるいは天皇名+数字でも、違う年号などであると、間の年数などの勘定は、面倒じゃ。結局のところ、西暦のように、ある一つの紀元から単純に数字を加えていく方法がベストであるということになった。

なお、紀元(暦の起点)は、西暦では、キリスト誕生の年としているし、仏紀(仏暦)では、釈迦入滅(紀元前543年)に置いている。皇紀(『日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当たる)を元年として1872年(明治5)に定めたもの』(広辞苑第7版))が使われたこともあった。近くの神社に『皇紀2600年』(1940年:昭和15年)に建てられた、陸軍中将なにがしの揮毫による大きな石碑が残っておる」

「世界的に使われている西暦によるのが良いでしょうね。どうしても、異論がある人は、並記しましょう。ま、宇宙誕生の年から勘定すれば、絶対的かも知れないけど、ほとんど、私たちがいない時間が多すぎる」

「確かにそうじゃ。なお、次節では、西暦の改暦例として、『ユリウス暦』から『グレゴリオ暦』への改暦について、少し、触れておこう」

※ こよみの計算に関して、次のサイトでも、西暦-旧暦、干支計算等が可能です。
  「keisan」(生活や実務に役立つ計算サイト)(カシオ提供) https://keisan.casio.jp/
  上の緑字の部分を2019/1/14 追記

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ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦

「以前、『月と暦』(2013年8月)で触れたように、西暦にも改暦があった。現在、わしらが使っている西暦は、『グレゴリオ暦』(グレゴリウス暦)と言って、1582年から、使用されているものじゃ。それ以前は、『ユリウス暦』というものじゃった。

このユリウスは、有名なローマの将軍『ジュリアス・シーザー』のことじゃ。ユリウスは、ジュリアスの原語読み。ちなみに、シーザーの原語読みは、カエサル。聖書に曰く、『カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返しなさい』(マタイ伝)が有名。聖書のカエサルは、ローマ皇帝の意味で使われている。

古代ローマの将軍・政治家。貴族の出。紀元前60年、ポンペイウス・クラッススと共に第1次三頭政治を開き、ガリアを討ち、クラッススの没後ポンペイウスと争い、エジプトにこれを追って滅ぼす。ついで各地の内乱を平定、ローマに帰って独裁官の地位に就いたが、反抗者によって元老院議事堂で(カシウス、ブルータスらにより)暗殺された。文筆家としても卓絶し「ガリア戦記」「内乱記」はラテン文学の傑作。「カエサル」は後にローマ皇帝の称号。また、後世のカイザー・ツァーリなどの称号の語源。シーザー。ケーザル。(前100頃~前44)』(広辞苑第7版)。

豆知識としては、シーザーが暗殺される際、信頼していたブルータスがいるのを見て、『ブルータス、お前もか』と叫んだという話は、シェークスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』の名場面として、知られているじゃろう」

「確か、改暦の際に、(グレゴリオ暦の)10月か何かが半分ぐらいの日数になったんだっけ?」

「グレゴリオ暦(グレゴリウス暦)は、『1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世が制定した太陽暦。西暦年数が四の倍数のときは閏(うるう)年(ただし100の倍数の年で100で割った商が4の倍数でないときは閏年としない)とし、他は平年とするもの。今日、世界の標準的な暦法で、日本では明治六年((1873))から実施した。』(日本国語大辞典 精選版)による。

※日本では、新暦(グレゴリオ暦)への切り替えのため、旧暦(天保暦)の明治5年12月2日の翌日をグレゴリオ暦の明治6年(1873年)1月1日(水)と変更した。緑字は、2018/3/5に追記した。

なお、以前のユリウス暦と比較すると、『ユリウス暦は、400年に100回の閏年だったが、グレゴリオ暦では、97回に減っている』(広辞苑第7版)。これにより、ユリウス暦の1年=365+100/400=365.25 日であったものが、グレゴリオ暦の1年=365+97/400=365.2425 日に変わった。正しい値は、365.24219・・ 日なので、グレゴリオ暦は、有効数字 6桁まで正しい値と一致する。

つまり、グレゴリオ暦で、西暦年が4で割り切れる年は、閏年とするが、例外として、100で割り切れる場合は、除く。こうすると、400年で閏年が4回少なくなる(96回)ので、更に、400で割り切れる年は、閏年に戻せば、97回となり、1年間の正しい日数に近くなるということじゃ。

ユリウス暦は、ウィキペディアによると、『共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日[1]から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。』とある。

上のウィキの記述の中で、興味を惹かれるのは、ユリウス暦が使われるようになったのは、まだ、キリスト教が現れる前のことじゃ。 ユリウス暦とは、紀元をキリスト生誕に置くというものではなくて、4年に1回の閏年をおくという暦法だそうだ。偶然、グレゴリオ暦でも、ほぼ、4年に1回の閏年になったので、ユリウス暦の紀元もキリスト生誕と関係しているかのように思ってしまうのじゃろう。なお、ウィキばかりを引用するのは、気が引けるが、グレゴリオ暦の制定当時のいきさつは、以下の通りじゃ。

ユリウス暦は、・・ 暦年の平均日数を365.25日とする暦法である。しかし、実際の太陽年は、約365.24219日であるので、そのずれは毎年蓄積されていき、天文現象としての春分と、暦としての春分日がずれていくことになる。このことは13世紀には認識されており、たびたび改暦の提案がなされるようになった。16世紀後半には、ユリウス暦上の春分日である3月21日に対して、実際の春分日(天文現象としての太陽の春分点通過日)は平均してユリウス暦上の3月11日となり、10日ものずれが生じていた

このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争が巻き起こった。委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、1582年10月4日(木曜日)の翌日を、曜日を連続させながら、10日間を省いて、1582年10月15日(金曜日)とすることを定め、その通りに実施された。

なので、ともちゃんが覚えてくれていたように、1582年の10月は、10日も少なくなった」

「なるほど。こよみのページの古い日付の暦を表示する際、ユリウス暦による表記とグレゴリオ暦による表記(現在の暦を過去に延長して適用した場合)がのっている理由ね。

あと、前に疑問としていた現在の暦の誤差が今回分かったわ。同じページに、次のように記述されていた。

デイヴィッド・E・ダンカンによると、1997年時点では、1582年以来の誤差が累積して、すでに約2時間59分12秒だけ進んでいる[17]。なお、上記の計算は平均太陽年が不変であるとした場合のものである。実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる

ということで、3時間以上の誤差が累積していると考えられると言うことのようね。文中の[17]は、 『デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.333。ISBN 4-309-22335-4。 ダンカンは1年につき約25.96秒の誤差があるとし、1582年10月から1997年年初までの累積時間を計算している。』とある。」

「いや、ともちゃんもお疲れ様じゃった」
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年と年度(2018/3/10 追記)

「年に触れた以上、『年度』についても、少し、補足しておこうかな」

「年度は、いわゆる会計年度のように、日本では、4月から翌年の3月までと、年と部分的に食い違う場合は、面倒よね」

「そのとおり。会計年度以外にも、学校なども、大抵は、新学期が4月からじゃから、卒業年と卒業年度が違ってくるのう。データを年度単位で月毎に並べて印刷する場合、1月からではなく、4月から3月という順に並べる必要もある。

さて、コンピューター上では、日付データは、ほぼ、すべて、西暦年をベースにしているじゃろう。しかし、西暦でも、日本のように食い違いがある場合は、年と年度の問題からは、逃れられない。ちなみに、わしは、年と年度について、
 FP年月から年度(引数1:年,引数2:月)、--年と月を与えて、年度を求める、
 FP年度月から年(引数1:年度、引数2:月)、--年度と月を与えて、年を求める、
 という2つの関数で、年と年度を双方向に変換した。

また、月については、
 FP月番(引数:月)、--月を与えて、月番を求める、
 ここで、月番は、月の番号(4月⇒1、5月⇒2、・・、1月⇒10、2月⇒11、3月⇒12)、
 FP月(引数:月番)、--月番を与えて、月を求める、
 という2つの関数により、月と月番を双方向に変換し合うことにした」

「おじぃさんが開発した新システムの場合ね」

「そうじゃな。他にも、方法は。あろうがな。これ以外にも、前月の月を求める関数、前月の年度を求める関数、も作成した。一つ一つの関数の中身は、単純じゃが、錯覚しやすいので、一度作成して、誤りのないものにしておけば、システム全体で利用できる。いずれにしても、年と年度を正確に区別しないと、大きな間違いが生じてしまうので、注意が肝要じゃな」
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昔の事件の日付の表記(2018/3/10追記)

「昔の事件の日付を表記する場合、どう表記しているかよね。たとえば、元禄15年の12月14日は、有名な赤穂義士(浪士)の吉良邸への討ち入りでしょ。一通りではないの。

広辞苑 第7版では、『元禄15年12月14日(1703年1月30日)』と記載している。
 日本国語大辞典精選版では、『元祿一五年((一七〇二))一二月一四日』と表記しているの」

「ほー、それは、面白いのう。「こよみのページで確認すると、討ち入りの12月14日は、1703年の1月30日という結果だな。広辞苑は、旧暦年月日(対応する西暦年月日)としているのだな。元禄15年12月14日⇒1703年1月30日、じゃ。ここで、かっこの位置に注目じゃな。日付全体を変換すると言う意味なんじゃろう」

「なるほど。一方の日本国語大辞典では、旧暦年(西暦年)+月日、として、年のみを西暦に換算して表示しているわけね」

「そうだな。1703年は、もう、西暦は、グレゴリオ暦となっている。ここで、問題があるとすれば、2つあるのう。

1つは、旧暦が年の途中で改元されている場合、もう一つは、1582年10月以前の場合は、どちらの西暦で表記するかじゃな」

「何か、日本の歴史上の事件があるかしらね。あまり、古い事件は、日付が曖昧だしね」

「ものすごく、有名ではないし、日付も5月となっているのじゃが、『安土宗論』という事件があった。

日本国語大辞典では、『天正七年((一五七九))五月、織田信長が安土城下の浄土宗浄厳院で行なわせた、浄土宗と日蓮宗の論争。浄土宗の勝となり、日蓮宗側は詫証文を書かされるなど厳しく処罰された。日蓮宗の勢力増大を嫌った信長の計画的な弾圧とされる。』と記載している。

広辞苑では、『1579年(天正7)安土城下の浄厳院で織田信長の命により行われた浄土・日蓮両宗の論争。浄土宗の勝ちとされたが、それは信長の日蓮宗弾圧のためといわれる。安土法論。』となっていた。

こよみのページで確認すると、
 天正7年5月1日~5月29日⇒1579年6月5日~1579年7月3日(グレゴリオ暦)
 同上、        ⇒1579年5月26日~1579年6月23日(ユリウス暦)、
 と対応していた」

「なるほどね。宗論というのだから、一日では、終わらなかったかも知れないしね。日が分からないか、または、それほど重要でない場合は、広辞苑さんは、年のみとしたんでしょうね。

一方、日本国語大辞典では、日が不明でも、12月14日のように、月は、旧暦のままで、年のみを西暦に変換している。こういう場合は、大辞典の方が、首尾一貫する利点はあるわ」

「手元の辞書の2種類で2つのケースのみ確認しただけじゃから、違う例があるかも知れんな。広辞苑さんの場合は、このケースでは、西暦が最初に来ているんだな。ま、実際的な判断じゃろう。普通の人は、天正7年などと言われても、見当がつかないからな。

一方、天文学上の出来事の場合は、西暦の改暦や地球の自転速度の変化などに左右されない固有の時間で表したい場合がある。 その一つの方法が、ユリウス日というものじゃが、今回は、略することにしよう」
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遅すぎた「省庁データ 西暦に統一」(2018/7/1 追記)

「2018年5月21日の読売新聞の朝刊は、その一面で、『政府は、各省庁が運用する行政システムの日付データについて、和暦(元号)を使わず西暦に一本化する方針』と報じた。いくらなんでも、遅すぎた」

「しかも、来年に迫った平成の次の改暦には、全部が間に合うわけではないとのことね。平成に改暦にした以降、30年間も、あったのだから、気がつかなかったのかしら?」

「平成元年は、1989年だ。まだ、作られていなかったシステムも多かったじゃろうがな。しかしだ。その後作られたシステムにしても、西暦2000年問題への対策を見聞きした人であれば、役所の人でも気がつくべきじゃったろう。また、技術者であれば、西暦下2桁であれ、最初から、西暦でシステムを作ったと思うけどな」

「元号法が作られたことが関係しているのかしら?」

「元号法は、1979年(昭和48年)に定められた法律じゃ。1945年以降、その根拠を失っていた元号に、根拠を与えた。記事によると、政府は、入出力では、今後も、元号を使い続けたいようだ。この辺に、元号離れできない政治家や役所の気分が窺える。そういう気分が元号法を作ったことだけは、確かだな」

「もう、この機会に、西暦に全面的に移行するのが、良いのではないかしら?」

「正直、生年月日ぐらいしか、元号を使わないからな。偉大な伝統ではあるが、もはや、実用的ではないことは、明らかじゃ。元号は、皇室において、(一世一元の原則により)継続していただく事は、何の差し支えもない。一方、明治6年(1873年)から、西暦=新暦に切り替えたように、一般社会では、西暦一本に絞っていく方向が正しい道じゃろう」

「これまでも、併用してきたんだから、市民の混乱もごく限定的でしょう。それこそ、政府の英断が求められているわね」
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平成の次の年号(元号)

平成の次の新元号は、2019年4月1日に公布され、同年5月1日午前零時に施行される。
 2019年1月4日に安倍総理が発表した。
(2019年1月4日 追記)
 2019年5月1日からの新元号は、令和(れいわ)となることが発表された。(2019年4月1日 追記)

新元号雑感 2019/4/5 追記
  世間では、『令和フィーバー』とでも言うべき騒ぎとなっている。平成への改元時に世の中、自粛ムード一辺倒となっていた頃と比べれば、大いに結構だ。しかし、日本国内限定の『内祝い』とでも言うべき、お祝い事であると心得ておくべきだろう。今後、ますます、年の表記で混乱することは、必定で、西暦または元号名を記載する必要がある。

なお、いまだに、元号表記を重視するあまり、西暦を忌避する論調が残ることは、遺憾である。西暦は、紀元をキリスト生誕に置いているが、それは、今となっては、些細なことである。要は、西暦が一つの原点から始まるのに対し、元号では、複数の原点を持つ致命的欠陥があることだ。

そして、さらに重要なことは、西暦が世界の人が理解できる共通の時間表記法であることだろう。共通の時間表記によることで、事実を時間や場所に制約されずに連続的に記述できる。間違っても、改元による心理的効果により、時間の経過を不連続的にとらえてはならない。時間(=歴史)は、リセットできないのだから。
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令和を迎えて(2019/5/1追記)

2019年5月1日より、元号(年号)が『令和』(れいわ)と改まりました。昭和から平成への改元経験者としては、特に大きな感慨は、ありませんが・・。しかし、天皇陛下のご退位が正式に決定(2017年(平成29年)2月8日)以降、ソフトウェアの改修が地道に行われてきました。特にマイクロソフト社の役割は、重要であり、特筆すべきでしょう。

マイクロソフト社の関係ページは、下記です。
 『新元号への対応について』 https://www.microsoft.com/ja-jp/mscorp/newera/default.aspx

また、経済産業省の改元に関する告知のページは、こちらです。
 『改元に伴う情報システム改修等への対応について』 https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/kaigen/kaigen_taiou.html

ここには、マイクロソフト社の作成した『新元号への対応について』(PDF文書)へのリンクがあります。
 https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/kaigen/2019ms.pdf、
 118ページ余りのPowerPointで作成したと思われるプレゼンテーション用の資料です。

上記を眺めるだけで、Windows、Office 等に対するマイクロソフト社の改修作業が並々ならぬ手間を要したであろうことが伺えます。正直に言えば、ここまでして、コンピューターで和暦を扱う必然性があるものかと疑問になります。とりわけ、日本政府が和暦の1年目を『元年』と表記することをデフォルトとしたため、今回、より面倒になったようです。昭和から平成への改元以降、約30年間、コンピューターの入出力で平成1年等となっても認めてきたのにね。

でも、『本年』、『元月』、『元日』等は、だめです。(^o^)、和暦で『○○元年』と表記されている場合のみ、○○1年と同義と解釈する融通さは、人間ならではと思います。こんな人間的な習慣まで、コンピューターの世界に持ち込んでみたところで、ほとんど、ご利益が感じられません。まさに『重箱の隅をつつく』とは、こういうことを指すのでしょう。むしろ、他組織とのデータ交換の際に混乱が起きる元を増やしただけのような気がします。

※ 経済産業省のQ&Aによれば、令和1年というような表記法も許容されます。
 ※ 同省のQ&Aでは、『いずれでも差し支えない』や『民間同士で協議する』という当たり障りがない表現が多いと感じます。
 ※ 日付の記法について、更に新しいバリエーションが追加されてしまい、複雑さが増したことが問題です。
 ※ 平成に対応する『㍻』のような令和の合字追加を含めて、有り体に言うと『ガラパゴス化』が進行してしまったと思われます。
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終わりにあたって

 今回もご覧いただきありがとうございました。
   年号の総数について、補足しておきましょう。

   当初、年号の総数をインターネット上で検索して、その結果を鵜呑みにし、大化から平成まで、231個と記載していました。ところが、2018/3/6の朝日新聞の改元に関する記事中に、総数が247個という数字があることに気がつきました。おかしいと思って、いろいと検索してみると、最大250個まで、様々な数字があることが分かりました。個別の記事を読んでも、合点がいかないので、『くまもと文学散歩』さんのページにある『年号(元号)一覧表』
   (www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengoui.html)から、年号のデータをExcelにコピーして、編集し直して、数を確認しました。


   それにより、本稿の「日本の元号(年号)」に、緑字部分を2018/3/5に追記しました。ちなみに、上記の一覧表では、もっとも、多い250個を挙げていただいていましたので、少ない数の意味は、容易に分かりました。

新年号は何か、という視点であれば、朝日新聞等の、年号の名称の重複を排除した総数、247個が妥当かと思われます。一方、年号が歴史に登場した回数は、重複を含めてすべての年号を数えて、249個、あるいは改元回数 250個というのも理解できます。

  天皇の正統性、時間の連続性にこだわる場合は、南朝または北朝のいずれかの年号のみを勘定するということも一理あります。

 まとめますと、年号の総数は、約250個というのが、もっとも無難な数字であると思われます。

  ただし、『約』は、なぜかと、追求しますと、必ずしも、一つの数字で言い切れない歴史が垣間見えることになります。また、そもそも、年号の総数を考える場合、どのような目的で数えるか、ということにより、変わるとも言えます。

  単純と思っていました問題もインターネット上の情報を鵜呑みにするだけでは、いけないということにあらためて気づかされました。学校教育でも、答えが必ずしも、一つとは限らない問題が必要とされています。年号の総数は、まさに、その一例かも知れません。(以上、紫字の部分は、2018/3/10に追記しました)

   さて、ふたたび、春が巡って参りました。
   輝かしい光あふれる未来がみなさまに訪れますことを心よりお祈り申し上げます。
   すでに、2017年4月で、Windows VISTA に対するマイクロソフト社の延長サポートが終了しております。
   また、2017年10月で、Office 2007 に対するサポートも終了済みとなっています。

   インターネットに接続してお使いの方は、セキュリティが厳しい状態になりますので、最新版等への乗り換えをご検討ください。
   では、次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。
   ※旧ドメインは、2017/6/1で閉鎖いたしました。お気に入り、スタートページ等の変更をお願い申し上げます。
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 更新日 2018/3/3 一部追記 2018/3/5 一部追記 2018/3/10~3/14 一部追記 2018/7/1、1個所訂正 2018/7/28、
文章の一部を微修正 2018/9/26、改元の日程について追記 2019/1/4、
タイトルを「年の表記方法(和暦と歴史、六十干支、西暦の改暦)」に変更、クリスマスイブに注釈を追加 2019/1/11、こよみの計算に関する追記 2019/1/14
新元号名を追加 2019/4/1、元号に対する雑感を追記 2019/4/5
『令和を迎えて』を追記 2019/5/1
画像サイズ、種類、段落を変更 2020/7/8

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