2018年1月のご挨拶

本音と建て前または現実と理念

目次

はじめに
哲学の庭(中野区の哲学堂公園)
 宗教の輪(第1の輪)
 哲学の輪(第2の輪)
 法の輪(第3の輪)
裸の王様
本音と建て前のいわれ
本音と建て前の使い分け(日本の事情)
終わりにあたって

はじめに

インターネットが普及・発展した現在、一般の方も気軽に世間に情報を発信できるようになりました。
 特に、ケータイやスマホなどのモバイル機器とソシアル・ネットワーキング・サービス(SNS)との併用により、思いついたことを、すぐにインターネットにアップできるようになっています。
 SNSでは、以前からあったブログの他に、ツィッター(Twitter:つぶやき)やインスタグラム(Instagram:写真・ビデオ)などのサービスが有名です。
 そういえば、2017年の流行語大賞(「現代用語の基礎知識」(自由国民社)が選定する、「ユーキャン新語・流行語大賞」のこと。)では、その一つに、『インスタ映え』が選ばれましたね。

 しかし、簡単に短い言葉や写真で発信できるので、ときに、その内容により、世間から非難されて、慌てるケースもありました。
 このような非難は、
  受け手の誤解か、
  書き手の事実誤認か、
  書き手が(世間の建て前に反する)本音を書いたか、
 のいずれかのケースになるでしょう。

 ところで、約1年前にアメリカに誕生したトランプ大統領は、大統領選挙中から、『アメリカ・ファースト』(アメリカ第一主義)や『ディール』(deal:取引)といった、いわば、本音主義を前面に出して、内外のメディアを中心に非難を浴びましたが、アメリカ国内では、いまだに根強い支持を取り付けています。
 トランプ大統領は、メディアを建て前だけの偽善者と見なして、ツィッターなどの上で攻撃し、自らこそ、真実=本音を話している体を演じました。

 また、イギリスは、EU離脱の是非を問う国民投票において、キャメロン首相(当時)など残留派が唱えるEU統合の理念や実績よりも、離脱派が声高に叫ぶ本音の言葉にあおられて、離脱を選択しました。現在、EUとイギリスとの間で離脱に向けた交渉が行われています。
 このように本音の言葉は、思いがけずに、大きな効果、場合によっては、大きな弊害を生むことになります。
 人々が理念、すなわち、建て前に必ず従うはずというのは、幻想であることにあらためて、気づかされます。
 今回は、本音=現実=心、建て前=理念=形、という対比により、少し考えてみましょう。
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哲学の庭(中野区の哲学堂公園)

「ケーブルテレビ局で配信されている地域のニュースで知ったがな」

「中野区の『哲学の庭』の彫刻のことね」

「おう、ともちゃんか。
 今年もよろしくお願いしますよ。
 さてと、哲学の庭には、ハンガリーの彫刻家、ワグナー・ナンドール氏(1922~1997)の作品を展示しているということじゃ。
 調べたところ、故ナンドール氏の意思により、作品は、2009年(平成21年)に中野区の哲学堂公園に寄贈された。
 どんな見た目なのかは、ホームページを見て欲しい」

「えーと、ホームページは、次のところ。
 哲学堂 http://www.tetsugakudo.jp/top.htm 
 まるっと中野 https://www.visit.city-tokyo-nakano.jp/
 でも、撮影禁止なんだって」

「美術作品じゃからかな。
 たいていの美術館内は、撮影禁止が多い。
 とはいえ、屋外に展示されているんじゃから、良いと思うんじゃがな」

「そうよね。
 それこそ、インスタ映え、すると思うんだけどね。
 それに、今年は、戌年だし。
 江戸時代の5代将軍 徳川綱吉の御代に犬小屋が置かれていた中野としては、久々に注目を浴びたいわ」 

「えーと、脱線しそうなので、話を戻すぞ。
 作品は、人物彫刻が中心で3つのグループに分かれておる。
 一つ目が『宗教の輪』、
 二つ目が『哲学の輪』、
 三つ目が『法の輪』じゃな」
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宗教の輪(第1の輪)

「第1の輪、宗教の輪では、5人の人の彫刻が円形に配置されている。
 だから、輪と言っているのだけど、上から見て時計回りに、
 アブラハム、エクナトン、キリスト、釈迦、老子の像があり、中心に小さな丸い球が置かれている。
 説明によれば、球は、真理を表し、宗派は異なっても、その目指す真理は、一つという理念を表しているそうよ」
 下図は、イメージ。
 


「釈迦は、仏教の祖、老子は、道教の祖じゃな。
 一方、アブラハムは、広辞苑によれば、
 『旧約聖書で「諸国民の父」の意とされる)紀元前2000年頃の人。旧約聖書では、子イサクを通じてイスラエルの民の祖、また、子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされる。メソポタミアのウルの出身で、放浪の末パレスチナに定住。コーランではイブラーヒームの名で現れ、カーバ神殿の建設者。唯一神信仰とすぐれた人格により、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教において厚く尊敬される。』
 すなわち、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の唯一神信仰(セム族信仰)の祖のような人じゃ。

 ところで、5人の方の内、エクナトンさんは、聞いた記憶がないが、どんな人かのう」

「あたしも知らなかったけど、
 エクナトンさんは、古代エジプトの王様で、『アモン信仰』を捨てて『アトン信仰』を始めた人なんだって」 

「それでは、なんのこっちゃじゃな。
 ウィキを参照すると、エジプトの王(=ファラオ)、エクナトン(=アクナトン、イクナートン)は、アメンホテプ4世が自ら改名した名前だそうだ。
 アメンホテプ4世は、紀元前1362年~紀元前1333年頃、在位期間は紀元前1353年頃~紀元前1336年頃とされている。
 ざっくりと言うと、多神教(アモン)信仰から一神教(アトン)信仰に乗り換えた人ということらしい。
 アモン(=アメン)もアトン(=アテン)も太陽を神格化したものだそうだが、エクナトンの頃は、アモン信仰の司祭達の勢力が王権をしのぐほどになっていたという。
 エクナトンのアトン信仰への乗り換えと遷都は、司祭達の勢力を封ずる目的があったらしい」

「それがウィキに出てくる『アマルナ革命』(アトン神を崇拝し、治世4年目(紀元前1368年ごろ)にアトン神に捧げる新都エクナトン(現アマルナ)を建設。王朝発祥の地テーベ(現ルクソール)を放棄し、遷都した)とのことね。
 だけど、結局は、アモン信仰を唱える司祭達の勢力が盛り返し、エジプト王国は、その後、アモン信仰に戻っていったのね」

「どうも、そのようじゃな。
 エクナトンの息子のツタンカーメンの時代に元の信仰に戻ったとされている。(ウィキのアテン項目)
 性急な改革じゃったようで、アトン神以外の像の顔を削り落としたこともあるらしい。
 ただ、多神教から一神教が生まれた例であるようじゃ。
※ウィキの記述では、エクナトンの信仰は、一神教ではなく、二神教(アトン神と王自身を神とする)とも書かれている。
 偶然ではあるが、2017年10月の今月のご挨拶『宗教』に出てくるような例じゃ」

「しかしさあ、アブラハムさんやキリストさんもいるのに、ムハンマド(=モハメッド)さんは、どうして、いないのかしら?」

「ともちゃん、そいつは本音かもしれんが、愚問じゃぞ。
 ムハンマドさんの像なぞ作ったら、どこのだれかに壊されてしまうかも知れんし、場合によっては、作者の命の保証はないのではないか?」

「こいつは、ご隠居様。一本参りました」

「日本でも、桓武天皇(在位:781~806)が奈良の古い仏教等の勢力を嫌って、都を奈良の平城京から長岡京(784年)へ、そこから、更に、京都に移して平安京(794年)を作ったと言われている」

「ああ、
 長岡京を捨てた理由は、早良親王の怨霊のせいだった! (映画『陰陽師』に出てきたような?)
 平安京では、その鬼門に当たる比叡山の麓で修行していた最澄が桓武帝に引き立てられていった話は、『空海の風景』(司馬遼太郎 著)でも描かれていたわね」
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哲学の輪(第2の輪)

「哲学の輪は、上から見て時計回りに、ガンジー、達磨大師、聖フランシスコ修道士の3人じゃ」

「この3人は、第1の輪のように全円周に配置されているのではないね」

「時代や文化を超えて、精神的に悟りの境地に達して、それぞれの社会で実践して成果を得た人達と言うことだそうじゃ。
 


 ガンジーさんは、よく知られているように近代のインドの人(1869~1948) 。
 イギリスの統治下にあって、非暴力抵抗を貫き、インド独立の父とたたえられる人じゃ。
 詳しくは、『インドの民族運動指導者・思想家。インド独立の父とされる。イギリスに学び、弁護士を開業。初め南アフリカでインド人に対する人種差別政策の撤廃運動に従事。第一次大戦勃発後に帰国し、非暴力・不服従主義により自治拡大、独立の実現に努めた。また、不可触民制の除去、農村の復興に努力。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に腐心したが、インド独立後まもなく狂信的ヒンドゥー教徒に射殺された。マハートマー(大聖、偉大な魂)と称される。』(広辞苑)」


「達磨さんは、6世紀頃のインド生まれの人なんだ。
 日本国語大辞典によると、『中国の禅宗の始祖。菩提達磨。諡号は円覚大師。南インド香至国の王子で、六世紀のはじめ中国に渡り、嵩山の少林寺で面壁坐禅して悟りを得たという。梁の武帝との対論、没後のインド帰国など、多くの有名な伝説がある。古くは「達摩」と書いた。達磨大師。生没年不詳。

 「日本では、だるまさんの絵や人形で知られているのう」


「聖フランシスコは、1182年~1226年のキリスト教、聖フランシスコ会の創始者で、イタリアの生まれだそうよ」
「ウィキの記載によると、その思想は、
 『彼の死の床で歌われたという有名な「被造物の讃歌」がある。この讃歌は、「もの皆こぞりて御神を讃えよ、光のはらから(同胞)なる日を讃えよ」という著名な一節から「(兄弟たる)太陽の讃歌」と呼ばれることもある。そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への讃美に参加させ、はては死までも「姉妹なる死」として迎えたのである。フランシスコ自身の内部では、清貧と自由と神の摂理とが分かちがたく結びついており、この三者が調和してこそ、簡素で自然で純朴な、明るい生活を営むことができるのであった。こうしたことから、彼は西洋人としては珍しいほど自然と一体化した聖人として、国や宗派を超えて世界中の人から敬慕されている。』とのことじゃ。
 自身は、身一つで托鉢により食を得て、聖書の教えのままに生きようとした人らしい」 

「『裸のキリストに裸で従っていく』、という彼の言葉が書かれているわね。
 キリスト教会の権威より、聖書の教えに素直に従う、ということらしいけど。
 聖書に書いてあるからと言って、服のベルトを捨てて、縄を腰に巻くなんてちょっと、他の人はついて行けないかもしれない。
 一種の原理主義だわ」

「ルターによるカトリック教会に対する宗教改革(革命と言っても良いじゃろう)は、1517年頃じゃから、フランシスコの頃より300年ほど後の時代のことじゃ。
 フランシスコ達の集まりを教会が正式に認めるかどうか、当時、問題となったようだ。
 もっとも、フランシスコ自身は、教会を批判する、あるいは、キリスト教を改革するという目的意識は、なかったようで、あくまでも自身の信仰の実践ととらえていたのじゃろうな。
 フランシスコ達を庇護する者もあり、教会としては、黙認する形をとったようだな」

「フランシスコ達の行動は、本音であり、教会が建て前だったというわけね」

「キリスト教に限らぬが、創始者の頃は、それが本音、すなわち、既存の権威に対する改革なんじゃ。
 実際、キリスト教では、前出の『宗教』の項に書いたように、ユダヤ教の特に、パリサイ派の人達(戒律を重んじる)に対する改革じゃった。
 初期には、キリスト自身も殺されたし、主な信者も各地で迫害に逢い、殉教を遂げたりした。
 しかし、そのキリスト教も発展してくると、自らが権威となった」

「人々が組織を作ると、どうしても、階級が必要となり、階級には、権威と報酬がついてくる。
 特に宗教は、教会の外でも、権威を持つので、特権階級である司祭達には、人気や富が集まってくる。
 すると、その体制を守るために、規則が必要となり、改革側であったはずが、すっかり新しい体制側へと変貌してしまう」

「人の歴史は、本当に、繰り返しじゃな。
 2017年12月から2018年1月にかけて起きているイランのデモによる混乱を見ても、そう思うのう(2018/1/4 追記)
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法の輪(第3の輪)

「3つめの輪は、法律の制定に貢献した人達ということね。
 上から見て時計回りに、ハムラビ、聖徳太子、ユスチニアヌスの3人」


「ハムラビは、『バビロン第1王朝第6代の王。バビロンを首都とする大帝国を作り、バビロニアを政治的・文化的に統一。「ハムラビ法典」を制定。ハンムラビ。ハンムラピ。(在位前1729~前1686一説に前1792~前1750)』(広辞苑)」

「えーと、バビロンは、バビロニア(今のイラク中部)で栄えた古代都市だったわね。
 バビロニアは、『西アジアのチグリス・ユーフラテス川の下流地方。また、その地方に起こった古代帝国。紀元前3000年頃、楔形(くさびがた)文字・天文学・法典など、文明の発祥地。アッカド王国・ウル第3王朝・バビロン第1王朝・新バビロニア王国などが興亡。』(広辞苑)」

「聖徳太子は、冠位12階や17条の憲法の制定でよく知られているじゃろう。
 ユスチニアヌス(=ユスティニアヌス)は、『ローマ法大全』の編纂を命じたローマ皇帝だそうじゃ。
 日本国語大辞典によると、詳しくは、『東ローマ帝国皇帝(在位(五二七‐五六五))。大帝。バンダル・東ゴート・西ゴート・ササン朝ペルシアを討ってローマ帝国の旧領を回復。教会に対して皇帝権を確立したほか、ユスティニアヌス法典を編纂させ、東ローマ中興の英主と呼ばれた。

 これは、世界史の勉強のようじゃな。いや、人名や地名や大きな事件だけでも、とうてい、調べて、ここに書き尽くすことはできないのう。
 前述のように、人が集まって組織、たとえば、国を作ったとき、どうしても、決まり、すなわち、法律が必要となる。
 専制領主が何か起きる度にその日の気分で裁いていたのでは、領民は、不安じゃし、領主も、いちいち自らが決済するのは、面倒じゃろう。
 そこで、代官に任したいが、その者によって、裁きに様々な違いがでくるようでは、今度は、領主自身が迷惑だな。
 そんなことから、決まり、を文字にしていったのじゃろう」

「中国の韓非子(紀元前200年頃に編纂された法家の書)は、法律で国を治めることの重要性を説いているね。
 君主自身が(儒教伝統の)礼とか徳を唱えても、民を治めることは、難しい。
 領民に対する法に基づき、その義務と反した場合の刑罰を定めて、始めて民を治めることができるとした」

「徳とか礼は、理想や理念ということかの。
 歴史の結果を見ると、どうやら、法家の言い分の方が正しかったようじゃな。
 ま、その時代の理念や理想を形にしたものが制度や法律であるべきとは、思う。
 『衣食足りて礼節を知る』という言葉もあるように、礼や徳は、後から(教育次第で)ついてくる。
※ 『倉廩(そうりん)実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る』、斉の桓公の軍師、管仲の言葉と伝わる。
 桓公は、中国の春秋戦国時代の覇者。(『封神演義』 安能務 訳:講談社文庫)
 なお、広辞苑によれば、『管子は、管仲の著というが、実は戦国・秦・漢の書。原本は86編といわれるが、現存76編、24巻。』のようじゃ。
 現実には、100%は、整合性をとれないであろうし、制度を作った当座は、実現されていないことも定めているわけじゃ。
 従って、周辺の情勢が変わったり、時代が変われば、作った法律と目の前の現実とがだんだんと乖離してくる。
 そうなれば、今の法律は、建て前となり、本音を唱える改革派の方が有利となる局面が生まれる」

「郵便局を民営化するきっかけとなった、小泉元総理による『郵政民営化』選挙は、そうしたものだったかもね」

「そうじゃな。
 普通は、現在の制度を守ろうとする首相が『自民党をぶっ壊せ』とあおったからな。
 この発言は、メディア向けのもので、本音では、なかったろうが。
 とはいえ、郵便局を国が直営する時代が終焉を迎えたと、多くの国民が本音で感じしていたからこそ、大勝につながったのじゃろう」 

「でも、総選挙は、民営化に対する Yes か No を聞くためだけではなかったよね」

「たしかに。
 メディアへの露出を通じて、論点のすり替えが行われてしまった」

「一方、しばらく前だけど、『保育落ちた日本死ね』というネットでの声が反響を呼んだわね。
 これに触発されて、行政も子育て支援に動くことになった。
 これって、本音の声が建て前を超えたってことよね」

「良い効果を生んだ事例じゃろう」
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裸の王様

「アンデルセンの童話に出てくるお話しね。
 ある王様が仕立屋に超豪華な衣装を作らせる。
 仕立屋は、心の美しい人にしか、この糸は、見えないと、うそをついて、仕事をする振りをしているだけ。
 こうして、できあがった服は、透明というか、何もないのね。
 それを着たつもりで歩いた王様を見て、家来も民衆も素晴らしい洋服だと褒めた。(まさに、忖度ね。)
 だけど、子供が、『王様は、裸じゃないか』と真実を指摘したという話ね」

「この場合、裸は、現実であり、王様自身も感じていた本音じゃ。
 一方、王様は、素晴らしい服を着ているべきというのが、王様、家来や民衆の考えであり、これは、建て前でもある。
 建て前と現実が合わないときは、普通は、本音をとって、裸であることを指摘しそうなものじゃが、虚栄心が邪魔したからな」

「そうね。虚栄心が邪魔して、本音を言えなかったのね。
 だって、言えば、自身が心が美しくなく、その織物を見えないと白状することになるのだから。
 もっとも、家来や民衆には、本音を言うのは、王様に逆らうという畏れもあったでしょうけど」

「この寓話から、いくつか問題が浮かぶのう。
 1つめは、本音を話したり行う者は、正直者なのか?
 2つめは、王様は、どうすれば、嘘つきの仕立屋にだまされないで済んだのか?
 3つめは、本音を言ったり行う者は、善人で、建て前を言ったり行う者は、悪人なのか?
 4つめは、為政者は、民衆が正直者としたいがために、このような寓話を推奨しているのか?」

「2つめの疑問については、会議を挟めば、だまされなかったのじゃないかな。
 1つめでは、今回のような真実が一つしかない場合は、『本音を話したり行う者は、正直者』が正しいと思う。
 3つめは、建て前と本音の両方がそれぞれ真実を含むときは、『本音を言ったり行ったりする人が正直者ではあるが善人とは限らない』ということかしら」

「ともちゃん。 だまされないためには、まず、会議かいな。
 その前に、製品の検査や鑑定が来るのではないかのう。
 会議で参加者が建て前だけを議論する、この場合、衣服を褒めそやすだけで終始してしまうおそれはありそうじゃが。
 特に王様が最初に結論ありきで、この服の出来や如何にと諮問した場合は、そういうことも起こり得るのではないかな。
 ま、今回は、お正月でもあるので、あまり突き詰めないことにしようかの」

「建て前と本音がどちらも部分的に正しい例としては、
 衝動的に起こしてしまう性犯罪のようなものでしょうね。
 人の本能を考えれば、異性に関心があるのは、当然なんだけど、法令に触れて、実行してしまうとまずい。
 この場合、本音を話したり行う者は、”正直者”過ぎるとは言えるかしら」

「そうじゃな。
 人が異性に一切惹かれなくなれば、人類は、容易に滅んでしまうからのう。
 本音は、心、建て前は、形とも言えるじゃろう。
 3つめについては、AI(人工知能)は、本音しか言わないと仮定すれば、AIは、善人なのか?、などと考えてみるのも面白いかもな」 
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本音と建て前のいわれ

「本音の語釈は、本当の音色、あるいは、本当の気持ちじゃな」

「つまり、本音は、楽器の本当の音色からきた言葉で、本心、を表す。
 日本国語大辞典では、本音の別の意味として、『口に出して言うことがはばかられる本心』とも書かれている。
 これは、建て前が広く認められていて、本心は、それに反しているので、その場で言うのがはばかられるという意味ね」

「本心を言うと、非難されてしまうと当人が危惧している状況じゃろう。
 広辞苑では、それに該当する部分は、『たてまえを取り除いた本当の気持ち』と書いてある。
 さて、建て前、はどこから出た言葉かな」

「建築の建前(上棟式)から来ているようね。
 あらかじめ作っておいた柱や梁を組み立てることだから、物事の基本方針みたいな意味で使われるようになったと言われている。
 だけどさ、こういう語源では、建て前が本来、本音とずれる理由がないし、建て前と本音、みたいにセットで語られているのに、一方が音楽で片方が建築とは、分野が違うのは、おかしくない?」

「たしかにな。
 京都の『大報恩寺(千本釈迦堂)』のホームページの中の『おかめ塚』の説明に、概略、こんなことが書かれていた。
 http://www.daihoonji.com/
 『大報恩寺の本堂の建築時、工事の棟梁が大切な柱となる木材を短く切り過ぎて弱っていた際、その柱を生かすため、枡組という技法を提案し、夫の窮地を救ったのが、妻の「阿亀(おかめ)」でした。しかし、妻の助言によって夫が建築を成し遂げたと知られれば、その名誉を汚し、信用も失うのではないかと思い詰めて、上棟式の前日に自害してしまいました。棟梁は、本堂の上棟式にあたり、その冥福と工事の無事を祈って、亡き阿亀(おかめ)に因んだ福の面を扇御幣(おうぎごへい)に付けて飾りました。

 この話が、もし、現在の建て前の語源になっているとすると、建築用語としての『建前』が元々あり、その後、この話を元にして、建て前=本来は、設計図通りにしたかったが、(本音を言うと)、一部が設計図とは異なっているけれど、その本音は、言うことができない。
 ここから、本音と建て前という対比が認識されるようになったのかも知れないのう。
 余談じゃが、千本釈迦堂は、1227年上棟の本堂が国宝に指定されている他、霊宝館には、重要文化財に指定されている六観音像や釈迦十大弟子像などが見事じゃ。必見の価値がある」

「建て前の語源は、ともかくとして、上棟式では、扇を2つ重ねたものを柱に飾ることは、たしかね。
 古い家を壊すときに出てくるわ」

「わしの家が上棟式をやったときは、左写真、扇を重ねて、鶴や亀は、書いてあるが、おかめの面は、ついていなかったようじゃ」

「建て前と少し似ている言葉では、しきたりも使われるわね。
もっとも、『しきたり』は、習慣とか決まり事だけど、建て前のように、本音と対で意識される用語では、ないわね」

「ま、しきたりは、仕切る=物事の全体をとりまとめる、からきたのじゃろう。
 仕切るは、さえぎる、区画を作る、という意味があるようじゃ。
 さえぎったり、区画を作るためには、全体を見渡さないとできないので、そこから、全体をとりまとめる、という使われるようになったのかもな」
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本音と建て前の使い分け(日本の事情)

「日本人は、建て前と本音の使い分けるとか、その違いが大きいとか言われるのは、なぜなのかな?」

「昔から言われてきたことではあるのう。
 個人差は、あるじゃろうが、ざっくばらんに本心を明かすことが苦手という国民性があるじゃろう。
 特に外国人に対しては、言葉が不自由なので、あいまいに笑って、Yesとか言ったりしがちで、誤解されてきた面はある。
 また、狭い地域で生きてきたので、お互いの気持ちは、言わずとも分かるというムラビトならではの感覚もあるじゃろう。
 まずは、相手の気持ちを先に考えてから、こちらの発言を調整する。
 これは、必ずしも、思いやり、とか、優しさではなかろう。
 あくまでも、その場の和を乱さないためのものじゃ」

「たしかに。
 そういう面はあるでしょうね。
 でも、国際化が進んでいるんだから、互いの本心をはっきりと言う習慣も必要でしょ」

「学校でも授業などに討論を取り入れるように徐々になっては、きている。
 しかし、目上の人、特に先生の発言に正面から反対するのは、失礼なことだという空気があるからな。
 これは、大人の建て前として、子供に自由に発言するようにと言いつつ、反対されると、コラ、という本音が残る証拠でもある。
 学校や家だけではないぞ。企業でも同じじゃ。
 そもそも、年齢や序列に関係なく自由に討論できる場や経験が少ないから、なかなか、アメリカのようには、いかないのう」

「それは、忖度でしょ。
 それだけじゃ、ますます、中国や韓国、台湾にも、後れをとってしまうじゃない」

「たしかにのう。
 中国や韓国の人達の考え方は、ある意味で、ドライじゃ。
 個人主義が強い点も、日本人よりも、欧米人に近いと思う。
 日本人は、自らが立てた建て前にしばられてしまうところが多いかも知れん。
 移民、憲法、北方領土・竹島、道州制、元号なども、そうじゃ」

「もう少し、柔軟な発想が必要だと思うわ」

「そうじゃ。
 本音をもっとさらけ出さないと議論が進まないじゃろう。

 その際、出された『本音』に反対の人も、単純に『建て前』を振りかざして、批判したり、叩いたりしないことじゃな。
 そのようにされると、いわゆる、ネット上の『炎上』のようになってしまい、皆さん、本音を言わなくなってしまうじゃろう。
 ネット上の炎上を見ると、結構、『本音』の発言に対して、建て前の立場で批判する人がいることが分かる。
 いわく、『○○は、こうあるべき』、とか、『□□は、こうするべきだった』とかな。
 こうなると、『建て前』の範囲内の議論となり、無難ではあるが、不毛の議論を繰り返すことになるじゃろう」

「まったくね。
 批判する方は、建て前という権威に寄りかかった方が楽だし、有利だからでしょうが。
 上から目線だわ。
 『あんたこそ、なに、べきべき、言ってんの』、と突っ込みたい」


「そのとおり。
 『○○すべき』という建て前を、まずは、外して、議論にとりかかるべきじゃな。(おっと、べき、を使ってしまったな)」

※ 緑色部分は、2018/1/4に追記しました。
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終わりにあたって

 今回もご覧いただきありがとうございました。
   さて、新しい年が始まりました。
   本年がみなさまにとりまして、さらに輝かしい年となりますことを祈念申し上げます。
   寒さの方は、これから、いよいよ、本番です。どうぞ、自愛くださいますようお願い申し上げます。
   2017年4月で、Windows VISTA に対するマイクロソフト社の延長サポートが終了しました。
   また、2017年10月で、Office 2007 に対するサポートも終了しています。

   インターネットに接続してお使いの方は、セキュリティが厳しい状態になりますので、最新版等への乗り換えをご検討ください。
   では、次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。
   ※旧ドメインは、2017/6/1で閉鎖いたしました。お気に入り、スタートページ等の変更をお願い申し上げます。
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 更新日 2018/1/3 一部追記 2018/1/4 画像一部追加 2018/1/5

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