2021年6月のご挨拶

コロナは令和の黒船か?(1)

目次

0.はじめに
(1)概要
(2)航空機と電気通信技術の発達
1.黒船来航
(1)ペリー艦隊×ためらい
(2)金属製バット×軽視
(3)新型コロナ×油断
(4)氏名の読みがな×軽視
 00)浮上する隠れ問題
 01)かかりつけ医って何?
 02)公正証書遺言は安心安全か?
 03)不明年金問題の教訓
 04)あうんの呼吸はダウンの元
 ①戸籍に読みがなの項目なし
 ②戸籍に読みがながないと困る訳
 ③読みがな追加の問題点
 ④読みがなの多様性
 ⑤日本人氏名のローマ字つづり
 ⑥外国人氏名の読みがな
 ⑦台湾の英語名、通称
 ⑧英字を使う理由
 ⑨韓国人氏名とハングル
 ⑩英字名の統一は難しい
2.黒船 ベスト6
(1)漢字の伝来
 ①海外との交流
 ②最大級の黒船
 ③万葉仮名
 ④万葉仮名の翻訳
(2)魏の答礼使船
 ①魏志倭人伝
 ②朝貢外交の動機
 ③邪馬台国の使者
 ④魏の明帝の詔
 ⑤魏からの返礼品
 ⑥古代ロマンを運ぶ黒船
(3)仏教伝来
 ①古代
 ②中世~戦国
 ③江戸
 ④明治以降
 ⑤現代
(4)遣隋使船・遣唐使船
 ①遣隋使船
 ②遣唐使船
 ③遣唐使の中断と再開
 ④未熟な造船、航海術の謎
 ⑤技術の学習と停滞
(5)元寇
 参考 古代朝鮮の三国と高麗
(6)鉄砲伝来
3.年表 1844年(弘化)~1926年(大正)
4.終わりにあたって

0.はじめに

(1)概要

2019年11月~12月頃に中国武漢市に発生、その後、蔓延した『新型コロナウイルス感染症』(『COVID-19』、以下では、『コロナ』と書く)が世界中に広まり、多くの国々が悩まされています。このように、古来より、島国日本に新しい感染症が、貿易(交易)船等によって、海外からもたらされることがありました。『天然痘』、『コレラ』などがそうでしょう。互いに地続きである大陸の国々とは、異なり、海が防疫・防衛面で大きな効果を発揮してきたのは、事実です。一方、船による往来は、災いをも運ぶ一方で、人、食物、文物、情報などを運ぶ宝船の役割を果たしています。

第1章では、海外からの人、物、情報等の渡来を『黒船』と称して、近代以降の4つの例を挙げて、『黒船』に対する私たちの対応を考えてみました。第2章では、古代から戦国時代までの『黒船』を挙げました。

次回以降の第3章では、『黒船』を迎えた際の日本人のありがちなパターンは、どうして生まれるのかを考えます。もう少し具体的に言うと、長い年月の間に蓄積されてきた島国日本ならではの、思考や行動の様式です。このような様式(スタイル)は、日本列島の地形、風土、大陸や南方から渡ってきた人の気質、さらには、その移り住んだ人達が経た農業や暮らし方に根ざしているからです。

なお、第4章では、『黒船』により、照らし出された以下のような『日本あるある』的疑問を取り上げる予定です。
・ なぜ、根本的な対策が取りにくいのか?
 例:首都(機能)移転、基礎自治体の統合、道州制、簡易耐火建築の禁止など
・ なぜ、小手先の対策で満足しがちなのか?
 例:『マッチ一本火事のもと』などの標語で安全を図る、危険個所にロープを張るだけなど
・ なぜ、一度決めたことをなかなか変えないのか?
 例:らい予防法の廃止
 1956年の世界ハンセン氏病会議の廃止勧告から40年後の1996年に廃止。
・ なぜ、突発的な事象に対応しにくいのか?
 例:実害が生じてから対策を考える体質
 事前に想像して対策を考える習慣が乏しい
・ なぜ、中身よりも形にこだわりやすいのか?
 例:学校の運動会の予行演習、朝礼などを見ると推して知るべし
・ なぜ、合理的な考え方に抵抗を示す人が多いのか?
・ なぜ、外人を区別したがるのか?
 例:移民・難民の受け入れに極めて消極的
・ なぜ、すぐ有頂天になりやすいのか?
 例:海外から新しい武器を導入しては、戦争を起こしてきた。
 秀吉の朝鮮出兵、日清・日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など
・ なぜ、故郷に固執する人が多いのか?
 例:維新支持が多くても大阪都構想が2回とも住民投票で否決
・ なぜ、自分で考えない人がいるのか?
・ なぜ、周りの考えに同調しがちなのか?
・ なぜ、自分の考えを主張しにくいのか?
・ なぜ、自分に自信がない(自己肯定感が低い)若者が多いのか?
 例:自分に満足(日=45%:韓=74%、米=87%、英=80%、独=82%、仏=86%、スウェーデン74%)
 2018年内閣府調査、年代は、13~29才の男女、満足及びどちらかと言えば満足と回答した者の割合
・ なぜ、他国の優れた点を取り入れにくいのか?
 例:火災報知器設置の義務化(新築=2006年、既存=2011年。米国(1970年代)より30年以上遅い)
 例:台風対策のための『タイムライン』の導入普及
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(2)航空機と電気通信技術の発達

第2次大戦後(1945年以降)は、航空機(飛行機)の発達に伴い、国際線(旅客・貨物)が運航(日本では、1953年(昭和28年)、羽田-ホノルル-サンフランシスコに開業)され、船によらずに、人や貨物の高速な輸送が可能となりました。現代では、旅行客は、ほとんど、航空機を利用するでしょう。コロナ予防ワクチンの日本への輸送にも航空便が広く使われています。しかし、防疫上は、航空便で来日する旅行客は、やっかいな存在です。

とは言え、飛行機では、大量の貨物や危険物を運ぶことは、量・コスト面で難しく、世界貿易の大半は、船による輸送に頼っています。(例:日本の貿易量(輸出+輸入)の(重さベースで)99.6%は、船便。日本海事広報協会資料2020年)

なお、電気通信技術の発達により、短波放送、衛星放送、国際テレックス(KDD:1956年~2005年)や国際電話・FAXも使われるようになり、必ずしも、人が往来しなくても、海外との商取引や情報のやりとりができるようになりました。特に、コンピューターの発達(1960年以降)、パーソナルコンピューターの登場(1980年以降)を経て、パソコン通信の登場(1980年~2000年)、インターネットの普及(概ね2000年以降)、携帯端末(スマホ・タブレット)の普及(概ね2010年以降)により、その傾向は、一段と加速されています。

今回のコロナ禍において、日本でも、オンライン会議や動画配信サービスなどが身近に使われるようになったことも、特筆すべき事柄です。このように、情報通信技術(ICT)とコンピューター技術(IT)などの技術革新により、海外とのやりとりに限っても、大陸の国と島国との(利益・不利益を含めて)違いがなくなりつつあります※。
※深入りしませんが、ミサイルやドローン技術の発達により、航空機、艦船だけでは、日本の安全を守り切れません。
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1.黒船来港

幕末に米国から日本に来港したのが、『黒船』※ですが、その後、『黒船』は、海外からの(強い)要求を指す用語として広い意味でも使われるようになりました。今回は、さらに広げて、日本に大なり小なり影響を与えた海外渡来のものを『黒船』と称することにしました。これら『黒船』に対し、ためらい(逡巡)、軽視、油断をしていた4つのケースについて、経緯とその影響等を取り上げてみました。
※ 『黒船』は、広辞苑によれば、語釈の①として、『室町末期から江戸末期に、欧米諸国から来航した艦船の称。幕末には大型の外国船の称で、特に1853年(嘉永6)に来航したペリーの米国艦隊をいう。』とされています。ここでは、後段の『特に・・』が指すペリー来航時の軍艦を(元祖)『黒船』としました。
※ 参考として、今回の末尾に弘化(1844年)から大正末(1926年)までの年表を付しました。
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(1)ペリー艦隊×ためらい

これが元祖、『黒船』です。1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊は、鎖国(中国、朝鮮、オランダ以外との通商・往来を禁止。オランダ人は、長崎の出島にのみ居留)中の日本に軍艦4隻を率いて来港し、開国と通商を要求してきました。こうして、日本は、太平の眠りを覚まされて、皆さまご存じの幕末の激動が始まります。このありさまは、様々な小説やドラマでたびたび取り上げられていますね。

江戸の庶民は、『太平の眠りを覚ます上喜選 たった四はいで夜も眠れず』※とペリー来航にうろたえる世情を風刺する狂歌をひねり出したり、黒船を見物に出かけたりと、黒船やペリーに持ち前の好奇心を抑えきれませんでした。
※上喜選は、高級な茶の名前で蒸気船とかける。また、ペリー艦隊の(最初の来航時の)船数が四隻であったことから、四杯と称し、お茶を飲む回数と船の数を『はい』と勘定(大辞林:『はい【杯・盃】②船を数えるのに用いる』)することにかけている。全体として、『上喜選は、高級なお茶なので、たった四杯飲む(と)夜も眠れない(ほど頭がすっきり冴える)』とお茶の評価をする体裁にて、たった四隻の黒船にうろたえている役人を風刺しています。

しかし、幕府の要職者や一部の知識人は、隣の『清国』が欧米の侵略を受けているという事実を知っていました。さらには、幕閣は、一年前(嘉永五年八月)に長崎のオランダ商館長より、米国から通商を求める艦隊が日本に行くという秘密情報を受けていたにもかかわらず、開国するか、打ち払うか、という根本で意見が分かれていました。このため、幕府の対応も決まらず、堂々巡りの議論に明け暮れるばかりでした。『黒船』への対応を決めかねて、ためらった例です。

ちなみに、2021年のNHKの大河ドラマは、『青天を衝け』です。幕末から明治、大正、昭和にかけて活躍した『渋沢栄一』(1840~1930)の生涯を描きます。大河ドラマで人気のある時代は、幕末と戦国時代が二大巨頭のようです。今回の記事が『青天を衝け』に触発されて書かれたことは、明らかですね。

元祖『黒船』の影響について触れましょう。開国と攘夷の間で揺れ動いたり、攘夷派を弾圧する『安政の大獄』があったりと複雑な経緯をたどりましたが、最終的には、開国に舵を切り、なんとか明治の世につなげられたのは、良かったと言えるでしょう。もし、ペリー艦隊と砲撃戦となれば、江戸市中に大きな被害が出たでしょうし、欧米と日本が戦争に突入する事態もあり得ました。運が悪ければ、清国のように租借地を取られたり、多額の賠償金を課せられる事態もあり得たでしょう。

一方、早めに開国政策を自ら立案し、準備を進めていれば、明治になって、諸外国との不平等条約に悩まされることは、なかったと考えられます。不平等条約の解消は、1910年(明治43年)に『関税自主権の回復』として果たされました。ほぼ、半世紀を必要としました。
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(2)金属製バット×軽視

1982年8月、『日米貿易交渉』最終日に米国より、日本の金属製バットに対する(強制的な)安全基準・認証制度が非関税障壁にあたるとして、ガット(GATT=関税と貿易に関する一般協定。現在のWTO=世界貿易機関)への提訴を突きつけられました。いわゆる『日米金属バット摩擦』の始まりです。

ここにおいて、日本国内の安全基準・認証制度が、初めて、貿易交渉の俎上にのるようになりました。交渉の舞台に上がった『金属製バット』は、日米間の貿易量や金額は、微小でしたが、日本の非関税障壁の典型例として、米国に狙い撃ちにされたといってよいでしょう。ここでは、(米国産)金属製バットが『黒船』になりました。

しかし、下記のリンクをたどっていただくとおわかりになりますが、数年前から、関連団体や担当部所へ米国企業の代理人を通じて、調査、打診が何度もあったようです。その意味で不意打ちでは、ありませんが、代理人と対面した関係者以外にその情報が伝わりませんでした。事前に情報を知っていた関係者以外にとっては、寝耳に水の騒ぎとなりました。

日本側関係者は、金属製バットの日米間の貿易量や市場規模が小さいこともあり、『日米貿易交渉』のテーブルに米国政府が載せてくるとは、思わなかった、というのが本音でしょう。関係者も軽視していたのです。その結果、米国企業の代理人から見ると、たらい回しのような扱いとなり、米国企業の怒りを買って、米国政府へ働きかけられた可能性があったかも知れません。

当時、金属製バットは、国の特定製品(Sマーク=必須)でした。日本の輸入業者が国内に輸入した後にSマークを申請する方法は、用意されていたので、国内から見ると、輸入障壁にならない気がします。しかし、海外製造業者の立場で見ると、国内製造業者と扱いが異なり、海外製造業者が登録事業者になることは、できません。その違いを『不平等』と捉え、日本の非関税障壁全般への攻撃の突破口にしようと考えたのが、米国通商代表部(USTR)でした。(日本は、国内法が海外に及ばないため登録事業者になれないと解釈)

ガット提訴の後、半年にわたる日米二国間交渉により、金属製バットは、Sマークの対象から外され(とりあえず対象外にする=日本の得意技)、抜本的には、さらに約半年後にSマーク制度や任意制度のSGマーク制度の海外開放(海外企業と国内企業との基本的な違いをなくす)がなされました。

黒船の影響としては、Sマーク制度やSGマーク制度が非関税障壁の解消の先駆けを務めさせられた形になりました。その後、他の製品に関する国内制度の海外開放も進み、それは、輸入促進にもつながっていったと考えられます。ただ、その後、実際に起きた輸入製品全般の急速な増加は、いわゆる生産のグローバル化が進み、国内生産から海外生産へと置き換わっていった影響が格段に大きかったように思われます。

この原因は、販売価格を決める際の生産コストが国内に比して海外生産では、大幅に安く済むことでした。以前より、製造業者にかわり、販売者(スーパーマーケットなど)が市場価格を決める力を持つ時代※になって来ました。『価格破壊』という言葉に象徴されるように価格の安さは、すべてに優先したのです。
※ 『ダイエー・松下戦争』がその象徴です。

 ダイエー・松下戦争:『1964年(昭和39年)から30年に渡って、ダイエーと松下電器産業(現・パナソニック)との間で商品の価格販売競争をきっかけに起きた対立である。1964年(昭和39年)、ダイエーは「価格破壊」で消費者がより安価で商品が購入できることを目指し、松下電器の商品を当時のメーカー小売希望価格からの値引き許容範囲である15%を上回る20%引きで販売しようとした。ところが、松下電器はダイエーに対しての商品出荷を停止する対抗措置を取る。ダイエーは松下電器の出荷停止が独占禁止法違反に抵触する恐れがあるとして、裁判所に告訴した。(中略)松下幸之助没後の1994年に両社が和解。同年ダイエーが忠実屋を合併した際、忠実屋と松下の取引を継承し、ダイエーグループ店舗への松下電器商品の販売供給を再開することになった。』(ウィキペディア)

現在では、スーパーマーケットは、さらに安価に商品を販売するディスカウントストアやいわゆる100円ショップなどとの価格競争にさらされています。一方、通信販売の急速な発展や消費者の身近にあるコンビニエンスストアに代表される業態との競争も激しいです。国内産業の空洞化が叫ばれて久しく、半導体から日用品まで、多くが海外企業の生産に頼る仕組みになってしまいました。コロナ禍のように海外との流通が滞ると困った事態になります。

さらに、コストや一定の品質だけでなく、SDGs(『Sustainable Development Goals』=『持続可能な開発目標』)を考えた商品販売や仕入れが求められています。このため、生産国の分散や国内生産回帰の動きも出るようになりました。また、SDGsは、大量生産、大量消費という現代工業社会のあり方そのものに警鐘を鳴らしているわけですので、その意味で、日本の江戸時代のような高度に発達したリサイクル社会、さらには、約1万年間続き、自然と共存したと言われる東北・北海道の縄文文化などが注目されています。だいぶ、以前に触れました生活の速度が工業製品の生産速度に比例して、限りなく増加してしまう問題は、環境負荷という負のフィードバックにより抑制でき、際限なき生活速度の上昇を抑えられる可能性が出てきました。

本節では、下記を参考にしました。
新・コンピュータ事始め(FAX)』(2017年1月のご挨拶)のFAXの導入、日米通商摩擦、日欧通商摩擦
『ジャパンを叩け! 特派員だけが知っている米国最新情報』(古森義久 著:PHP研究所:2015年4月21日)
『SDGs Jounal (SDGsジャーナル)』 https://sdgs-support.or.jp/journal/
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(3)新型コロナ×油断

2019年12月頃から中国の武漢市を中心に広がり始めた(中国政府発表=2019/12/31、武漢市封鎖=2020/1/23)新型コロナウイルス感染症(正式名称『COVID-19』、以下では、『コロナ』と書く)は、一番新しい『黒船』です。日本では、2020年1月15日に最初の感染者(武漢からの入国者)が発見されました。

世界保健機関(WHO)は、2020年1月23日~24日の国際会議で、公衆衛生上の脅威とは認められないとの見解を示しましたが、中国国内のさらなる感染拡大を受けて、2020年1月31日(日本時間)、『公衆衛生上の緊急事態』を宣言しました。これは、いわゆる世界的な大流行を表す『パンデミック宣言』では、ありません。(WHOのパンデミック宣言は、だいぶ、遅れて、2020年3月11日です。)

日本は、中国政府及びWHOの声明を受けて、武漢市及びその近郊との往来を制限しましたが、中国の他地域との往来や第三国との往来は、しばらく制限されませんでした。振り返ると、ここは、最初のターニングポイントでした。この時点で、全面的な入国制限を発動していれば、その後の事態は、ずいぶんと変わったものと思われます。台湾、北朝鮮などは、厳しい入国制限を課しました。先見の明があります。

サーズやマーズといった近年アジアでも流行した感染症に、たまたま、見舞われなかった日本は、明治以降、力を入れてきた検疫や感染症対策を見直し、保健所の人員や機材、予算、国の備蓄を近年継続して縮小してきました。日本の医薬や医療体制を過信しすぎたためと思われます。これが日本のコロナ感染との戦いを長引かせている要因の一つだと言えるでしょう。明らかに、コロナという『黒船』に対する油断でした。

しかし、2020年2月3日に横浜港に着岸したクルーズ船、『ダイヤモンド・プリンセス号』の船内(乗客約2700名、乗員約1000名)に多数の患者が発生していることが分かると、そんな日本の過信もみじんに打ち砕かれました。数名の患者であれば、なんの問題もなかったでしょうが、数千名の乗船者をすべて下船させて収容する施設は、ありません。やむなく、重症者のみ病院に搬送し、残りを船内に留めたまま、体温を測定してもらったり、PCR検査用の検体を採取してまわることは、途方もなく時間がかかりました。その間に船内で感染が広がり、さらに、治療や検査にあたる医療従事者も一部感染するという最悪の事態に陥りました。

このような状況を受けて、日本でも、ようやく、2020年4月7日、第1回目の緊急事態宣言が7都府県に、続けて、4月16日に全国に発出されました。その後の経緯は、省略しますが、早期に終息するという一部の楽観的な観測を覆し、現在の日本国内の感染状況は、行政や医療従事者等の尽力にもかかわらず、流行を抑えきれていません。

2021年4月25日に3回目の非常事態宣言が一部地域に5月末(6/20まで延長)まで出されました。特に残念なことに、昨年(2020年)夏に予定されていた『オリンピック・パラリンピック』をせっかく一年延期しながら、2020年の秋から冬にかけて、自粛対策を緩めてしまったことです。切り札となるワクチンは、国産が間に合いませんでした。(承認済みのワクチンは、海外産1種類でしたが、5/20に海外産2種類が認可されました。)

このため、医療従事者と高齢者(65才以上)への接種がかろうじて、7月末までに間に合うかどうかという事態となっています※。大都市では、一部、8月にずれ込む可能性があります。コロナの大流行国では、ウイルスが複数の新しい変異を起こして、その変異株のいくつかは、より感染のスピードや毒性が上がってきているようです。イギリス型、ブラジル型、インド型などが警戒されています。すでに日本国内でも、これらの変異株にかなり置き換わりつつあります。
※ 2021/5/17より、東京、大阪の大規模会場で自衛隊が行う集団接種の予約が始まりました。
 東京23区内と大阪市は、5/17より、東京都と大阪府は、5/24より、東京・埼玉・千葉・神奈川、大阪、京都、兵庫は、5/31より いずれもインターネット、LINEでのみで予約を受け付けます。

これでは、今年(2021年)のオリンピック・パラリンピックの開催自体も不安視されます。コロナ対策として、日本流のお願いベースでは、不十分なことは、明らかですが、強制的な対策を取れる仕組みを作る気持ちが乏しいことも、その背景にあるように思われます。

※ 2020年の春~夏、マスクをはじめとして、アルコールなどの消毒薬、使い捨ての防護衣、使い捨ての手袋など様々な衛生用品の品不足が重なって、病院や診療所、役所も大変苦しんだことを忘れては、いけません。大阪市では、いらなくなった雨合羽を防護衣代わりに利用するため市民に提供を呼びかけました。また、消毒用のエチルアルコールそのものも不足し、厚労省から度数の高い酒を手指等の消毒用として利用して差し支え無しというお達しまで出ました。(江戸時代かぃ!)

※ 品不足が起きた理由としは、問屋の在庫が少なかったこと(在庫をなるべく持たない合理化策の影響)、コロナによる船便や航空便の減少により生産国(特に中国)からの輸入が減ったこと、輸入先の生産国が自国の需要を満たすために他国への輸出を制限したこと、国の備蓄が不十分(過去に備蓄したがその後継続していなかった)など複数の要因があります。
 私たち日本人は、『喉元過ぎれば、熱さ忘れる』傾向があるので、ここに記載しておきましょう。

※ コロナへの初期対応状況や予防策、感染数のシミュレーション等は、下記に記してあります。
感染(流行)曲線(差分方程式を立てる・Excelで解く)』(2020年3月のご挨拶)
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(4)氏名の読みがな×軽視

これは、氏名の読みがな(ふりがな)の軽視という問題です。コロナにより、直接に明らかになったと言うより、コロナを契機として、広く世の中の人々に周知されたという意味です。すなわち、役所(特に戸籍に関する部門や担当者)では、以前より、周知の事柄だったでしょう。『触らぬ神にたたり無し』と歴代の行政が(国会も含めて)無視し続けてきた結果、定められていない不利益がコロナという『黒船』で照らし出されました。


00)浮上する隠れ問題

このように関係者は、問題があると感じていても、世間に周知されていない『隠れ問題』が多くあるのではないかと思います。すでに海外からの人も増えつつあり、『なんとなく』とか、『今まで問題がなかった』から、などの安直な理由で積年の隠れた課題を引き延ばさず、明るみに出して、きちんと言葉や法律等で定義していきましょう。

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01)かかりつけ医って何?

たとえば、コロナワクチンの予防接種に関連して、『かかりつけ医』の定義がなされていないことが問題になりました。患者も含めて、関係者のイメージがそれぞれ、異なっていて、法律上も定義されていません。※

※ 次回に詳しく、触れたいのですが、明治新政府が行った様々な改革の中で、物の名前を全国で統一することがありました。たとえば、水産物の『タイ』は、同一の品種について、全国で、80近い呼び名があったと言います。このため、いちいちの物産について、『標準和名』を定めました。現在、『真鯛』、『真鯖』などスーパーの品名になっている名前に付く『真』は、代表名を新しく作ったものだそうです。水産物は、冷蔵技術がない時代、野菜よりも流通する範囲がより狭いため、それぞれの地域でより多数の名前が生まれたのでしょう。

なお、維新直後、全国に多数の方言があったなか、日本語の『標準語』を新政府が定め、新しく制定された学校で教えたことは、よく知られています。しかし、『標準和名』を定めるなど目立たない部分でも、先人達が地味な苦労を積み重ねてきたことが分かりました。
 この緑字部分は、NHKの『日本人のおなまえ』の放送を参考にしました。

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02)公正証書遺言は安心安全か?

『公証人役場』における本人確認も安心・安全とは言いがたいようです。たとえば、遺言の公正証書(公正証書遺言)を作成する際の本人の確認は、本人の印鑑証明書と実印との照合、氏名、住所、本籍地、干支が正しく言えること、だけです。本人の身分証明書の提示や写真付き証明書の写真と本人との照合は、ありません。証人二名も本人を確認しますが、証人は、本人が用意しますので、本人確認の信頼性の向上には、結びつきにくいです。

公証人役場において、本人と証人二名のサイン(筆跡)は、残りますが、後日、本人だったかどうかの疑いが生じた場合に備えてスチル写真の撮影、音声の録音、本人と証人の指紋の押捺は、ありません。どうでしょう、問題点がありそうでしょう?

まあ、制度上の理屈として、公証人役場で本人と身分証明書の写真との照合を省くのは、証明(認証)の連鎖という考え方に基づくのでしょう。すなわち、印鑑証明書(最初は、印鑑カード)の取得時に区役所や市役所において、本人のマイナンバーカードや免許証等の写真付き証明書と本人との照合、さらに、マイナンバーカードや免許証等の写真付き証明書の取得時に本人と写真との照合が行われている、結果として、印鑑証明書を発行された印鑑の印影は、本人のものであり、その印影と(肉眼で見て)一致する印鑑を持参した人が本人である確率は、極めて高い(!)と考えられます。

さらに、公証人立ち会いの下に氏名、生年月日、本籍、干支が正しく言えることが確認できれば、(絶対に!?)本人に間違いがないと断定でき、成りすまし等の詐欺行為は、あり得ないため、写真の撮影、音声の録音、指紋の押捺などの後日のための記録は、必要ないという論理です。

え~!、今の時代、これで大丈夫だと心底確信していらっしゃるのですか?、と公証人(多くが元検察官と聞きます)の皆さまに伺いたいです。ぜひ、これらの問題点を認識していただき、写真付き本人確認書類の追加提示と確認及び書類の撮影、本人と証人の指紋の押捺及び上半身写真の撮影、並びに、これら電子データの保管を追加することにより、公正証書の信頼性の向上を図るべく、関係法令の改正に関する要望を積極的に法務省に提出していただくことを望みます。
参考
本人確認(あなたは誰だ?)』(2019年2月のご挨拶)
 『遺言者は誰だ?(公正証書遺言)
 『写真付き本人証明書の能力と限界(パスポート、運転免許証、マイナンバーカード)
 『証明書が本物で、持参人が偽者である
 『証明書が偽物で、持参人も偽者である
 『証明書(の内容)が偽物で、持参人が本人である
 『写真付きでない本人証明書の能力と限界(健康保険証)
 『写真付きでない本人証明書の能力と限界(実印と印鑑証明書)
 『印鑑の効用
 『証明書は、本物か?
 『持参人は、本人か?
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03)不明年金問題の教訓

古い話で恐縮ですが、もう、15年も前の『不明年金が5000万件』は、大騒動でした。しかし、現場レベルでは、年金支給開始時に、毎年10万件以上の修正を行ってきていることをご存じだったわけです。不明年金の後始末は、まだ、完了していません。多くの教訓を残しました。参考のページをご参照下さい。
※ このときの原因分析を行った報告書※を読んで、様々な疑問が残りましたが、氏名の読みがな項目を当初のデータベースに設けなかった理由もその一つでした。そもそも、戸籍の項目に含まれていなかったため、読みがなの項目を設けなかったのではないか、という可能性があるように思いました。
※ 2007/10/31付けで公表した「年金記録問題検証委員会報告について」という長文の報告書の中の「第5 年金記録管理システムの調査結果」 (報告書URL : http://www.soumu.go.jp/s-news/2007/071031_3.html)
※ 厚生年金データベースでは、対象者の氏名や勤務先の名称や住所は、登録されていても、対象者の住所が登録されていませんでした。対象者が生涯一つの会社で勤務し、勤務先も倒産しないで存続していれば、これでも、大きな問題を起こすことがなかったでしょう。しかし、高度成長期以降は、多くの就職者が生涯に何度も転職したり、会社が倒産して、前の勤務先との連絡がつかなかったりと、様々な変化にシステムの改修が対応できませんでした。

参考 
どうなっているんだ!年金 パート1』 2007年6月
どうなっているんだ!年金 パート2』 2008年1月
どうなっているんだ!年金 パート3』 2008年4月
どうなっているんだ!年金 パート4』 2009年3月
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04)あうんの呼吸はダウンの元

社会や技術の変化が早くなり、デジタル化が進んでいる今日、従来の『あうんの呼吸』はダウンの元となります。様々な不正な手段で偽造証明書が販売され、印鑑の偽造も易しくなってきました。印鑑証明書と一致するから実印とは、即断できず、本籍や生年月日、干支を正しく言えても本人とは、限りません。『証明書』を持参した人が本人だろう、と安易に考えて本人確認を行いますと、なりすましの手伝いをしてしまうことになりかねません。

『法律』やそれに基づく『政省令』、『通達』などで形作られる『制度』は、出来上がった瞬間から、すでに『劣化』(制度と現実世界とのずれ)が始まることを忘れてはいけません。法令等に基づいて、制度が実施されているから正しいとか、問題が起きないとか、問題がないとか、言うことは、できず、仮にそのように信じているのであれば、それは、不遜(思い上がり)です。制度の上に単にあぐらをかいて座っているに過ぎません。時代を『制度』に合わせて考えるのではなく、『制度』が時代に即しているかどうかを日々、見極めることが肝心です。現場での不断の『制度』の検証が求められています。

夢枕獏氏の『陰陽師』シリーズの主人公、安倍晴明と親友の源博雅の口を借りて想像すれば、こんな感じでしょう(以下は、妄想です)
晴明 『博雅(ひろまさ)よ、「本人」と書かれた「書き付け」を持って来た者が本人であると相手に思い込ませるのが「書き付け」に込められた『呪(しゅ)』のちからなのさ。だから、「書き付け」は、上質な紙に、達筆な字で書かれ、立派な印が押してあるだろうが。いずれも、呪のちからを増すためだな。

 おまえが立派な衣冠束帯に身を包んで宮中に上がれば、誰もが、おまえを殿上人だと思うのと同じことだ』
博雅 『おいおい、晴明。それでは、おれがみすぼらしい身なりだと、源博雅ではなくなるのか』
晴明 『そんなことはない。博雅は、博雅だ。だが、おまえを知らぬ者は、いくら、おまえが、殿上人だと言い張ったところで、信じないだろう。よくて、無視されるか、悪くすると、気ちがい扱いされ、下手をすると、罪人の疑いまでもかけられるかも知れないな』
博雅 『けっきょくは、見た目次第と言うことではないか』
晴明 『目、耳、鼻などわれらの五感に感じさせようと図るものは、みな「呪」ぞ。あの男がやっていることもおなじことだな』
博雅 『おい、晴明、帝をあの男などと呼んではならぬぞ』
晴明 『おまえとおれだけの話だ。だが、われらの衣装、儀式、儀礼も、また、「呪」さ。いにしえのお方が定められたことを受け継いで広げただけなのだ』
博雅 『どなたなのだ。そのお方というのは』
晴明 『高天原広原姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)。われらが、持統天皇と呼ぶお方さ』

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①戸籍に読みがなの項目なし

『え?、氏名の読みがなは、子どもが生まれたときに役所に届けているよ』と仰る方も多いでしょう。筆者もそう思っていました。 しかし、2021年3月13日の朝日新聞の夕刊の『戸籍(こせき)()みがな ()めぬ先行(さきゆ)』と題する記事を読んで、自分がこれまで『ボーッと生きてきた』ことを痛感しました。

以前に筆者が取得した自身の住民票や戸籍謄本を確認すると、なるほど、氏名に読みがなが振られていませんでした。記事によれば、そもそも、読みがなは、法律で戸籍に登録すべき項目として指定されていません!(『な、な、ナントの勅令じゃ~』)

戸籍法第13条によれば、登録すべき項目として指定されているのは、次の8項目だそうです。
① 氏名
② 出生の年月日
③ 戸籍に入った原因及び年月日
④ 実父母の氏名及び実父母との続柄
⑤ 養子であるときは養親の氏名及び養親との続柄
⑥ 夫婦については、夫または妻である旨
⑦ 他の戸籍から入った者については、その戸籍の表示
⑧ その他法務省令で定める事項

『じゃ、出生届の読みがなは、一体何のためなの?』と思いますよね。毎年、生命保険会社等から、今年生まれた赤ちゃんの多かった名前と読み方が発表されます。字画や音にこだわって、ご両親は、ずいぶんと苦労されていることに感心していました。
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②戸籍に読みがながないと困る訳

同紙によれば、出生届の氏名の読みがなは、役所の事務用として記載してもらう(外国人は読みがな付きの住民票が作成されます)そうです。すなわち、氏名の読みがなの登録には、法律上の根拠がありませんでした。これには、驚きましたな。NHKの『日本人のおなまえ』で、この謎をぜひ取り上げてもらいたいものです。

役所の戸籍、住民票データには、(外国人を除き)『読みがな』がない(市町村により、住民票データには、該当項目があるかも知れませんが)ので、たとえば、コンピューターで処理を行う際、読みがなが必要な処理は、できない可能性があります。最近では、2020年の国民への定額給付金振込手続きで、振り込み先の読みがなと申請者名との突き合わせ処理を機械的に行えなかったことが、時間がかかる原因の一つになったということです。これでは、困りますね。

しかし、明治時代でも、人の名前を呼ぶ際に読みがなが必要でした。なぜ、戸籍の必須項目として『読みがな』を含めなかったのかは、筆者には、謎です。強いて、想像すれば、『平易な読み方が大半であった』、『読みがなが先にあって、漢字を当てはめた昔のならい(『ふり漢字』)から、狭い地域では、読みがながわかりきっているため含めなかった』、『全国的には変わった読みがなでも地元では読めた』、『元武士や一部の商人などを除き姓を持たぬ者が多く、姓名を登録するだけでも大変だったので読みがなは省いた』などが考えられるでしょう。

現代では、人々の生活域が全国に広がり、日常の会話は、もとより、ラジオ、テレビ、銀行への振込やクレジットカードのローマ字書きなど日常生活の様々な場面で氏名の読みがなが必須です。 また、役所向けの書類に限らず、様々な書類に、氏名とともに読みがな(ふりがな、フリガナ)欄があることが多いことは、それを物語っていますね。
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③読みがな追加の問題点

『じゃ、上述の⑧にあるように法務省令※で読みがなを追加すりゃいいじゃん』と思いますが、法務省で数年前に検討した際は、下記のような問題が指摘され、後日に延ばしたようです。
※ 省令は、法律の所管官庁で大臣まで了承すれば、実施できるもので、官報に掲載されます。政令は、所管官庁だけでなく、内閣として閣議決定が必要です。法律は、内閣だけでなく、国会の同意が必要です。
・ 通常の漢字の読み方にない場合、その読みがなを役所が公認したかのように受け取られる可能性。
 例:名=海、読み=マリン、あるいは、漢字の読みとは異なる様々なキラキラネーム
・ 姓の場合、同一戸籍内で異なる読みを認めるかどうか?
 例:母=赤来(あかき)春子(はるこ)、娘=赤来(あかぎ)夏美(なつみ)
・ そもそも、読みがなは、氏名の一部と考えるのか?

私見では、読みがなを戸籍に追加する場合、表記の揺れは、なるべく抑えて(例:『太郎』の読み=『たろお』は認めずに『たろう』に統一)、ただし、漢字の読みとは、無関係な読みがなも認める(海をマリンなどと読む)。これが現実的な方法だと思います。

このとき、文字の種類(ひらがなに制限。また、拗音は、ぁ、ぃ、ぅ、ぇ、ぉ、ゃ、ゅ、ょ、っ、のみ。うの濁点=ヴァなどは、使わない)、読みがなの文字数を一定以下に制限する、ことなどが必要でしょう。 読みがなの表記の揺れをゼロにはできないと思われますので、氏名の一部に含めることは、難しいでしょう。あとで述べる、イングリッシュネームやニックネームと同様の扱いで個人に関連する参考情報でしょう。 また、この際、『性別』は、削除、『続柄』の『長男』、『二男』、『長女』等は、『子』に統一したらいかがでしょうか。

最後に、同一戸籍の『姓』の読みがなの統一ですが、漢字の読み仮名として妥当であれば、濁点の有無などに目くじらを立てずとも、各人の届け出に従う、で差し支えないと思われます。読みがなを統一したい理由は、伝統的な家族像を守りたいとか、家族の一体感を感じたいとかの抽象的な部分が大きいでしょう。もはや、意味が薄くなってきたのかと思います。※
※ 戦前までは、『戸主』が一家を束ねてきました。そして、相続は、長男、あるいは、その子になされました。女の子のみの場合は、婿をとって家を継がせましたね。二男、三男等は、一生、長男の元で働くか、他所に養子に行くか、仕事を見つけて妻を娶るかしかありません。戸主が独立したとみなせば分家を許されるのです。家にいる以上、長男に頭が上がりませんでした。

これが、古代に持統帝が決めた「日本のかたち」に起源を持つ(後述)とは、今回、初めて知りました。戦後は、財産分与については、兄弟姉妹が平等になったことは、ご承知の通りです。戸主も戸籍筆頭者(世帯主)に名称が変わりました。けれども、時として、姓(の読みがなまでも)を統一したい、夫婦別姓を認めない、ローマ字でも姓を最初に書きたい・・、という声が根強くあることは、家制度や長男優先という日本古来の呪縛を感じます。戦後も、先輩、上司に無批判に従いがちな私たちのなかにも気づかずに存在しているのでしょう。
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④読みがなの多様性

ちなみに、NHKの『日本人のおなまえ』で、『東海林』を『とうかいりん』と読む地方があるという話が取り上げられたことがありました。東海林(しょうじ)太郎(『流行歌手。秋田県生れ。「赤城の子守唄」「国境の町」などがヒット。(1898~1972)』広辞苑第7版)さんが活躍された後、『しょうじ』と読む方が多くなったそうです。しかし、この『とうかいりん』と読む人達も残っているとは、新鮮な驚きでした。氏名の読みがなは、知らないと読めないものもありますし、全国的に見ると複数の正解があり得ます。

筆者も俳優の『平幹二朗』(ひら みきじろう)さんの名前を長らく『たいら かんじろう』だと思っていましたから。俳優や歌手などの芸名の読みは、難しいものがありますね。病院や他人に自分の名前を間違えて呼ばれて血相を変えて怒る方がいらっしゃいます。世の中は広く、いろんな名前の読み方があります。広い心をお持ち下さいな。
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⑤日本人氏名のローマ字つづり

日本人名の漢字、ひらがな等をローマ字で書く場合、ヘボン式を使うか、訓令式(ローマ式)を使うかで、異なります。両方を交ぜ書きをされている方もたまにいらっしゃいます。しかし、英語がネイティブの人がローマ字名を読んだ際、元の読みがなと同じ発音ができるとは、限りません。これは、どのような言語であっても、当然で、やむを得ないことでしょう。

ここで、ハタと思い出しました。日本人名の姓と名の順番を日本語の順にするか、英語名のようにひっくり返すのか、そんな議論があったような? 調べてみると、2020年1月1日から実施するとの府省庁間の申し合わせなるものが見つかりました。河野外務大臣の時に提唱されたようです。

それによれば、ローマ字で日本人の名前を書くときに、姓(英大文字)-名(先頭の英字を大文字、残りは小文字)の順にするようにという指示でした。(う~ん。コロナ騒動ですっかり忘れていました。明治以降、だいぶ、経ってしまいましたからね。ひっくり返すのに慣れてしまったところは、あります。会社等のコンピューターのアカウント名で、田中太郎と田中花子に、tanaka_t、やtanaka_h、というアカウントを作っていれば、いいですが、t_tanaka、やh_tanaka、もありそうです。もちろん、差し支えは、ありませんが、名-姓を変えるには時間がかかりそうです)

なお、米国などでなるべく日本語の読みに近い発音をしてもらうことを期待して、通常のローマ字書きと異なるつづりを使う例もあります。たとえば、自動車メーカーの『マツダ』は、英語名を『mazda』とつづり、ツ=tsu=tu、をzで置き換えています。たぶん、『マスダ』と発音されるのを避けたのではないかと思います。
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⑥外国人氏名の読みがな

ギョエテとは俺がことかとゲーテ言い』と昔の人の言葉※にあるように、音にこだわり過ぎて表記したところで、一般に使われていない読みがなでは、多くの人に理解できません。最近では、原則として、現地の発音に沿いながらも、日本人の耳で聞き分けられて、過去の書きぶりも考慮しているようです。(小麦粉を『メリケン粉』と言う方が以前は、結構、いらっしゃいました。『American』の小麦で作った小麦粉を指します。幕末の人には、アメリカン・・は、『米利堅(メリケン)』と聞こえたのでしょう。)
※ 「ギョエテとは・・」は、斎藤緑雨の作と言われています。(公益財団法人日本英語検定協会のコラムより)
https://www.eiken.or.jp/eiken-junior/enjoy/welcome/detail02/detail_11.html

かな書きでは、ヴなどのv音をかき分けるか、長音(ー)、拗音(ァィゥェォャュョッ)の使い方で表記の揺れが発生します。一般の単語でも、(球技の)『バレー』と(舞踊の)『バレエ』など、昔から慣用的に使われていた外来語の読みがなは、引き継がれています。

また、英字で書かれても、現地語読みか、英語読みかで、実際の発音は、違いますね。たとえば、ローマの将軍 『Julius Caesar』(現地語読み=ユリウス・カエサル)は、英語読みでは、『ジュリアス・シーザー』のように発音されます。(仏語、独語読み等々、多数ありますね)

新しいところでは、中国の『習近平』主席を漢字の日本語読みで『シュウキンペイ』とするか、ピンイン※に沿った英字表記の『Xi Jinping』の『シー・ジンピン』とするか、少なくとも2通りに分かれます。※
※ 日本語をコンピューターに入力する際には、『ローマ字かな漢字変換』が使われ、漢字の読みがなをローマ字またはかなで入力して、漢字かな交じり文に変換します。これに対して、中国語では、ひらがなに相当するものが無いため、中国語の読みを『ピンイン』というアルファベットで表記する標準的な記法によりキーボードから入力する方法がとられます。

なお、下記の名古屋大学の『ことば不思議箱』の『綴 外国人名のカタカナ表記推定』でアルファベット表記の人の読みがなの自動推定を行えます。http://kotoba.nuee.nagoya-u.ac.jp/sc/tsuduri/
 例えば、ゲーテは、『Goethe』、国をドイツを表す『GER』(IOCの国名記号※による)と入力すると、第一候補は、『ゲーテ』、それ以外に、『ゲテ』、『グーテ』、『ゴエテ』、『ゲッテ』が表示されました。このサイトは、2021年の東京オリンピック・パラリンピックのために準備中のものです。
※ IOCコードは、『IOCコード一覧』(ウィキペディア)などで参照可。国名コードが不明でも▽ボタンで国名を選択できます。
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⑦台湾の英語名、通称

筆者が、大昔、台湾に行った際、頂いた名刺の裏に英語名が印刷されていました。『Marguerite(マーガレット)さんですか?』と思わず表の漢字表記とぜんぜん違う英語名に驚いて、お尋ねしたことがあります。その方によれば、自分で好きな名を決められるというご返事でした。その時は、それで納得してしまいました。これが、『英語名』(イングリッシュネーム)(厳密には、後述のように、通称(ニックネーム))の例です。

そんなことを考えていた矢先、NHKラジオの『ちきゅうラジオ』で、台湾では、本名を生涯で3回変更可能という話題を偶然、耳にしました。早速にインターネットで調べてみると、台湾茶藝館『狐月庵』さんのサイトで、占いで名前を付けたり、変えたりする方が多いという、『改名で開運?!台湾人の名前と苗字の秘密』が載っていました。
https://kogetsu-an.shop/culture/1702/
3回まで改名できるというのは、本当の話でした。

『ビックリ台湾事情』の『第44回 台湾人の英語ネームについて』(黒田法律事務所・黒田特許事務所)
https://www.kuroda-law.gr.jp/column/taiwanjijo/6763/
 上のHPによれば、改名の件は、確かにそういう事情があるようです。『台湾では、パスポートに関する規則(護照絛例施行細則)により、『イングリッシュネーム(英語名)』は、漢字名の読みから作れるアルファベットのみパスポートに記載でき、さらに、通称(上述の『マーガレット』のようなもの)も記載可能』だということです。

なお、台湾に限らず、漢字圏や非アルファベット圏の国で、英語名や通称が使用される例もあります。※
※ 会社名やブランド名などは、母国語表記以外の英語名が広く普及していると思います。
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⑧英字を使う理由

なぜ、アルファベット(英字)でつづる必要があるかですね。これは、大雑把に言えば、現在の世界中のコンピューターで共通して、必ず、利用できるのは、アスキー文字※だからです。漢字などの非アスキー文字は、使えないものがあります。パソコン通信やそれを発展させたインターネットは、コンピューター同士をつなぐためのものですから、互換性のある文字を使う必然性が高まりました。一番、わかりやすい例は、パスワードでしょう。漢字やひらがなは、使えません。クレジットカードの氏名などを英字でつづる必要性も理解できます。
※ アスキー文字とは、『ASCII(American National Standard Code for Information Interchange)米国情報交換用標準コード。ラテン文字や数字・記号などに7ビットの符号を割り当てたデータ通信のための符号体系。 ISO 符号や日本の JIS 符号のもととなり、コンピューター用の標準文字コードとして最も普及。』(広辞苑第7版)

その他には、外国人に自分の名前の読み方(呼び方)を伝えたい目的もあります。漢字圏以外の人に漢字を読むのを強いるのは、酷です。もちろん、アラビア文字やタイ文字なども同じです。
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⑨韓国人氏名とハングル

韓国では、氏名は、漢字、または、ハングルが使用されます。(漢字とハングルの混在は、不可のようです)日本と同じように名前に使用可能な漢字は、制限されています。

なお、ハングルは、音のみを文字化したものですから、ハングルしか分からないときは、(漢字名であったとしても)該当する漢字が一つに推定できない場合もあります。これは、日本語のひらがな、カタカナの場合と同様です。また、アルファベットのつづりも一意には、決められないようです。韓国語の複雑な発音を英語の綴りに一意に置き換えられないのは、納得です。
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⑩英字名の統一は難しい

結局の所、アルファベットの綴りを厳密に一つにすることは、難しく、世界中の人達が現地語読みと同一に発音することは、難しいです。あとは、綴りの揺らぎを抑えるために各自で一通りに決めておく必要がありますね。

ちなみに、人や物の名前については、下記の今月のご挨拶で取り上げたことがあります。
2010年5月『名前は大事だよ』の『同一戸籍内の子の名前』、
2016年1月『君の名は?』の『字(あざな)と諱(いみな)』など。

後者では、難読の名が増えていることを踏まえて、『近い将来、日本人の氏名の標準的な書き方をあらためる必要がありそうね。たとえば、「田中 悠人」、じゃなくて、「田中 悠人 はやと」的なものとして、字(あざな)、復活~」とも書いていました。ただ、氏名の『読みがな』の法的根拠があるの?、という疑問を持たなかったのは、残念でした。あまりに初歩的なことが決められていない可能性も探ってみるべきでしたね。

参考
『戸籍に読みがな 読めぬ先行き』(2021年3月13日の朝日新聞夕刊)
新コンピューター事始め(日本語ワープロ)』(2017年5月のご挨拶)の『ハングル、ふり漢字、キラキラネーム、国字
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2.黒船ベスト 6

日本列島に初めて人が渡る際に乗ってきた船が『黒船』第1号と呼べるでしょうが、漠然としすぎています。また、弥生時代の象徴とも言うべき、『稲作伝来』、『畑作伝来』などは、ぜひ、取り上げたいところですが、これらは、日本列島に渡ってきた人々に付随してやってきたと考えて、ここでは、選びませんでした。

(1)漢字の伝来(1世紀頃)

①海外との交流

日本(当時は、倭と呼ばれる)と朝鮮半島や中国との往来は、(2)節で取り上げる『邪馬台国』(3世紀)以前にもあったと考えられます。

楽浪の海中、倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来たり獻(=献)見す』(前漢書1世紀)とすでに1世紀頃に中国王朝に朝貢する複数の集団が日本にあったことが伺えます。中国は、文書の国ですから、貢ぎ物を持って、口頭であいさつするのは、失礼で、必ず、漢文で書かれた挨拶状を携えていったと思われます。

当時、倭のどの国も文字を持っていなかったでしょう。文字を持たぬ民族が『文字』という概念を理解し、さらに、漢字を習得することは、非常な努力を要したものと思われます。従って、まずは、通訳(漢文に通じていて倭国の言葉も理解できる)に頼る必要があったでしょう。そのため、その人達の集落が対馬や九州沿岸にあったと思われ、倭の様々な集団がそれらの人々の手助けを借りたと考えられます。交流が続けば、混血も進行していったと思われます。

『金印』に関する記述が後漢書(5世紀)の中に『建武中元二年(57年)狗奴国(弥生時代の倭の強国。男王が支配し、邪馬台国と対立した。)貢を奉じて朝貢す。光武帝(当時の国王)が賜うに印綬を以てす』とあります。この印綬に見合うと考えられている金印が、1784年に福岡県志賀島で発見された『漢委奴国王 (かんのわのなのこくおう)』の刻字のある印※です。

※ 金印は、後世の偽作ではないかという説も根強くあります。その場合は、中国の歴史書を元に偽物を作成したと言うことになります。いずれにしても、1世紀当時に日本から中国の王朝に朝貢していた国があったことは、事実でしょう。

その後、2世紀にかけて、倭に大きな内乱があり、(倭の大乱)、それが邪馬台国の頃にようやく静まったと記載されています。
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②最大級の黒船

いつ頃に倭の人々が漢字を、当面、中国や朝鮮との交易用に限定したとしても、コミュニケーション用ツールとして、意識したのかは、不明です。国内で発掘された木簡などの遺物は、5世紀頃まで、下ってしまうようです。しかし、1世紀頃から5世紀頃まで、倭の人達が『漢字』にまったく興味がなかったと、考えるのは、当時の倭の人々に失礼のような気もします。好奇心が旺盛な人々は、必ず、いたはずです。

当初は、通訳などの手を借りながら、徐々に理解を深めていったのではないでしょうか。(3)節の『仏教伝来』のように明確にこの時期に伝わったと言えないだけでしょう。『漢字の伝来』は、最大級の『黒船』でした。当時の日本には、文字がなかったので、漢字に対する反発は、なかったでしょうが、難しいと思ったことは、確かでしょう。
(余談ですが、もし、入ってきたのが漢字ではなく、英字だったとすれば、今頃、日本人は、英語で苦労しなくて済んだのかな?)
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③万葉仮名

そこで、新しく知った漢字で日本の言葉を記すために『万葉仮名』(『日本語を表記するために表音文字として用いた漢字。平仮名・片仮名ができる以前,漢字の音や訓によって「波流(春)」「八間跡(やまと)」のように,その漢字本来の意味とは異なる日本語の音を書き記したもの。漢字の音を用いた音仮名,漢字の訓を用いた訓仮名,戯書などがある。普通は,一字で一音節を表すものをいう。五世紀頃の金石文に見え始め,上代には日本語を表記するのに広く用いられた。』(大辞林4.0)、がまずは、使われました。

その集大成とも言える、『万葉集』の原文は、万葉仮名で書かれています。通常は、漢字とひらがなに読み下した訳で読まないと、ちんぷんかんぷんです。漢字の音を利用した(表音文字)文のためです。現代人であれば、あ⇒亜、い⇒伊、のように一対一の対応表を作って、漢字で書くと思いますが、当時は、『ひらがな』がなかったので、こういうシンプルな発想が浮かばなかったと思われます。

『万葉集』(土屋文明訳)の後書きによると、『万葉仮名とひらがなとの対応は、不規則雑多である』旨の述懐を記されています。

また、ウィキペディアの『万葉仮名』によれば、『楷書ないし行書で表現された漢字の一字一字を、その字義にかかわらずに日本語の一音節の表記のために用いるというのが万葉仮名の最大の特徴である。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれる。『古事記』や『日本書紀』の歌謡や訓注などの表記も『万葉集』と同様である。『古事記』には呉音が、『日本書紀』には漢音が反映されている。江戸時代の和学者・春登上人は『万葉用字格』(1818年)の中で、万葉仮名を五十音順に整理し〈正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書〉に分類した。万葉仮名の字体をその字源によって分類すると記紀・万葉を通じてその数は973に達する[要出典]。』とされています。1字が1音を表すものとしては、あ⇒阿、安、英、足、と4種類の字が使われ、他のい、う、・・については、さらに多数の文字が使用されています。※
※ 漢字の音に引きずられたこともあるでしょう。また、古代には、音が現在の50音より多かったと言われます。そのため、万葉仮名の種類が増えてしまった面もあるのかも知れません。
 『ジャパン・ナレッジ』の『上代特殊仮名遣い』
 https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=843

※ 朝鮮文字『ハングル』は、どうだったのでしょうか。ウィキペディアのハングルの項によれば、
 朝鮮の知識層では、15世紀頃まで、漢字が使われていました。世宗(朝鮮第4代国王在位1418~1450、(1397~1450))は、朝鮮の固有文字の創設に意欲を示しました。しかし、知識層からは、反発が強く、1444年頃に『
世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は、昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル(パスパ文字)・西夏(西夏文字)・女真(女真文字)・日本(仮名)・チベット(チベット文字)のみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した』そうです。けれども世宗は、漢字を否定するのではなく、庶民に文字を行き渡らせためだとして、彼らをなだめて、ハングルを創設したと言うことです。(う~ん。反対説は、(自らの特権を守りたいという)典型的な専門家の反論ですね。反対派の皆さんに石頭という称号を贈りたいです。
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④万葉仮名の翻訳

万葉仮名は、音を表すだけなので、訳者により、普通の古文に翻訳する場合、どの漢字を当てはめるかで、違いが出てくる場合があり、それは、解釈の違いにもなり得ます。
 例えば、後世に歌の聖と呼ばれた、『柿本人麻呂』は、広辞苑第7版では、『万葉歌人。三十六歌仙の一人。天武・持統・文武朝に仕え、六位以下で舎人として出仕、石見国の役人にもなり讃岐国などへも往復、旅先(石見国か)で没。序詞・枕詞・押韻などを駆使、想・詞豊かに、長歌を中心とする沈痛・荘重で格調高い作風において集中第一の抒情歌人。後世、山部赤人とともに歌聖と称された。「人丸」と書いて「ひとまる」ともいう。生没年未詳。』とあります。

柿本人麻呂の辞世の歌(万葉集第二巻第二二三番)に続き、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が人麻呂の死を悲しんで詠んだ歌二首の内(万葉集第二巻二二四番)に出ている『かい』を『貝』ととるか、斎藤茂吉などのように『峡(かい)=谷間』ととるかで、人麻呂がどのように亡くなったのかまでが変わって見えてきます。※
※ 柿本朝臣人麻呂が、石見の国で死に臨んで、自ら悲しんで作った歌
二二三番
 『鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有』(原文:Wikisourceによる)
 『鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ』
(鴨山の岩を枕としている私を知らずに、妹(=妻)が待ち待っていることであろう) 土屋文明訳


柿本朝臣人麻呂が死んだとき、妻の依羅娘子が悲しんで作った歌二首
二二四番
『今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方』(原文:Wikisourceによる)
『今日今日と我が待つ君は石川の峡(あるいは谷)に交じりてありといはずやも』
(今日帰られるか今日帰られるかと、私が待つ君は、石川の谷間にはいっているというではありませんか)
(かいを峡と解する)斎藤茂吉の解釈を継いだと思われる土屋文明の訳
斎藤茂吉以前は、橘守部、近藤芳樹を除くと、貝を
峡とする学者は、いなかったという。
(今日帰られるか今日帰られるかと、私が待つ君は、石川の貝に交じっているというではありませんか)
(かいを貝と解する)契沖、賀茂真淵などのいにしえの学者は、貝説である。

アンダーラインは、筆者が入れました。『三代の天皇に仕え、六位以下の舎人で、石見国(島根県)で没した』とあります。『この個所は、斎藤茂吉の柿本人麻呂に関する一連の著作の影響が強く残っていると思われます。』※
※ 『水底(みなそこ)の歌 柿本人麻呂論』(梅原猛 著:新潮文庫:1983年発行)に詳しいです。
 梅原先生の説では、『柿本人麻呂は、かつて、大夫相当の従四位下を賜り、三代の天皇に仕えた第一級の宮廷歌人であった。しかし、政治的、恋愛的事件によって、地方に流され、最後は、石見国で刑死(水死)させられた。』ということになります。亡くなったとされるのは、『持統帝』の頃です。脇道にそれすぎますので、これ以上、触れないことにします。

その後、ひらがな、カタカナが主として、漢字の一部を使って、作られます。万葉仮名は、『中古において平仮名・片仮名が発達した後も,漢文訓読・宣命・真名本などに使われた』(大辞林4.0)、※2021/6/13参考記事を追記

こうして、現代の日本語は、主として、漢字、ひらがな、カタカナ、英数字、記号という5種類の文字種を混ぜて、使っているというところが特徴です。その意味で、約2000年前に漢字をもたらした船は、日本に最大の影響を与えた『黒船』だと断言して良いでしょう。

参考
『ことば研究館』 『漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか』
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/
目力めぢから(脳が見る、目撃証言の危うさ、誤認逮捕、えん罪、せん妄)』の『魏志倭人伝
今年の漢字は「想」か?』の『甲骨文字から現代の漢字へ』、『国字』、『和製漢語
新コンピューター事始め(日本語ワープロ)
 『ワープロの開発時の難題(漢字入力方法、印刷、文字コードなど)』
 『パソコンとスマホの日本語入力の比較
 『カナモジタイプライター、ひらかなタイプライター
『邪馬台国の秘密(改稿新版)』(高木彬光 著:角川文庫:1984年第9版)
『万葉集』(土屋文明 訳:河出書房:日本国民文学全集第二巻:1956年初版)
『水底(みなそこ)の歌 柿本人麻呂論』(梅原猛 著:新潮文庫:1983年発行)

2021/6/13 参考記事を追加しました。
 読売新聞の2021/6/13付の日曜版の記事中に興味深い記事を見つけましたので、参考として、追記します。それは、日本語の『五十音図』の起源が相当古いと言うことで、なんと、平安時代にさかのぼることが書かれています。『創案者は、『明覚』(山代温泉の薬王院温泉寺:天台宗の僧侶)で、1093年に明覚が書いた『反音作法』の中に現れるそうです。下の山代温泉の『あいうえお五十音図』のサイトに、大東文化大学の山口謡司教授の解説文とユーチューブへのリンクがあります。明覚は、サンスクリット語(梵語)を知っていたため、日本語を発音するのに、母音が5つ(AIUEO)で足りることを見抜いたのではないか』と書かれています。ちなみに、サンスクリット語では、母音が13個と書かれているサイトがありました。ただ、ア、アーのように延ばす音を別々の母音として勘定しているため、伸ばし音を省くと、ア、イ、ウ、リ(R)、リ(L)、エ、オ、となって、R、Lのリを除くと、日本語のアイウエオと対応できることが分かりました。なるほど、明覚がサンスクリット語を手がかりにして五十音図を創案したいうのには、説得力がありました。
『五十音図と山代温泉』(読売新聞:日曜版:藤原善晴:『鮮斎永濯 小学入門教授図解 第七』:2021年6月13日)
『あいうえお五十音図(山代温泉)』
 https://yamashiro-spa.or.jp/aiueo/
『インドの神話世界』の『サンスクリット語のはなし』(沖田瑞穂)
 https://kangaeruhito.jp/article/6403
『サンスクリット』 ウィキペディア
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(2)魏の答礼使船(3世紀頃)

①魏志倭人伝

『邪馬台国』に関する記事が残る『魏志倭人伝』という書物が独立してあるのではなくて、中国の正史「三国志」の「魏志(魏書)」にある「東夷伝‐倭」の条の通称です。実物は、写真版で見ることができるそうで、漢字約2千字程度。ものすごく長いとは言えないが、短くもありません。倭国の気候、服装、言葉、習慣、動植物等について、結構、細かな記述も見られます。

一方、はてな?、と思わせる記述もあります。これは、編纂者(晉の陳寿撰:西暦233年~297年、三国志の時代の『蜀』に生まれて、蜀が魏に滅ぼされた後に魏に仕えた人)が、倭国と他国、たとえば、現在のベトナム、ミャンマー、フィリピンなどと混同していた可能性もあるかも知れません。魏にとって、倭国は、朝貢をしてきた夷(古代の中華思想にいう異文化国)の一つに過ぎなかったので、多少の混同もやむを得ないでしょう。※

※ 陳寿が一部の情報を操作したという説※もあります。例えば、倭を中国の東ではなく、より南東方向にずらして、魏の敵国、『呉』の東方に当たるように記述することにより、呉を牽制する狙いがあったという説です。倭人伝冒頭に出てくる倭の位置は、大陸から見て『会稽東冶の東にあるべし』は、陳寿が参考にしたさらに古い書物では、『会稽の東』とあるため、陳寿が東冶を付け加えることにより、倭の位置を南に押し下げたとする説です。ちなみに、会稽は、今の杭州の会稽山という説が有力です。一方、東冶は、今の福建省です。このままだと、倭は、ほとんど、台湾あたりとなってしまいます。
※ 『邪馬台国サミット2021』(NHK BSP 2021年1月1日放送)
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②朝貢外交の動機

邪馬台国からの魏国への朝貢外交のきっかけは、具体的には、不明ですが、おそらく、過去の例に則り、中国の王朝に使者を送り、自らの正統性を承認してもらうことでしょう。それにより、交易※の便宜を図り、支配下の国々に自らの権威を示すことができたのでしょう。
※ 邪馬台国から朝鮮や中国に輸出できる価値のある産品があったのかどうかは、不明です。
 魏志倭人伝によれば、『(邪馬台国は)稲や麻の種をまき収穫したり、蚕を飼って絹糸を取ったり、麻や木綿の糸や織物を作る技術を持っている。(中略)武器としては、矛、盾、木の弓がある。弓は、握りの下の方が短く、上の方が長い。矢の鏃には鉄のものと骨のものがある。(中略)山からは、丹(辰砂)が取れる。樹木には、くすとち、くすのき、ぼけ、くぬぎ、すぎ、かし、やまぐわ、おかつら、などがあり、竹には、しのだけ、やだけ、かつらだけ、などがある。しょうが、たちばな、さんしょう、みょうがなどの香辛植物も自生しているが、その味の良さは、知らないようである。』とあります。
 丹=水銀の材料は、中国の興味(金の精錬や錬金術に使われる)を引いたかも知れません。すでに、稲作や葉酸していることや織物を作る技術があることも記載されていました。

卑弥呼が貢ぎ物と使者を送り、そのお返しに魏の使者(答礼使)が、『親魏倭王』の金印と紫綬、その他の返礼品を携えて、はるばると、邪馬台国に来た、と記載されています。しかし、その行き先が現在の日本のどこにあたるかが大きな謎(狭い意味でこれが『邪馬台国の謎』)であることは、皆さまご存じの通りです。
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③邪馬台国の使者

『魏志倭人伝』によれば、『魏の明帝の景初3年(239年)(景初2年説もあり)に倭の女王『卑弥呼』が大夫の『難升米』(なしめ)※らを帯方郡(『古代朝鮮に置かれた中国の郡名。後漢(『前漢の景帝の6世の孫、劉秀が王莽(おうもう)の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して東漢ともいう。(25~220)』末、遼東太守の公孫康が楽浪郡を領有、204年頃、その南半部を割いて帯方郡を分置。313年まで存続。』(広辞苑第7版))の太守に遣わして(魏の国王に)拝謁を申し出た。帯方郡の太守『劉夏』も大変喜んで部下に案内させて倭の使者を魏の都、洛陽に送った』とあります。
※ 『難升米』(なしめ)などの名前は、当時の日本に文字がなかったこともありますが、中国の人に分かるように、中国名(後世のイングリッシュネームを想起させます)を付けたものと思われます。ですので、邪馬台国での彼らの呼び名が果たして『なしめ』なのかという疑問は、残ります。


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④魏の明帝の詔(みことのり)

邪馬台国の大夫から貢ぎ物を相談された人も困ったでしょう。魏は、当時、一流の文明国で、世界の文物が集まる場所の一つでした。辺境の邪馬台国から贈るとしたら、奴隷や布地ぐらいしかなかったかも知れません。

そして、その年の12月に明帝は、詔(みことのり)を下し卑弥呼にこのように答えました。
親魏倭王の卑弥呼に詔を下す。帯方郡の太守劉夏は使いをよこして、お前の正使『難升米』と副使『都市牛利』(つしごり)を都まで送り届けた。貢ぎ物である男の奴隷四名、女の奴隷六名、斑布(はんぷ=文様を染めたまだらの布)二匹(匹=一巻き)二丈(丈=約3m)も確かに受け取った。お前のいるところは、都から大変遠いのに礼を尽くしてくれたことは、まことに忠義なことである。うれしく思う。お前を『親魏倭王』とし、そのしるしとして、金印と紫綬をさずける。これを密封した上で、帯方郡の太守を通じて渡すので、有り難く受け取って欲しい。今後、お前は、倭の国の人民をよく従えて、魏の国に忠誠を尽くすことを忘れてはならない。(中略)』と記した上で、邪馬台国に次のような豪華な品物を返礼品として送ります。
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⑤魏からの返礼品

『絳地交竜錦(こうじこうりゅうのにしき)』(絳=濃い赤、赤地に複数の竜を組合せた文様の織物)五匹(一匹=一巻)
 『絳地縐粟罽(こうじのしゅうぞくのけい)』(赤地に縮みの毛織物、=敷物、毛氈の類)十張
 『蒨絳(せんこう)』(蒨=茜(あかね)、絳=濃い赤色、赤色の布)五十匹
 『紺青(青色の布)』五十匹
 (特に、卑弥呼に対し)
 『親魏倭王』の金印と紫綬(紫色の組紐)
 『紺地句文錦(こんじくもんのにしき)』(青地に文字の模様の織物)三匹
 『細斑華罽(さいはんのかけい)(細かい模様のある毛織物)五張
 『白絹五十匹』
 『金八両』(一両=約40g)
 『五尺刀』二振り
 『銅鏡百枚』
 『真珠』五十斤(一斤=約0.6kg~1kg、時代、品物によって異なる)
 『鉛丹』(四酸化三鉛の粉末で,明るい赤色の粉末)五十斤
 と、卑弥呼からの貢ぎ物(男奴隷四名、女奴隷六名、斑布二匹)に対して、相当のお返しをしています。特に、鏡百枚は、破格の礼遇だそうです。
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⑥古代ロマンを運ぶ黒船

当時の船がどのようなものであったかは、正確には、分かりません。そもそも、邪馬台国の使者が何人ぐらいで渡って行ったのか?、正使、副使、奴隷で、計十二名、それにお供を入れて、合計二十名程度ではないでしょうか。五十とか百人ではないでしょう。また、自前の船で行ったのではなく、交易船に乗せてもらって、赴いたものと想像でき、対馬、壱岐を経由して、朝鮮半島に着いたと思われます。交易船は、手こぎの船ではなく、すでに帆を備えていたのではないでしょうか。

一方、魏のお返しを持参した答礼使の船は、魏の帯方郡の使節が乗る船なので、交易船より、大型だったと思われます。使節の人数は、わかりませんが、少なくとも、返礼品の数から考えても、数十名~百名は、いたでしょう。 答礼使は、倭の偵察も兼ねていたと想像されますので、倭国の地形、動植物、風俗、武器などを記録したに違いありません。倭人伝にも比較的細かく記載されています。そのため、ある程度の数の専門家も同道したと思われます。

この魏の答礼使を乗せた船が『黒船』です。前述のように、1世紀前後から、朝鮮半島とは、行き来があるので、この答礼使を乗せた船が日本に最初に来た船ではないでしょうが、邪馬台国の所在を含め、卑弥呼の正体、贈られた『鏡』の行方など、謎が尽きないことを考えると、古代ロマンの詰まった『黒船』の代表です。

参考
目力めぢから(脳が見る、目撃証言の危うさ、誤認逮捕、えん罪、せん妄)』の『魏志倭人伝
鏡と写真 (自画像と鏡、写真史、古代の鏡、鏡の中の世界、鏡と写真)』の『卑弥呼の鏡、八咫鏡(やたのかがみ)など
ウィキペディア
『邪馬台国の秘密(改稿新版)』(高木彬光 著:角川文庫:1984年第9版)
『邪馬台国サミット2021』(NHK BSP 2021年1月1日放送)
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(3)仏教伝来(571年)

①古代

『欽明(きんめい)天皇』(?~571)(即位は、539年、531年説もある)の御代571年、朝鮮半島、百済の聖明王が使を遣わして、仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来したとされています。

これが、『仏教公伝』です。もちろん、当時、交易していた朝鮮、中国の人達から、日本の豪族達に仏教が私的に伝わることは、あったでしょう。公式に伝えられたのがこの使いが乗ってきた船でした。仏教がその後の日本に与えた影響の大きさを考えると、この船は、(1)の漢字を伝えた黒船に次いで重要な歴史的『黒船』と言っても差し支えないでしょう。

これを契機として、仏教を取り込んだ蘇我氏とそれに反発した物部氏らとの争いから、時代は、大化の改新へ向かっていったと言えるでしょう。なお、日本で最初に火葬された天皇は、持統天皇(690~697)だそうです。※
※ 古代の天皇一覧(抜粋)(『年の表記方法』) 赤字は、女帝。(女帝多し!)
第33代 推古帝 最初の女帝、聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う
第34代 舒明帝 田村皇子、蘇我蝦夷に擁立されて即位
第35代 皇極帝 舒明帝の皇后。天智・天武帝の母、孝徳帝に譲位、後に重祚して斉明帝
第36代 孝徳帝 軽(かる)皇子
第37代 斉明帝 皇極帝の重祚。孝徳帝没後、即位。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、同地に没す
第38代 天智帝 母斉明帝の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位
第39代 弘文天皇 天智帝の第1皇子、天智帝没後、壬申の乱に敗れて自殺。明治になり、弘文天皇と名を贈る
第40代 天武帝 天智帝の弟 天智帝の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮に即位
 吉野に行幸、兄の天智と自らの子ら皇后の鵜野皇女(天智帝の第2皇女。後の持統)の子と見なし『吉野盟約』を誓わせた。
第41代 持統帝 天智帝の第2皇女、天武天皇の没(686年)後、称制。
 大津皇子(天智帝の第3皇子:663~686)が謀反の疑いで捕縛されると処刑。
 草壁皇子没後、690年に、自ら、即位し、初めて『天皇』を名乗る。
 即位には、宝鏡、刀(三種の神器の原形)が用いられ、高天原の神々に選ばれたという形をとる。
 すなわち、群臣に承認されて皇位を継ぐ旧来のやり方ではなく、神から与えられたとして群臣に認めさせた。
 太政大臣(690年)だった『高市皇子』(天武帝の子:654~696)の没後、皇位継承の形(長子相続)を謀をもって会議で決定。
 孫の文武帝に譲位し、太上天皇となる。
 天武帝から引き継いだ藤原京の造成を完成させ、飛鳥浄御原令や日本書紀の原型を完成させた。
 
 702年に遣唐使を再開し、倭の呼称をあらためて、『日本』を初めて名乗り、唐(周を一時的に名乗る)の皇帝『則天武后』(624~705:高宗の皇后。高宗没後、息子の中宗、睿宗 (えいそう)を続けて廃位させ、690年、自ら即位。国号を周とあらためる。武周という。在位690~705)に認めさせたという。奇しくも持統帝の即位と同年に則天武后も即位していました。持統帝は、則天武后の影響を受けていたのかも知れません。※
※ 持統帝については、『英雄たちの選択 「日本のかたちをきめた女帝 持統天皇の真実」』 NHK BSP 2020/9/23放送を参考にしました。

第42代 文武帝 697年即位~707年。草壁皇子(母は、持統帝)の第1王子。母は元明天皇
第43代 元明帝 707年即位。天智天皇の第4皇女。草壁皇子の妃。文武・元正天皇の母
第44代 元正帝 715年即位。草壁皇子の第1王女。母は元明天皇
第45代 聖武帝 724年即位。文武天皇の第1皇子、光明皇后とともに仏教を信じ、国分寺・国分尼寺、東大寺、大仏を安置
※ 文武帝は、持統帝の孫、聖武帝は、元明帝の孫。
 持統帝は、子の草壁皇子が早世してしまったため、(天武帝の子に皇位を継がす目的で)自ら、即位し、孫の文武帝の成長を待った。また、持統帝の没後、文武帝も早くなくなったため、同様の理由で、母の元明帝が即位し、さらに、娘の元正帝を即位させ、孫の聖武帝の成長を待って、即位させています。梅原先生らは、この二回、繰り返された祖母から孫への皇位の移行こそ、日本神話の『天孫降臨』が必要とされ、作り出された理由だと考えています。その背後に藤原不比等(藤原鎌足の二男:659~720)の活動があったでしょう。(なぜ、にしたのか、もやもやがすっきりします。)

聖武天皇(724~749)から仏教を国家で採用し、各地に国分寺、国分尼寺を建立し、東大寺の大仏が建立されました。一時、弓削道鏡(『( ?~772 )奈良時代の僧。河内の人。俗姓弓削 (ゆげ)氏。称徳天皇の寵を受け,太政大臣禅師に,次いで法王位に昇り,政界に権勢をふるった。のち皇位に就こうとしたが和気清麻呂らの妨害にあい失敗。称徳天皇の死後失脚し,造下野国薬師寺別当に左遷されその地で没した』(大辞林4.0))により、天皇の位を脅かすほどの勢力を持つに至りました。
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②中世~戦国

その後も、仏教は、濃淡がありますが、尊重されました。宗教面だけでなく、文化、芸術、芸能、習俗にも多大な影響を及ぼしました。とても、ここで、簡単には、まとめられません。たとえば、私たちが何気なく使っている言葉の語源が仏教に由来するものがあるのは、NHKの『チコちゃんに叱られる』を見ていると分かります。たとえば、『金輪際』、『奈落』、『諸行無常』、『三面六臂』、『四苦八苦』、『一念発起』など、仏教用語が元になった言葉は、枚挙にいとまがありません。

仏教の宗派は、大別して十三宗と言われています。法相宗(道昭:653年)、華厳宗(唐僧道璿 (どうせん):736年)、律宗(唐僧鑑真:753年)、天台宗(最澄:805年)、真言宗(空海:806年)、融通念仏宗(良忍:1117年)、浄土宗(法然:1175年)、臨済宗(栄西:1190年頃)、浄土真宗(親鸞:1211年頃)、曹洞宗(道元:1227年)、日蓮宗(日蓮:1253年)、時宗(一遍:1274年)、黄檗宗(隠元:1654年)。特に、戦国時代に『一向宗』とも呼ばれ、軍事的にも強大な力を持ったのが『浄土真宗』でした。信長もその抵抗に手を焼きました。

③江戸

江戸時代にキリスト教が禁教になると、禁教の普及を防ぐと共に民の管理のため、『宗門改』(『江戸幕府がキリシタンの禁圧・摘発のために設けた制度。各家・各人ごとに宗旨を調べ,檀那寺に信者であることを証明させ,その結果が毎年村ごとに宗門人別帳として作成された。1873年(明治6)廃止。宗旨人別改』)(大辞林4.0))を政治的にも利用しました。また、市民生活でも、肉食を公には、しないなどの制約が及びました。
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④明治以降

明治になって、新政府が国による仏教の保護を廃し、神道へと急速にあらためようとしたため、『廃仏毀釈』の嵐に見舞われました。数多くの寺の仏像や鐘、絵画、道具類が安値で売られたり、廃寺になったりしました。この流れは、その後、あらためられましたが、それでも、檀家がなくて、国からの収入に頼ってきた寺は、難儀することになりました。

一方、市民生活では、明治になって、肉食が急速に普及しました。時代のはやりと言えば、『牛鍋屋』と『散切り頭』でしょう。『散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする』と謡われました。政府も欧米に負けない国民の体力を作り、富国強兵を図るには、まず、食からと肉食や牛乳などの西洋の習慣の普及を押し進めました。このため、各地で牧場の開発や普及が進みました。

新興宗教(新宗教:『②幕末から明治以後に成立した日本の諸宗教。神仏習合の宗教集団や日蓮系の在家集団・修養運動が主要な源泉。さまざまな伝統を吸収しながら教祖が組み立てていったものが多い。第二次大戦前は淫祠邪教視されて弾圧を受けたが、戦後は復興。新興宗教。』(広辞苑第7版))が勃興したのも明治以降でしょう。

⑤現代

現代において、葬儀の形式は、年々、簡略化されてきています。それでも仏式が多くを占めます。その他は、無宗教、神式、キリスト教式などです。また、火葬に付されたお骨は、その方のお墓に収めることが多いです。その他の方法としては、海、山に散骨することも一部で行われています。

まとめると、現代において、仏教を取り巻く状況は、これまでの時代とは、大きく変わりつつあります。戦後、勃興した新興宗教も信者の高齢化もあり、一時の勢いを失いつつあります。しかし、『仏教伝来』が及ぼした1500年余りの影響を思うとき、この571年に来港した船は、立派な『黒船』だったと胸を張って言えるでしょう。
参考
『お経の話』(渡辺照宏 著:岩波新書:1968年第4刷)
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(4)遣隋使船・遣唐使船

①遣隋使船(600年頃)

遣隋使船は、『聖徳太子が隋に派遣した大和朝廷の使節。前後三回(隋書に記録される600年を含めて四回・五回・六回説がある)行われた。607年の小野妹子の派遣が有名。隋滅亡後,遣唐使として継承された。』(大辞林4.0)

大化の改新(645年頃)後に、大和政権の基盤が確立してきました。そこで、(3)の仏教伝来で、百済からの使者を通じて、朝鮮や中国の文物に触れたことを思い起こし、あらためて、朝鮮半島や大陸の状態や文化がどのようになっているかを知ることが大切であると考えたと思われます。

背景には、過去に倭の国々から中国の歴代の王朝に朝貢を行ってきた伝聞知識もあるでしょう。暫く途絶えていた往来を復活させようと図ったことは、当然です。この話題は、教科書にも取り上げられているくらい有名な話なので、ここでは、この程度としておきましょう。
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②遣唐使船(630年~894年)

遣唐使船は、隋(581年~619年。全土を統一は、589年。都は長安)から唐(618年~907年。都は長安)に変わった中国に対して、『国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。大使・副使らふつう五、六百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。20年に1度の派遣が原則だったらしい。630年犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の建議により停止。入唐(にっとう)使。』(広辞苑 第7版)、大辞林4.0によれば、合計回数は、16回だと言うことです。

(2)の邪馬台国に魏から贈られた品々と比べれば、隋や唐からは、歴史書や仏教の経典、儒教の書物、その他の書物が大量に持ち帰られました。様々な技術も伝わりました。その意味で、これらの黒船は、宝船といってよかったでしょう。それらは、天皇から寺、貴族などに贈られ、残りは、正倉院に収められました。それらの中には、本家の中国にすでになくなり、日本にのみ残る品々もあります。

空海の帰国時、経典のみならず、密教の法具や曼荼羅絵なども大量に持ち帰っています。それは、時の桓武帝やその後を継いだ嵯峨天皇、貴族達を驚かさせました。ちなみに、嵯峨天皇(756~842)、空海(774~835)、橘逸勢(たちばなのはやなり)が『三筆』と呼ばれ、能書家として名高いのは、彼らが、親しく交わっていたこともあるのでしょう。逸勢は、入唐時に空海と同時に渡り、共に帰国しています。

逸勢は、人交わりが苦手な人だったらしく、空海や嵯峨天皇がなくなった後、宮中のもめ事(承和(じょうわ)の変)に巻き込まれ、伊豆に流罪となり、途中で亡くなりました(842年)。司馬氏は、嵯峨天皇や空海が存命であれば、逸勢の無残な死は、なかったろうと述べています。
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③遣唐使の中断と再開

遣唐使が中断された時期は、何回かありました。例えば、朝鮮半島にあって古くから日本とも関係が深い『百済(くだら)』が朝鮮統一を図る『新羅』に滅ばされ、その遺児が日本に救援を要請しました。斉明天皇と中大兄皇子らは、九州に赴き、百済救援の軍を出しましたが、この日本の軍船は、『白村江(はくすきのえ=はくそんこう)の戦』(663年)で、唐と新羅の連合軍に敗れました。

斉明天皇は、筑紫で没し(661年)、中大兄皇子が称制を行っていました。その後、即位(668年)した天智帝は、唐や新羅の侵攻に備え、九州の防備を固めるために、『水城』(みずき=『水辺に設けた土塁・水濠。特に664年大宰府に築かれたものをいい、その遺構が福岡県太宰府市水城にある。全長約1キロメートル、高さ約10メートル。天智紀「大堤を築きて水を貯へしむ、名づけて―と曰ふ」』(広辞苑第7版))を築き、各地から『防人』(さきもり)(『多くは東国から徴発されて筑紫・壱岐・対馬など北九州の守備に当たった兵士。令には3年を1期として交替させる規定があった。』)(広辞苑第7版)を配置しました。

しかし、その後、遣唐使を再開(702年:文武帝:後見持統太上天皇)して、朝貢外交に戻り、朝鮮や中国との緊張状態は、緩和されたと思われます。防人のなかには、その後、九州各地に定着した者達もいたでしょう。
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④未熟な造船、航海術の謎

ただ、造船や航海術などの技術を中国や朝鮮から十分に学んだのかと尋ねると、疑問が残ります。造船術や航海術が劣っていたため、遣隋使船や遣唐使船は、常に難破と背中合わせだったようです。乗り込む人にとって、これらの船は、不吉なイメージがあったと思われます。

遣唐使制度の終わりの方で、空海が入唐(第16次遣唐使船:804年)しますが、出航した四隻のうち、第二船(最澄ら乗船)のみが予定通り、揚子江の河口にある揚州の港に到着します。しかし、遣唐大使(藤原葛野麻呂=藤原賀能と唐風の名を用いた)と空海らの乗った第一船は、目的地のはるか南に漂着し※、残りの第三、第四船は、海の藻屑となったようです。まさに、生死は、五分五分という惨状です。これでは、遣唐大使などに任命されても仮病を使って辞退したくなるのも人情というものでしょう。
※ 遣唐大使と空海らが乗船した第一船は、目的地のはるか南方に漂着し、土地の役人の指示で福州(今の福建省)近くに回航させられます。伝統的に日本は、遣唐使である証明(国書や割り符)を所持しない習慣のため、福州の知事(巡察使)に自らの身分を証明することができませんでした。彼らは、下船させられ、船を封印され、砂地に留め置かれて難儀したとあります。大使自らが何度も嘆願の書状を書くも、大和風の漢文では、巡察使の心に響かず、いよいよ進退に窮して、空海に代筆を依頼したのでしょう。この書状を読んだ巡察使は、『長安の最高の文学士でもこれほどの文章を書くことはできぬ。それを砂地に座り込んでいる僧が書いたというのか?』と手紙を取り落とさんばかりに驚きました。唐は、文章の巧遅により、書いた人の優劣を評価する傾向が甚だしかったため、文章の才のあった巡察使には、この文章の出来映えが通じたのでしょう。とにもかくにも、この書状によって、事態が劇的に改善したことで、大使以下が空海に対して、奇跡の念を抱きました。唐の役人の大使らへの扱いが丁重となり、船の封印が解かれ、船に戻ることができました。また、直ちに長安へ使いがやられた上で、返事が来るまで、急ごしらえの宿舎も建設されました。さらに、彼らは、何度も巡察使らと宴席を重ねるまでになりました。『どうだい』という空海の声が聞こえてくるかのような描写です。

まず、当時の和船は、『竜骨』(『船底の中心を船首から船尾まで貫通する、船の背骨にあたる材。間切骨(まぎりがわら)。キール。』(広辞苑第7版)が、なく、船底が平だったようです。舳先や船尾は、曲げていても、全体としては、箱を海に浮かべているのに近いので、安定性が悪く、早い海流や大波を突っ切るのが困難であったようです。

また、丸木舟とは、異なり、木材を組み合わせて大きな船を作るため、木材と木材とのつなぎ目から海水が染み入る可能性があります。瀝青(天然のアスファルト)も釘も使わなかったので、すきまに海藻などを詰め込んで埋めていたと考えられています。(前述の『空海の風景』)。それでも染み入る水は、手作業で掻い出す必要があります。

さらに、帆は、あったようですが、順風しか生かせず、逆風であれば、帆布を下ろすしかなかったと考えられています。帆柱も船体にしっかりと固定されておらず、掘っ立て柱のように船板と船底で支えていただけなので、大風にがたがたと揺れてしまいます。風がないときに船を進めるために櫓をこぐことは、できたでしょう。乗船人数が多いのは、水を掻い出したり、櫓をこいだり、木と木と隙間をふさいだりというような作業に人手がいったものと見受けられます。

一方、航海術は、さらに、いただけません。船が大海原をさまよう場合、方角を見定められなかったようです。どうやら、太陽や星を使った航海術も持っていなかったようなのです。※
※ 陸地に近づくと海の色などでそれを知ったり、目で見える風景で場所を知ることは、できたようです。これができないと内水でも心配ですので、これは、当然でしょう。一方、太陽や星による方角の見当がつかなかったというのは、『空海の風景』の叙述に従っただけで、深い根拠は、ありません。大昔に海上を日本列島に渡ってきた人々は、そのような手段を持っていたと考えられるのに、西暦600年頃には、退化してしまっていたとすれば、不思議なことです。
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⑤技術の学習と停滞

『空海の風景』で司馬氏が『造船と航海術という技術の世界もまた仏法と同様普遍的なものであるはずだった。しかし、この点では、日本だけが特殊な片隅に閉じこもっていた。「日本の船はあぶない。新羅船に乗りたい」という声が随員のあいだでささやかれた。(中略)朝鮮半島ではすでに中国式の造船法と航海術が定着していたにもかかわらず、四海海洋にとりかこまれた日本にその技術が薄くしか入っていなかったということはふしぎというほかはない。』と書かれています。

この技術の停滞の理由について、司馬氏は、上に続けて、『ゆらい、船大工や船乗りは一般に保守的であるといわれる。かれら技術者は当時の日本の求法者にみられるような、普遍的世界へ跳躍しようとするきらびやかな勇敢さをほとんどもっていなかった。このことが、累代にわたる遣隋・遣唐船の遭難をまねいた理由の多くの割合を占めている』と書かれています。

ここでは、造船に限らず、海外からの技術の学習とその後の停滞について、少し、考えてみましょう。


 一般的に上のような経過をたどるのではないかと思われます。
 第1学習期:海外から新しい技術を導入し、海外の技術者について技能を学習する期間。
 継承期:必要な目標に達した時点で、技術者集団内で、新しい者に技術を教える期間
  先達や後継者が技術の革新に取り組まないと技術は、進歩せずに停滞期に入る。
 第2学習期:外部環境変化(戦国、幕末など)、内部の革新者の登場、新技術・物品の到来(鉄砲伝来など)に刺激されて、海外の新技術を学ぶ期間
 戦国の鉄砲の国産化、明治の外国視察やお雇い教師の招聘などが思い浮かびます。
 以下同様。

先達が学習期以降、技術の改良に取り組まなくなる理由は、いろいろと考えられます。
 ・ 改良の必要性が乏しい場合(目的に対して十分な技術レベルに達したと見なせる場合)
 ・ 改良のための予算や人手が不足する場合
 ・ 技術集団の外部からの指示や意見を集団が拒絶するのを許す風潮がある場合
 ・ 技術集団外の支配者から止められる場合(宗教的、政治的、きまぐれなど多種)
 ・ 現状に満足してしまっている場合(怠惰も含む)
 後継者が改良を試みない(挑戦しない)理由
 ・ 先達が望まない場合(先達の知識や経験が生かせなくなるので邪魔をする)
 ・ 改良過程の試行錯誤での失敗をとがめる風潮が強い場合
 などでしょう。
 教育期間がイコール停滞期間になってしまう理由は、上のようなものでしょう。このように書くと現代日本の学校や会社、役所等でも通用してしまうのは、恐ろしいですね。さらには、『原子力村』なども思い浮かびます。

伝統芸能などでは、形が重視され、ひたすら、先輩の芸をまねることが優先されます。しかし、技術では、形をまねるだけになれば、進歩は、なくなります。先人の形を超えて、工夫を凝らし、形を壊すことで、始めて、新技術を生み出すことができるのです。

参考
『空海の風景』(司馬遼太郎 著:中央公論社:1979年第23版)
『空海』(東映映画:脚本:早坂暁:監督:佐藤純彌:主演:北大路欽也(空海)、加藤剛(最澄)他:1984年)
 弘法大師1150年遠忌記念。企画:全真言宗青年連盟。文部省選定。遣唐使船の実物大模型を製作。
 中国の西安でのロケを行う。
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(5)元寇(1274年、1281年)

1274年(文永11)と81年(弘安4)の二度にわたる元軍の来襲。高麗を支配下におさめたフビライは日本に入貢を求めて拒否され,遠征軍を送って壱岐・対馬を侵略し博多に迫ったが,二度とも西国御家人の奮戦と,折しも襲った暴風雨によって艦船の大半を失い敗退した。文永弘安の役。蒙古来。モンゴル襲来。』(大辞林4.0)

『元寇』あるいは『蒙古襲来』については、ウィキペディアの『元寇』に詳しいです。(出色の出来映えです)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
 主たる戦場は、対馬、壱岐、北九州沿岸です。

上記を拝読すると、1274年の侵攻までに、元は、何度も使節を日本に送っていることが分かります。時の幕府の執権は、北条時宗でしたが、外交は、朝廷にお伺いを立てています(幕末を思い出しました)。このように、いきなり、武力侵攻せずに臣従を促すという手法は、元が他国を臣従させる場合にも利用している一連の手法のようです。(『元』を参照) 

元が2回目の1281年に失敗した後も、3回目の侵攻計画が立てられていたということも初めて知りました。フビライが、なぜ、それほど、日本に執着したのかは、やや不明ですが、黄金伝説=日本ジパング伝説が影響した可能性が指摘されています。

第2回目の侵攻時には、暴風雨があったとされていますが、第1回目の侵攻時には、季節的に台風は、なかったのではないかと指摘されている点は、興味深いです。第2回目には、季節と滞在期間が3ヶ月と長期にわたることから、台風などの被害にあっても不思議ではなく、たとえ、神風的ではなくても、それ相応の被害があるでしょう。

ちなみに、ウィキペディアによれば、明治以降の教科書では、武士の奮戦には、触れているものの、大風の記載は、ないそうです。昭和18年、戦時色が強くなると教科書に大風が吹いて・・撃退という記述が登場します。

なお、幕末の薩英戦争などを除くと、それ以前には、日本に武力侵攻した海外の船団がないので、元寇は、凶船の意味で、最大の『黒船』だったと言えるでしょう。
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参考 古代朝鮮の三国と高麗

以下に古代の朝鮮の三国とその後を継いだ高麗(こうらい、こま)の概要を広辞苑第7版から抜粋しました。

高句麗:『紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4~5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。内部に壁画を描いた多くの古墳を残す。その古墳群は世界遺産。

 百済:『4~7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅(しらぎ)の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。

 新羅:『前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧(しら)国に始まり、4世紀、辰韓諸国を統一して新羅と号した。6世紀以降伽倻(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。

 高麗:『朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。高麗(こま)。コリョ。(918~1392)
 高麗の後、李成桂の建てた王朝が『朝鮮』(李氏朝鮮ともいう)を名乗りました。
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(6)鉄砲伝来(1543年)

1543年に種子島 (たねがしま)に来航した二名のポルトガル人によって火縄銃と火薬の製法が伝えられたこと。』(大辞林4.0)
 だいぶ、長くなりました。鉄砲伝来については、ウィキペディア等にも詳しく記載されています。また、教科書等でもおなじみの話でありますので、詳細は、触れないことにします。

鉄砲伝来の時期が戦国時代であったことが大きいでしょう。大砲(大筒)も輸入されました。鉄砲の国産化も急速に果たされました。最近の発見によれば、信長が用いた鉄砲の弾丸には、(国産の鉛が少ないため)タイ国産の鉛が使われていたそうです。すなわち、海外から、鉄砲のみならず、弾丸や鉛、火薬までも調達できるルートを持っていたことです。それを支えたのは、キリスト教の宣教師とスペイン帝国、それに対抗した新興のオランダなどの諸国の艦船でした。

豊臣秀吉の朝鮮出兵には、日本のキリシタン大名が多数の鉄砲を持って従軍したり、政権が徳川に移った後、余剰サムライがオランダの傭兵になりアジアの植民地争奪戦において、スペインなどとの戦闘に加わったそうです。秀吉の晩年の朝鮮出兵を年寄りの誇大妄想(明国征服を目指した)による戦争という旧来の見方は、一面的なのかも知れません。

参考
『戦国~激動の世界と日本(1)「秘められた征服計画」』(NHKスペシャル 2020/6/28放送)
『戦国~激動の世界と日本(2)「ジャパンシルバーを獲得せよ」』(NHKスペシャル 2020/7/5放送)
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3.年表 1844年(弘化元年)~1926年(大正15年)

1844年(弘化元年)~1926年(大正15年)までの主として日本の出来事です。下記を参考にしました。
『幕末Web 世に棲む日々』http://www2.plala.or.jp/shyall/index.html
『嘉永』~『昭和』 ウィキペディアの各ページ
『史料にみる日本の近代』(国立国会図書館)https://www.ndl.go.jp/modern/utility/index.html

西暦 和暦 出来事(明治5年太陽暦採用前の和暦の月は西暦月と一致しない)
1844 弘化元年 1845/1/9に天保15年12月2日を弘化元年に改元
5月 水戸藩主、徳川斉昭に謹慎処分
6月 水野忠邦、老中首座に復帰
11月 徳川斉昭の謹慎解かれる
1845 弘化2年 2月 水野忠邦解任
3月 米船、日本人漂流民を乗せて浦賀に来航し、通商を求める
7月 海防掛を設け老中 阿部正弘が兼任
松浦武四郎、蝦夷地を探検
1846 弘化3年 1月 仁孝天皇崩御し、翌月孝明天皇即位
2月 伊豆代官 江川英龍、海防意見書を作成
閏5月 米船、東インド艦隊ビッドルが浦賀に入港し通商を求める
7月 徳川斉昭、意見書を提出
1847 弘化4年 3月 薩摩藩、砲術館を整備
9月 徳川慶喜、一橋家に養子に入り当主となる
12月 徳川斉昭、外国人追放に関する意見書で攘夷を主張
1848 弘化5年/嘉永元年 1845/4/1、弘化5年2月28日に嘉永に改元
6月 オランダより種痘が長崎に伝わる
越前藩や松代藩の佐久間象山が西洋式大砲を鋳造
1849 嘉永2年 4月 葛飾北斎没す
閏4月 英船マリナー号、浦賀・下田を勝手に測量
5月 伊豆韮山に反射炉が建設される
松浦武四郎、国後、択捉島を探検
1850 嘉永3年 10月 高野長英、幕府に捕縛されそうになり自刃
11月 佐賀藩、反射炉を建設
1851 嘉永4年 1月 漂流中を米船に救われて米国に渡ったジョン万次郎が琉球に帰着
4月 佐久間象山、江戸に砲術塾を開く
1852 嘉永5年 2月 老中水野忠邦、没す
4月 幕府は、ジョン万次郎を土佐に返す
5月 江戸城西の丸炎上
8月 オランダ商館長よりアメリカ艦隊の来年の来航を知らせられる
薩摩藩主 島津斉彬、反射炉を作成
1853 嘉永6年 6月 ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、米国大統領の親書受取を要求
6月 ペリーが翌年の来航を予告して出航。
6月 第12代将軍、徳川家慶没す(喪は伏せる)
7月 幕府が米国との交渉について広く意見を求める
7月 徳川斉昭、海防参与に就任
7月 ロシア軍艦4隻が長崎に来航し通商を求める
9月 禁じられていた大きな船の建造が許される
10月 第13代将軍、徳川家定就任
11月 幕府がジョン万次郎を登用
1854 嘉永7年/安政元年 1月 ペリーが軍艦7隻を率いて再度来航、江戸湾を測量
2月 ペリーと幕府との交渉が下田で行われる
3月 日米和親条約を締結し、下田と函館を開港
3月 吉田松陰ら米国艦隊に乗船しようとするも失敗
5月 日米和親条約附録(下田条約)を締結。ロシア、オランダとも締結
1855/1/15、嘉永7年11月27日を安政元年に改元
1855 安政2年 2月 幕府が講武所を設ける
7月 幕府が海軍伝習所を長崎に開き西洋式の海軍の創設に着手
10月 安政江戸地震(1888/11/11、M7~7.1)、直下型地震で江戸に大被害が出る(水戸藩の藤田東湖死亡)
10月 堀田正睦が阿部正弘に代わり老中首座となる
12月 千葉周作没す
1856 安政3年 7月 水戸藩、軍艦、朝日丸建造完成
8月 米国総領事ハリス、下田に入る
9月 吉田松陰が松下村塾の再開を許される
1857 安政4年 3月 越前藩、開国論者で儒学者の横井小楠を招く
5月 日米下田条約を締結、長崎が開港
6月 老中阿部正弘が没す
8月 オランダに発注していた咸臨丸が日本に回航される
9月 島津斉彬、写真を撮影させる
10月 越前藩主松平春嶽ら慶喜を次期将軍に推す
12月 幕府が諸藩ら外国との通商を許す
1858 安政5年 1月 島津斉彬、慶喜を将軍家定の世継ぎにと朝廷に奏請
4月 井伊直弼が大老になる
5月 家定が紀州藩主徳川慶福を世継ぎに決める
6月 日米修好通商条約調印、神奈川、長崎、新潟、兵庫が開港
7月 第13代将軍徳川家定が没す
7月 第14代将軍に徳川慶福が就任
7月 島津斉彬没す
8月 朝廷が開国を違勅とする内意を水戸藩に示す
9月 井伊大老により尊皇攘夷派への弾圧が始まる
10月 橋本左内、捕縛。安政の大獄
12月 吉田松陰、幕命により長州藩野山獄投獄
1859 安政6年 6月 英国総領事オールコックが江戸の東禅寺を領事館とする
7月 オランダのシーボルトが長崎に再度着任
9月 安政の大獄により入牢した人物達が刑死
1860 安政7年/万延元年 1月 勝海舟ら咸臨丸で米国に出発
1月 安藤信正、老中になる
3月 井伊大老が水戸浪士らに襲撃され死亡(桜田門外の変)
1860/4/8に安政7年3月18日を万延元年に改元
7月 英国総領事オールコックらが富士山に登る
8月 徳川斉昭、没す
11月 井伊直弼没後、安藤信正の下、天皇の妹和宮の降嫁を進める
12月 孝明天皇、幕府の開国方針に反発し和宮の降嫁を延期
12月 米国公使館通訳ヒュースケンが薩摩藩士に殺害される
1861 万延2年/文久元年 1861/3/29、万延2年2月19日に文久元年に改元
5月 水戸浪士ら英国公使館を襲撃
8月 土佐勤王党を武市半平太らが結成
11月 和宮、江戸に着く
1862 文久2年 1月 老中安藤信正襲撃され負傷(坂下門外の変)
4月 老中安藤信正、職を解かれる
6月 朝廷より攘夷を促す勅使が到着
7月 一橋慶喜が第14代将軍家茂の後見職となる
8月 英国外交官、アーネスト・サトーが来日
8月 島津久光家来、生麦にて英国人惨殺(生麦事件)
閏8月 会津藩主松平吉保、京都守護職に任ぜられる
閏8月 参勤交代を緩める
11月 朝廷の意向に従い、攘夷を決定
12月 高杉晋作らが英国公使館に放火
1863 文久3年 2月 京の治安維持のため浪士組が結成される
2月 浪士組が京都に入る
3月 将軍徳川家茂、上京。浪士組の一部は、江戸に帰る
4月 浪士組清河八郎、暗殺される
5月 長州藩が関門海峡通過する外国船を砲撃
6月 高杉晋作が奇兵隊を結成
6月 蘭方医、緒方洪庵没す
6月 将軍、江戸に戻る
7月 英国との交渉のもつれで薩英戦争
8月 天誅組、大和五条代官所を襲撃
8月 近藤勇らに新撰組の名称が与えられる
8月 七卿落ち、三条実美らが追放される
9月 芹沢鴨ら、新撰組の内部闘争により暗殺
1864 文久4年/元治元年 3月 藤田小四郎(藤田東湖の子)ら筑波山で挙兵(天狗党の乱)
1864/3/27、文久四年2月20日に元治と改元
6月 新撰組が京都の勤王浪士を襲撃(池田屋事件)
7月 佐久間象山、暗殺
7月 長州藩兵が御所を襲撃し破れる(禁門の変)
8月 第1次長州征伐
8月 米国などの4カ国艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃し占拠
11月 長州藩が幕府に恭順の意を表し、三人の家老が切腹する
12月 高杉晋作ら、恭順に反対し挙兵
12月 天狗党の乱平定される
12月 幕府軍、長州藩から撤兵
1865 元治2年/慶応元年 2月 高杉晋作、長州藩の実権を握る
3月 新撰組、西本願寺に屯所を移す
3月 五体友厚ら、英国留学へ出発
4月 第2次長州征伐
1865/5/1、元治2年4月7日、慶応に改元
閏5月 坂本龍馬と桂小五郎が下関で会合
閏5月 土佐藩武市半平太、処刑
1866 慶応2年 6月 第2次長州征伐
7月 第14代将軍 徳川家茂、大阪城にて死去
8月 第15代将軍に徳川慶喜が就任
8月 勅命により第2次長州征伐を休戦
孝明天皇、死去
1867 慶応3年 1月 明治天皇即位
2月 パリ万国博覧会、幕府や佐賀藩、薩摩藩が出展
6月 坂本龍馬、船中八策を著す
6月 庶民の間で、お伊勢参りを名目とした、ええじゃないか騒動出来
10月 土佐藩、大政奉還を献策
10月 徳川慶喜、二条城において、諸大名に大政奉還の諮問を行う
10月 徳川慶喜、朝廷に大政奉還を奏請
10月 徳川慶喜、将軍職を返上
11月 坂本龍馬、中岡慎太郎、暗殺
12月 王政復古の大号令
12月 徳川慶喜、大阪城に移る
1868 慶応4年/明治元年 1月 鳥羽伏見の戦い、幕府軍敗れる
1月 徳川慶喜、江戸に戻る
2月 新政府、有栖川宮親王を征東大都督とする
2月 徳川慶喜、寛永寺に入り謹慎
3月 甲陽鎮撫隊、新政府軍と柏尾(山梨県)で戦い、敗走
3月 西郷隆盛と勝海舟が会談、江戸城無血開城で合意
3月 明治天皇、五箇条の御誓文
4月 甲陽鎮撫隊の近藤勇が新政府に投降
4月 江戸城無血開城
4月 新撰組、近藤勇、処刑
4月 福沢諭吉が慶應義塾を開校
5月 会津藩、仙台藩らが奥羽羽越列藩同盟を結成し新政府に対抗
5月 彰義隊、上野で新政府軍と戦い敗走
7月 江戸を東京とあらためる
8月 旧幕臣、榎本武揚らが、旧幕府軍艦8隻を率いて脱走
8月 新政府軍、会津若松城を攻撃、白虎隊が自刃
1868/10/23、慶応4年9月8日、明治元年と改元、以降一世一元とする
9月 会津藩が降伏
10月 江戸城を皇居とする
10月 榎本武揚らが函館の五稜郭を占拠し立てこもる
1869 明治2年 1月 福井藩、横井小楠、没す
5月 新政府軍、五稜郭を総攻撃、土方歳三ら戦死
5月 五稜郭落城、榎本武揚ら降伏
6月 版籍奉還(各藩の領地・領民を天皇に返す)を実施
8月 蝦夷地を北海道と改称
9月 新政府、大村益次郎、襲撃され、11月に死亡
12月 東京、横浜間に電信線を敷設し、電信がはじまる
神仏分離令。廃仏毀釈の嵐が一時的に吹き荒れる
1870 明治3年 10月 岩崎弥太郎、土佐商会を設立
1871 明治4年 1月 参議、広沢真臣、暗殺
2月 薩摩、長州、土佐の3藩の兵で御親兵を創設
5月 貨幣単位を、円、銭、厘の3つとする
6月 木戸孝允以外の参議が辞任し、西郷隆盛が参議に就任
7月 廃藩置県を断行
7月 大隈重信、板垣退助が参議に就任
9月 田畑の勝手作を許可
10月 東京の治安を守るため邏卒(巡査)3千人を配置
11月 岩倉具視を全権とする岩倉使節団を欧米に派遣
11月 日本を3府(東京、京都、大阪)と72県となす
11月 国立銀行条例を発し各地に国立銀行を設立
1872 明治5年 2月 土地の永代売買禁止を解禁
5月 東京師範学校が開校
6月 土佐の山内容堂、没す
7月 西郷隆盛、陸軍元帥、近衛都督に就任
9月 新橋、横浜間に鉄道が開業
9月 琉球王国を琉球藩とする
10月 年季奉公を禁止
10月 富岡製糸場が開業
1873 明治6年 1月 明治5年12月3日を明治6年1月1日(1873/1/1)とする太陽暦に改暦
1月 徴兵制を施行
8月 西郷隆盛、征韓論を唱える
10月 明治天皇、征韓論を却下、西郷隆盛、参議を辞し鹿児島に帰る
10月 板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、桐野利秋ら職を辞す
11月 内務省を設置し、大久保利通、内務卿に就任
12月 郵便はがきが発売される
キリスト教解禁
1874 明治7年 1月 右大臣、岩倉具視、赤坂で襲撃され負傷
1月 板垣退助らが議会の創設を建言
2月 佐賀の乱
2月 台湾征討を決議
3月 佐賀の乱鎮圧
4月 佐賀の乱の江藤新平、処刑
5月 台湾に出兵
6月 北海道開拓をはじめる
7月 三宅島噴火
12月 台湾から撤兵
1875 明治8年 2月 新政府を辞した板垣らが、大阪会議
6月 新聞紙条例を制定
10月 島津久光、新政府の方針を批判し辞任
1876 明治9年 1月 廃刀令を発布
4月 日蓮宗不施不受派を禁教から解除
6月 ドイツの医学者ベルツ、東京医学校教授に就任
7月 地租改正(土地の税金を3%、後に反対を受けて2.5%と減額)
8月 クラーク、札幌農学校校長に就任
10月 熊本神風連の乱起こるが鎮圧される
10月 秋月の乱
10月 萩の乱、各地で不平士族が反乱を起こす
12月 3つの乱の首謀者、処刑
1877 明治10年 1月 鹿児島、私学校生徒ら武器庫を襲撃
2月 鹿児島で西郷隆盛を総大将とする15000人の反乱(西南戦争)
3月 新政府軍と西郷軍が田原坂で激闘、西郷軍敗れる
5月 佐野常民ら、博愛社(日本赤十字社の前身)を設立
9月 鹿児島県、城山にて西郷隆盛、桐野利秋ら自刃し西南戦争終わる
1878 明治11年 大久保利通、東京紀尾井坂で暗殺
地方三新法(郡区町村編制、府県会規則、地方税)
1876/1/1現在の戸籍登録数(3434万人、729万戸)
1879 明治12年 琉球藩を沖縄県にする(琉球王国消滅)
1880 明治13年
1881 明治14年 開拓使官物払い下げ事件
明治14年の政変(大隈重信ら政府から排除)
国会開設の詔
1882 明治15年 福島県で自由民権運動を県令が弾圧(福島事件)
朝鮮で日本への反発が強まる(壬午事変)
1883 明治16年 陸軍大学校
鹿鳴館
1884 明治17年 群馬で自由民権運動を弾圧(群馬事件)
栃木県令暗殺未遂(加波山事件)
秩父で農民などが租税の軽減、負債の減免を求めて武装蜂起(秩父事件)
朝鮮で急進派のクーデターが起こるが清国軍の介入で鎮圧(甲甲政変)
各地の自由民権運動家が団結を図る(大同団結運動)
1885 明治18年 朝鮮の独立党を支援しようと図ったが鎮圧される(大阪事件)
銀本位制
朝鮮での清国と日本との間で衝突を回避するための条約締結(天津条約)
内閣制
1886 明治19年 英国貨物船が紀州沖で座礁し日本人水夫20名が死亡(ノルマルトン号事件)
1887 明治20年 政府を批判する運動を取り締まる法律を制定(保安条例)
1888 明治21年 海軍大学校
日墨修好条約(メキシコとの間で締結)
1889 明治22年 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法、貴族院令など公布
市制・町村制施行
1890 明治23年 第1回衆議院選挙
第1回帝国議会
教育勅語
府県制・郡制施行
1891 明治24年 来日したロシア皇太子(後のニコライ2世)を警備の巡査が襲撃(大津事件)
明治天皇以下、恐懼して謝罪に努め、ロシアからの賠償や宣戦を回避。
第1次世界大戦がセルビアでのオーストリア皇太子の暗殺(1914年のサラエボ事件)に端を発したことを考えると非常に危うい事態であった。
足尾銅山鉱毒事件
濃尾地震(1891/10/28、M7内陸型)死者7千人、負傷者1万7千人
1892 明治25年 朝鮮で東学党の乱
1893 明治26年
1894 明治27年 日清戦争始まる
1895 明治28年 日清戦争終わる
戦勝により清国から台湾、遼東半島を割譲する下関条約
三国干渉(仏・独・露)により遼東半島を清国に返す
1896 明治29年 明治三陸地震津波(1896/6/15、M8.2~8.5)死者・行方不明約2万人
1897 明治30年 金本位制とする貨幣制度
1898 明治31年
1899 明治32年
1900 明治33年 清国で義和団が蜂起(義和団の乱)
治安警察法
1901 明治34年 八幡製鉄操業開始
1902 明治35年 日英同盟締結
1903 明治36年
1904 明治37年 日露戦争始まる
1905 明治38年 日本海海戦で東郷艦隊がロシア海軍を破る
米国大統領ルーズベルトの仲介でロシアと講和(ポーツマス条約)
日露戦争終わる
ロシアとの講和に反対する市民が暴徒化(日比谷焼打事件)
第2次日韓条約(朝鮮を日本の保護下に置く)で朝鮮支配を強化
伊藤博文が初代韓国統監府統監に就任
1906 明治39年 鉄道が国有化(鉄道国有法)
南満州鉄道設立
1907 明治40年 朝鮮の抗日派がオランダ、ハーグでの万国平和会議に使者を送るが、参加国が、朝鮮の外交権は、日本にあると協力を拒否(ハーグ密使事件)
1908 明治41年 社会主義者を弾圧(赤旗事件)
1909 明治42年 満州のハルピン駅で伊藤博文が朝鮮の安重根に銃撃され殺される
朝鮮を併合
明治天皇の暗殺を謀ったとして幸徳秋水らが逮捕(大逆事件)
1910 明治43年 幕末以降の不平等条約が完全に撤廃(関税自主権の回復)
1911 明治44年
1912 明治45年/大正元年 明治天皇死去、大正天皇即位
7月30日、明治を大正に改元する
1913 大正2年
1914 大正3年 サラエボ事件(セルビアのサラエボを訪問中のオーストリア・ハンガリー帝国皇太子をセルビア人が暗殺)をきっかけにオーストリアがセルビアに宣戦を布告。セルビアと同盟を結ぶロシアは、セルビアを支援。オーストリアと同盟を結ぶドイツがロシアに宣戦布告。
こうして、三国同盟(独・オーストリア)と三国協商(英・仏・露)+ベルギー、三国同盟を脱退したイタリア、さらにはアメリカとの世界戦争に発展。日本も日英同盟によりドイツに宣戦を布告。第一次世界大戦である。
1915 大正4年 対中21か条の要求を提示
1916 大正5年
1917 大正6年 ロシア革命によりロシア帝国が崩壊し社会主義政権が誕生
ソ連は、ドイツと講和し第一次世界大戦から離脱
1918 大正7年 米価格の急騰による民衆による打ち壊し(米騒動)
原敬が初めての平民宰相として内閣を組閣(大正デモクラシー運動)
ドイツで革命が起こり帝政が打破
ロシア帝国崩壊を契機として、日本はシベリアに出兵
スペイン風邪(インフルエンザ)が大流行(パンデミック)
1919 大正8年 朝鮮で独立運動が盛んになる
仏のヴェルサイユにおいて講和会議が開かれ第一次世界大戦が終わる
ドイツ共和国が誕生し、ワイマール憲法が発布
普通選挙運動(25才以上の男子に選挙権を与える)が盛んになる
第2次護憲運動(衆議院で首相を選ぶ)を犬養毅、高橋是清らが始める
引き続きスペイン風邪が流行。日本の死者は約38万人、死亡率約1.6%。
1920 大正9年 国際連盟が発足し日本も加盟国となる
株価暴落、世界恐慌の始まり
明治憲法について、美濃部達吉の天皇機関説(国家の統治は国家に属する権利であり、統治の最高機関は、天皇である)が主流となる
1921 大正10年 原敬、暗殺される
裕仁皇太子(後の昭和天皇)が大正天皇の摂政となる
ワシントン会議(米の主唱により第一次大戦後の太平洋・極東問題,海軍軍縮問題に関して開かれた国際会議。米・英・日・仏・伊・オランダ・ベルギー・ポルトガル・中国が参加。九か国条約・四か国条約・海軍軍縮条約が成立し,アジアにおける列強の勢力関係(ワシントン体制)が定まった。)
1922 大正11年
1923 大正12年 関東大震災(9/15、海溝型地震、M7.9)死者・行方不明約10万人
摂政(後の昭和天皇)が狙撃される
1924 大正13年 第2次護憲運動
普通選挙法成立
1925 大正14年 普通選挙法施行
ロシア革命を目の当たりにし、革命阻止のため治安維持法を成立
1926 大正15年/昭和元年 12月25日に大正天皇が死去(47才)
摂政宮であった裕仁皇太子が即位
大正15年12月25日を昭和元年12月25日と改元


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4.終わりにあたって

今回もご覧いただきありがとうございました。

次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。
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 作成日:2021/6/1
一部加筆、修正:2021/6/2
一部加筆、画像を追加:2021/6/3
一部加筆:2021/6/4
微修正:2021/6/7
一部追加:2021/6/10
明覚の五十音図を追記:2021/6/13

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