曼珠沙華
MS-DOSは遠くなりにけり
ワープロソフトといえば、一太郎でしょ
表計算といえば、Lotus123でした
データベースソフトのdBASE
ファイルのコピーならエコロジー
パソコン通信の雄 ニフティ
終わりにあたって
「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざどおり、ようやく過ごしやすい気候になりました。
みなさま、お元気でお過ごしでしょうか。
今年も、我が家では、曼珠沙華(ヒガンバナ)(上の写真)の花が咲きました。
写真の手前の白く見えるものはやや、クリームがかった白色です。
これ以外に薄いピンクの株もあったのですが、消えてしまったようです。
花はきれいですが、根茎などに水溶性のアルカロイド毒があり、山村美紗さんの推理小説「彼岸花が死を招く」などにも登場します。
ただ、古くは、根茎をすり下ろして水によくさらし、デンプンをとって飢饉の際に食したようですので、適切な処理をすれば、毒キノコなどよりは、毒性は弱いようですが、今では、食べる人はいないでしょう。
毒キノコといえば、ニセクロハツを食べた方が亡くなられたニュースは、耳に新しいですが、秋は、キノコの季節です。
「山と渓谷社」のヤマケイポケットガイド「きのこ」では、主な毒キノコとして、
「循環器系を冒すもの」--食後6~10時間で発症。致命的。ドクツルタケ、ニセクロハツなど約8種類。
「自律神経を冒すもの」--食後20分~2時間で発症。ホテイシメジ、ヒトヨタケなど約4種類。
「中枢神経を冒すもの」--食後20分~2時間で発症。ベニテングタケ、ワライタケなど約7種類。
「消化器系を冒すもの」--食後30分~3時間で発症。ツキヨタケ、カキシメジなど約10種類。
「そのほかのもの」----食後4日~5日で発症。ドクササコ。
などが挙げられています。
きのこは、まだまだ、研究が遅れていて分類されていないものも多数存在しているようです。
きのこだけは、君子でなくとも危うきに近寄らずでしょう。
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「コンピュータ事始め(東芝パソピア)」で8ビットパソコン用の汎用OSである「CP/M」に触れた私は、「コンピュータ事始め(PC98全盛期)」に書きましたようにPC9801の時代にMS-DOSを導入しました。
CP/Mの時代と異なりMS-DOSとは、教室では、1998年頃まで、個人的には、2005年までと、約20年という長いつきあいになりました。
そもそも、MS-DOSは、IBMの16ビットパソコンのためのOSとしてマイクロソフト社が開発したもので、1981年にアメリカで発売され、その後、IBMのPC互換機用のOSとして各社のパソコン用にも採用され、事実上、16ビットパソコンのOSとしての地位を確立しました。
日本では、MS-DOS Ver 3.1の時代に「一太郎」などの人気ソフトにバンドルされるという、今では、考えられない方法で普及しました。
MS-DOSは、その後、パソコンを購入するとバンドルされるという形で普及していったので、ほとんど単体での購入はなく、単体で購入したのは、Ver5の頃かも知れません。
Windows3.1の登場後もMS-DOS上でWindows3.1が動作するという二重構造だったので、Windows95までは、MS-DOSが実際は、使われていたわけです。
今日では、マイクロソフト社のサポートも終了し、MS-DOS上で実行するアプリケーションもほとんど使われなくなり、DOS画面らしきものに触れるのは、Windowsのアクセサリからコマンドプロンプト画面を実行する時だけになってしまいました。
下の写真は、MS-DOSの上で動作する緑電子のメニューソフト SOSの画面の一部。
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MS-DOS上で動作するBasic言語については、前述の記事の中でたびたび、書きましたので、それ以外のアプリケーション達についての、私の思い出を振り返ってみましょう。
一つめは、なんといってもジャストシステム社の「一太郎」ですね。
東芝の日本語ワープロの発売(1982/11)を契機として、シャープ、NEC、キャノンなどから続々と日本語ワープロ専用機が発売になりました。
パソコン用のワープロソフトとしては、「松」など他社のものも出ましたが、やはり、後にも先にも「一太郎」ほど売れた日本製のソフトはないでしょう。
その頃は、「あなたのパソコンは、何ですか?」という問いに対して
「わたしのパソコンは、一太郎です」と答える方も結構、いらっしゃったほどでした。
一太郎=パソコン、パソコン=一太郎の時代だったのです。
一太郎もVer3~5の頃のMS-DOS時代が絶頂であったように思われます。
Ver6の頃にWindows3.1に対応して、当教室でも開設時にはワープロソフトは、「一太郎Ver6」のみで、「ワード」は、Word97から取り上げるようになったのでした。
Word97までは、断然、一太郎が優位という感じでしたが、日本でのみバージョンアップしたWord98でかなり迫られ、Word2000で並ばれた感があります。
今でも鮮明に覚えていますが、晴海のビジネスショーの会場でジャストシステムがマイクロソフトの向こうを張って「一太郎Office」を大々的に宣伝していたものです。
しかし、一太郎の天下もこの頃からすでに下りはじめ、現在では、残念ながら習う方が少なくなってしまいました。
「一太郎」+「ロータス123」と「Word」+「Excel」との連携では、同一会社製のマイクロソフト社に一日の長があったように思われます。
もちろん、メーカー製パソコンにバンドルするソフトの選択についてマイクロソフトが不適切な指導を行ったとする、いわゆる独占禁止法違反問題も少なからぬ影響を与えたでしょうが。
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一太郎は、私個人も、また、少なからぬ人たちも使用していますが、「ロータス123」ほど一世を風靡した後に一挙に消えてしまったソフトも少ないでしょう。
123(ワン・ツー・スリー)が表計算・グラフ・データベースの3つの機能を1つ兼ね備えたものだという点は、Excelにも受け継がれています。
DOS時代は、パソコンがあるからこそ実行できる、そういったソフトが数多く出てきた時でもありました。
その中でも表計算というジャンルを切り開いたのが「Visicalc(ビジカルク)」だとすれば、表計算のジャンルを揺るぎないものにしたのは、Lotus123でしょう。
下図は、当時のロータスのコンパクトハンドブック(毎日コミュニケーションズ刊)
ロータス123にどういう理由で触れたのかは、記憶がはっきりしませんが、職場でのことでした。
確かに表計算を個人で必要とする方は、当時(現在でも)、あまりいなかったはずです。
職場でしか使われないというあたりに、一挙に消えてしまった理由があるのでしょう。
ロータスの123の使い勝手は、当時のソフトの中では、非常によかったのですが、難点は、そのマクロ(ExcelでいうVBAに相当するものです)が、かなり、くせがあるものでBasicとはまったく異なったものでした。
このため、結局、私はこのマクロは、一回も使いませんでした。
ロータスの凋落は、Windowsへの対応が遅れたためでしょう。
当教室でも開設当初、Windows版のロータスが出荷されないため、MS-DOS版のロータス123のコースを設けていました。
そして、Lotus123のWindows95対応版は、なんと、1997年9月より開講しました。Windows95の発売より約1年半という遅れでした。
マイクロソフトのExcel95が当初からWindows95に対応していたことに対し、この遅れは、致命的なものでした。
また、残念なことにこの「Lotus123 97」のツールバーは、現在、選ばれている機能に対応して、くるくると入れ替わるものでしたが、このルックアンドフィールも使い勝手が悪かったように記憶しています。劣勢を挽回できませんでした。
いずれにしても爆発的に普及したWindows95への対応が遅れたことが、ロータス123の運命を決定的に悪くしました。
結局、ロータスデベロップメント社は、IBMに吸収されました。
今、私がロータスを思い出すのは、Excelで日付の間隔を求める関数、Datedif関数を使うときです。
関数パレットに入れてもらえない不幸な関数です。
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これも職場で使用したのが契機となりました。1990年頃、Basicでのシステムに限界を感じていた私たちが選択したデータベースがdBASEだったのです。
dBASEは、当時主流であったカード型データベースに対してリレーショナルデータベースというキャッチコピーで宣伝されました。
dBaseのようなデータベース管理ソフトは、一般にxBaseといわれていました。
xは、dBaseを含めて類似のあらゆるソフトが入るという意味で、dBaseは、これらのデータベース管理ソフトのトップになっていたのです。
dBaseには制御する言語機能もあり複雑なシステムも作成できたのでした。
動作も軽くてDOS上でありながらビジュアルに操作できるというロータス123にちょっと似た使い勝手でした。
ただ、日本では、ようやく普及しようとするうちにWindowsが普及し、それに従って、AccessやSQL Serverなどに取って代わられてしまったという、(またしても)不幸せなソフトです。
※サイエンテック社刊行の「dBaseⅣ活用ガイドブック」(1994/5購入)
個人的には、Visual dBaseというWindowsで動作する後継のソフトを購入(以前、8ビット用パソコンの人気ソフトTurbo Pascalを販売していたサザンパシフィックという会社からだったと思いますが)してみたのですが、大勢には、逆らえませんでしたね。
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ご存じの方は、よくおわかりですが、MS-DOSでは、CUI(キャラクター・ユーザ・インタフェース)といって命令をコマンドとして打ち込まないとファイル名の閲覧やコピーなとが行えない仕組みでした。(確か、ver5からは、MS-DOSにもシェル機能が備わったように思いますが)
しかし、これでは、不便なのでもっとビジュアルに操作できるソフトとして「エコロジー」というソフトが発売され、人気を博しました。
エコロジーは、今でいうエクスプローラのようなツリー画面でファイルなどを操作できるものでした。
MS-DOSで動作するパソコンでは、エコロジーは、必須というか、まずは、最初にインストールするものでした。
当時のソフトは、ただ、単にフォルダ毎、適当なドライブにコピーするだけでよいという簡単なものでしたので、まずは、エコロジーを入れてから他のソフトをコピーするという事になったのでした。
エコロジーのようなファイル操作ソフトは、その機能の大半がWindowsに備わるようになり、現在では、フリーソフトやシェアウェアの一部にその影を残すだけとなりました。
下の写真は、エコロジーの画面。
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「パソコン通信」。これも懐かしい響きですな。
300ボーの音響カップラーでピーヒョロヒョロと通信しているような感じがします。
「War Game(ウォー・ゲーム)」というアメリカ映画がありました。1983年(昭和58年)に日本でも大ヒットした作品です。
これを見てパソコン通信にあこがれた人は、多かったようです。
パソコンそのものがまだ、珍しかった時代に、北米防空司令部(NORAD)のコンピュータを電話線経由でハッキングする(今、思えば、パスワードを当てるだけなんですが。しかし、ユーザ名とパスワードでの認証というシステムは、今でも大勢を占めているので他人事でありませんね)という点とコンピュータ同士が電話線を使って通信する(これも今となっては、当たり前ですが)という点がなんといってもカッコイイことでしたね。
私も感化されたようで、当時、「日本マイコンクラブ」という団体がありましたが、入会し、パソコン通信に手を染めました。
ただ、当時、私の8ビットパソコンである東芝パソピアは、NECの8001に押されて、マイナーな機種になっていましたので「マイコンサーキュラ」というマイコンクラブの会誌にもプログラム例が載っていないのです。
「そう、自分でプログラムを書くのが当たり前というか、それ以外の方法がない時代だったのだよ。ワトソン君」。
で、8001や8801は、雑誌のプログラムをそのまま写せば、完成でしたが、パソピアのためには、書き直す必要があったということです。
その後、9801の時代になりMS-DOSが普及する頃になると、「技術評論社」製の通信ソフト「CCT」が登場したように思えます。
CCTは、なかなか便利なソフトでした。
下の写真は、CCT-98の画面の一部。
また、パソコン通信といえば、ニフティ・サーブ(現 アット・ニフティ)かPC-VAN(現 ビッグローブ)かという時代がやってきました。
中でもニフティには、フォーラムという今でいう掲示板のような会議室システムがあり、PC-VANにもありましたが、ニフティの方が、より大人のイメージが強かったように思えます。
う~ん。感覚的には、現在のソシアル・ネットワーキング・サービス(SNS)に近いものだったと思われます。
荒らしや罵声も少なかったと思いますし、まぁ、牧歌的な時代でした。
ニフティのIDを持っているというのは、一種のステータスに感じられました。
ニフティを利用するためには、CCTの後は、ニフティから頒布されたニフティマネージャを使っていました。
ニフティマネージャは、Windows版も出ましたので、インターネットが普及するまでは、そうですね。
だいたい1998年頃までは、パソコン通信の方が主流だったのではないでしょうか。
上の写真は、ニフティサーブのポケットリファレンス。
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インターネットとの関わりについては、「コンピュータ事始め(インターネット)」に譲ります。
では、皆様、お元気でお過ごし下さい。
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