2020年6月のご挨拶

鏡と写真 (自画像と鏡、写真史、古代の鏡、鏡の中の世界、鏡と写真)

目次

1.はじめに
(1)コロナ禍とテレワーク
(2)漢字好き
(3)男尊女卑
(4)Skype(スカイプ)
(5)左右は状況により変化
2.Skype(スカイプ)の利用
(1)Skypeでの相手と自分の姿
(2)Skype利用時の注意点
3.自画像と鏡、写真
(1)寺田寅彦の『自画像』と鏡
(2)衣服の打合せ
(3)写真撮影の頻度や枚数
(4)デジタルカメラの普及
4.写真の歴史(初期)
(1)カメラの誕生
(2)ニエプスのヘリオグラフィーとダゲールのジオラマ
(3)ダゲールのダゲレオタイプとタルボットのカロタイプ
(4)アーチャーの湿板写真
(5)写真術の到来と島津斉彬
(6)日本人写真師の祖 下岡蓮杖
(7)小西本店の創業
(8)東郷平八郎の双眼鏡と小西本店
(9)学校でアルバムを作る訳
5.鏡にまつわる話
(0)鏡の製造の歴史
(1)卑弥呼の鏡、八咫鏡(やたのかがみ)など
(2)西遊記や封神演義に現れる鏡
(3)仏像と鏡
(4)鏡で映す、鏡で照らす
6.鏡の中の世界
(1)物理的に考える
(2)バックミラーでの後続車の見え方
(3)寝ころんで見る
(4)鏡像の奥行き
7.鏡像と写真
(1)鏡像の特徴(明るさ、色、奥行き)
(2)写真の特徴1(保存、形、露光時間)
(3)写真の特徴2(無人・遠隔、X線等の可視光以外)
(4)カメラ付き鏡(リアルミラー)
(5)人の眼と画像反転
8.終わりにあたって

1.はじめに

(1)コロナ禍とテレワーク

「新型コロナウイルスの感染者が日本国内で最初に確認されたのが、2020年1月だった。これは、2020年3月のご挨拶『感染(流行)曲線』に記載したとおりだ。その後、2月頃から、にわかにテレワークやリモート授業などの動きが広まった。これは、日本政府が2020年2月26日・27日の両日に『大規模イベントの中止』や『公立小学校・中学校・高校・特別支援学校の休校』を相次いで要請し、4月7日には、新型感染症に関する特別措置法に基づき、7都府県に対する『緊急事態宣言』を出し、4/16には、それを全国へ拡大した動きを背景に加速していった。

テレワークなどは、本来であれば、2020年夏に開催されるはずだった『東京オリンピック・パラリンピック』に向けての都心の交通混雑緩和対策の一つだった。しかし、東京都などからの要請に応じて、テレワークなどの体制作りを進めていたのは、一部に留まり、2020年初頭の時点では、決して、十分ではなかった」

「会社や学校などの皆さまは、テレワーク、リモート授業を急にすることになったので、大変だったと思うわ。おじぃさんが言うように前から準備されていたところは、4~5ヶ月ぐらい前倒しだったものの多少のゆとりは、あったと思うけどね」

「おお、ともちゃんかい。緊急事態が5/26に全国で解除されて、ひとまずは、ほっとしたのう。とは言え、コロナウイルスが消えたわけでもなく、確実な治療薬やワクチンもまだないのだから、あまり、安心は、できないがの」
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(2)漢字好き

「緊急事態の解除も『緊急事態解除宣言』と呼称された。『宣言』君もこんな使われ方をして、残念じゃったろう。コロナ禍さえなければ、2020年は、『オリンピックの開会を宣言します』というような文章の中で、輝いていたはずだからな。政治家やお役所は、よほど『宣言』が好きだと思ったな」

「あはは、たしかに。記者会見などでは、多くの政治家の方から、『発出』(はっしゅつ)という用語も飛び出して、驚いたわ。これまで、聞いた記憶がなかったぐらい。耳だけで聞くと、『はっしん』とも聞こえて、『発信』、『発進』?と、とまどった」

「同じ内容の文章でも、文語調にすると重みが増すように感じられる。内容は、『たいへんなことになりました』というだけなんじゃが・・。わしらは、漢字の割合が多いほど重要な文章だと思うよう頭にすり込まれているんだと思う。

古代に中国から漢字がもたらされ、最初は、漢文のまま、その後、万葉仮名といって、日本語の発音を書き表すため、漢字をひらがなの代わり(ひらがなやカタカナ発明前だから)に使った頃、ご先祖様が漢字ってすごい!、と感じた記憶が未だに残っているせいかもな」

「その対極が『やさしいにほんご』ね。難しい漢字の熟語などをなるべく使わずに、小学校高学年~中学生でも分かる言葉を使う。漢字には、ふりがなを振ったり、複文を避けて単文で書く。こうすれば、子どもだけでなく、外国語を母国語とする方にも伝わりやすいわ。もちろん、英語などの外国語に訳す場合も訳しやすくなるでしょう』

「たしかにな。本稿なども、『なんとかは、なになにですが、なんとか、なんとか・・』と文章を『が』などで、つい、繋いでしまいがちになるからな。気をつけよう」
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(3)男尊女卑

「平安の昔の清少納言さんも言っているじゃない。女が漢籍などを読んで、知識を披露すると、男どもがいい顔をしないって。仮に漢文などを読めても、『わたし、漢字なんてむずかしくて、わかりませんわ』と言って、無知を装う方が男にもてると、世の女は、思ってんじゃない(紫さん。あんたもそうでしょ!)。いまだって、女は、黙って、俺の言うことを聞け的な、まったく、昭和の遺物っていう男が残っているでしょ」

「さすがに、そういう男は、日本の家庭では、もはや、絶滅危惧種じゃろう。海外の、たとえば、一部の地域では、女性に教育を勧めなかったり、そもそも、認めなかったり、さらには、未婚の女性が他家の男性とキスをしただけで、家族により殺されてしまったりと、宗教に名を借りた女性差別や弾圧が、いまだに、まかり通っているところもある。

普通に考えれば、人口の約半分を占める女性が知識や教養を身につければ、男性と情報や知識を共有でき、そうした女性が社会に進出すれば、国や地域の発展に有益なのは、当然のことだ。

他方、男性側から考えると、女性が知識や社会経験を身につけると、家庭での自分の地位の低下につながりかねない。また、社会で、これまで、支配的な地位を独占してきた男性は、その地位を脅かされる。そこで、宗教の力を借りて、女性を家に閉じ込めて、外に出るときは、夫か兄弟の同伴を強制したり、頭から足の先まで真っ黒い布でくるんでしまったりしてるということだな」

「かつては、キリスト教や仏教でも、似たようなことはあったでしょう。儒教も同じね。また、宗教でなくても、たかだか、数十~数百年程度の習慣を『伝統』と呼んで、ひたすら、奉っている男達もいる。

頭では、おかしいと分かってるくせに、権力を手放したくない男性上位の社会は、まだまだ、残っているわね。先年の大学医学部の入学試験で女性受験者の点数を厳しくしていた大学が全国で複数あったこともそうでしょ」

「いや、まったくだな。コロナ禍に紛れて、いつしか忘れておった。男尊女卑は、政治、経済、教育などの広い分野で、根強く残る悪習だ。これも、反省せんといかんな」
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(4)Skype(スカイプ)

「閑話休題(気を取り直して)、さて、話を戻すと、まったくもって、『一寸先は闇』、未来のことは、予測しがたいものなり。コロナ禍であらためて痛感したのう」

「2019年末の大晦日、日産自動車元CEOのゴーン氏が密かに日本をプライベートジェットで抜け出して、レバノンのベイルートから、新年に向けて、ビデオメッセージを発信(発出ではないわよ)するなんて、あたしも、ろくなことが起きない気がしたわよ。

そこで、一句、『除夜の鐘 ベイルートより 響きくる』」

「では、わしも負けじと、
 『煩悩の 数をお互い 競わんと ベイルートにて たたく鐘の音』、
 『ゴーンさん 誰よりはやく コロナ風邪 見通すわざぞ まさにカリスマ』、などいくらでも思いつきそうじゃな。

「ははは。ところで、おじぃさんも、テレワークを始めたの?」

「なに、テレワークかいな。いや、隠居の身じゃから、それはないのう。しかし、パソコン教室をやっていたときにSkype(スカイプ)を教えたことは、あった。あれから、もう何年も経って、Skype社も2011年にマイクロソフト社に買収されて、『Skype』は、今や、マイクロソフトのアプリとなっていた。今回、世の中にテレワークやリモート授業などが広がったので、久しぶりに、使ってみたのじゃ」

「それで、今回、Skypeを取り上げるのね」

「いや、Skypeのインストールや使い方に関するページは、YouTubeの動画も含めて、すでにいろいろとある。いまさら、付け足すほどの内容が思いつかない。今回は、Skypeの画面に触発されて、鏡と写真の見え方などについて、調べたことや考えたことを書くことにしよう」
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(5)左右は状況により変化(2020/6/22追記)

「右とか左とか言う場合は、状況を考えて言わないと、大きな誤解を招くことになり、時とすると、重大事故にもなりかねないな」

「たしかに。病院などでは、患者さん側に立って、考えるので、患者さんの右手側なのか、左手側なのか、十分に確認しないと、いけないわね。でないと、反対側の臓器などを手術したり、摘出したりしてしまうと取り返しが付かないわよ」

「そうじゃな。船舶などでも、船の右舷、左舷は、観測者がその船の船尾から船首を見たとき、その観測者の右手側が右舷、左手側が左舷だ」

「同じような例では、京都御所の紫宸殿(天皇が儀式や政務を行う場所)は、南面して設けられているのね。お庭には、左側に『左近の桜』、右側に『右近の橘』が植えられている。このときの、左右は、御所の内側から見て、つまり、天皇が南面して立たれたとき、左手側(東)を左、右手側(西)を右ということ。だから、現代の私たちが外から紫宸殿に向かって見たときは、右側に『左近の桜』、左側に『右近の橘』があるので、注意して下さいね」

 京都御所 紫宸殿 ウィキペディア『紫宸殿』(Saigen Jiro氏、2017/4/14撮影)の写真を転載させていただきました。
 向かって右側が左近の桜、左側が右近の橘。(奈良時代は、左近の梅であったそうな)

「基本的には、右、左の『主体』は、状況次第で変わるのじゃな。従って、少しでも、紛らわしい場合は、『主体の右』、『主体の左』、あるいは、『主体に向かって左』、『主体に向かって右』などと言うか、または、絶対的な方角で指定する必要がある。

例えば、東京湾の右側、などと言うと、主体が、観測者なのか、東京湾なのかが、まず、不明じゃ。仮に東京湾が主体だとしても、東京湾のどこが頭で、どこが足なのかが分からない。従って、東京湾の右側は、どこなのかが、結局、不明になってしまう。

このようなときは、東京湾の東側、などと方角で指定するのがよいじゃろう。これならば、主体が東京湾であっても、あるいは、主体が観測者で、東京湾の外にいようと内にいようと紛れない言い方となる」

 Google地図より、東京湾とその周辺。

「でも、常に、方角で言えるかと言うと、困る場合もあるのよ。たとえば、自動車で走行しているようなとき、ナビが『前方500mで、南に曲がります』などと言ってきたら、面食らいます。これは、『前方500mで、右折します』などと主体が運転している自動車から見て、左右で言ってくれないとね」

「そうじゃな。混ぜて言う場合もあるじゃろう。

たとえば、警察のヘリコプターが盗難車を上空から追尾している場合、『逃走車は、○○道路の方南町付近を南下中』などと報告するだろう。その後、交差点で、曲がった場合は、『逃走車は、○○道路の△交差点を東に左折し新宿方面に逃走中』などと、方角と左右を混ぜて言うかも知れないな。要は、伝える相手がどこにいても、紛れない、伝え方が必要となると言うことかな」

「なるほど。だから、座標系が大切と言うことね。その座標系は、どこに固定されている座標系なのか?」
※ 利き手、利き眼などの左、右については、『わたしの彼は左利き?』(2011年7月)で記載しています。
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2.Skype(スカイプ)の利用

(1)Skypeでの相手と自分の姿

「スカイプ画面で一対一のビデオ通話を行っている場合、ウィンドウには、相手の画像と自分の画像の2つがあるじゃろう。
 例えば、こんな感じだな」

「なるほど。
 相手の画像は、大きくて、相手の方と実際に向かい合って座ったときのように見えるのわね。
 画面右上の自分の画像は、鏡に自身を映したように、こちらを向いて入るので、左右が逆になって映っている」

「その通り。自分の画像は、鏡で見る姿のように映っているのだな。もっとも、自分の画像は、標準のままでは、小さいので、左右の違いまでは、気がつかれない方もいらっしゃるじゃろう。やや古いタブレットのAndroid版のSkype(Ver 8.15.0.430)では、右上の画像をタップすると相手の画像と入れ替えることができた。

じゃが、Windows 10のデスクトップ版のSkype(Ver 8.60.0.76)では、右上の自分の画像をクリックしただけでは、入れ替わらない。マウスで自分の画像をドラッグすると、下図のように、位置を変えられるし、また、隅をつまんで引き延ばせば大きさも変えられることが分かった。

上の図のようにな」

「たしかに、これは、便利かも。ところで、おじぃさんの画像の背景は、変えているのね」

「そうじゃ。ノウゼンカズラの花の写真を背景にしてみた。スカイプの左上の三本線のメニューから、設定を選択すると、

 上図のようなダイアログボックスが出る。
 ここで、『音声/ビデオ』をクリックすると、


 最初は、背景加工無しとぼかしの2つがあるだけだが、ぼかしの隣の+(画像を追加)をクリックすると、画像を追加できる」

「だけど、相当、高度な処理よね。人間の画像を認識して、その輪郭を切り出す必要があるもの。その上で、切り出した画像を追加された画像と合成する訳でしょ。しかも、静止画じゃなくって、動画なんだから」

「そうなんじゃ。わしも驚いた。上のような人形では、若干、切り出しが難しくなるようじゃ。わしの顔をカメラがとらえると人形の切り出しがなくなって、人形が(背景に塗りつぶされ)消えてしまうのだ。面白いのう」
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(2)Skype利用時の注意点

「Windows10でSkypeを利用する場合、Windowsのプライバシーの設定を変更する必要があるかも知れない。また、セキュリティ対策ソフトによっては、カメラ、マイクの利用について、制限されている場合があるので、それも解除しておく。

まずは、Windowsのカメラの設定だ。設定⇒プライバシー⇒カメラ、でオンにする個所を下図に示す。





 次に、マイクだな」

「同様に、設定⇒プライバシー⇒マイクで下図のようにオンにする。






 セキュリティ対策ソフトは、それぞれ異なるので、いわゆる、Windowsの通知で、なにがしかの警告が出て、カメラやマイクがうまく利用できない場合は、セキュリティ対策ソフトの設定から、変更するということね」

「そのとおり。ついでに言えば、Skypeを利用していない相手でも、Windows10であれば、相手がEdgeを使えば、Skypeを使わずとも通話が可能じゃ。その際は、相手の方のWindowsの設定で、Edgeに関する下記の場所をオンにしてもらう必要がある。
 プライバシーのカメラとマイクじゃな。


 これで、Skypeから招待のリンクをメール等にて、相手方に通知して、相手がメール内のリンクをクリックして、Skypeのインストールまたは利用ではなく、Edgeでの通話を承諾すれば、通話を始めることができる」

「もちろん、相手の方が、すでにSkypeの利用をされている場合は、『Skypeを起動/インストール』をクリックして、Skypeで通話することもできるわよ。

だけど、Skypeは、インストールされているけど使っていなかったり、新規にSkypeのインストールから開始したりすると、その後、Skypeのアカウントの取得や設定の操作が必要となる。それで、ハードルが上がって時間がかかってしまう。相手の方がSkypeを利用をされていないときは、とりあえず、Edgeで利用していただくのがお勧めね」
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3.自画像と鏡、写真

(1)寺田寅彦の『自画像』と鏡

「寺田寅彦(物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。(1878~1935)(広辞苑第7版))の随筆に『自画像』というものがあった(岩波文庫の『寺田寅彦随筆集』第一巻(小宮豊隆編:昭和44年第37刷)。初出は、大正9年(1920年)9月の中央公論:寅彦42才頃)となっている。ここでは、本稿に関係するごく一部を引用してみよう。

四月の始めに山本鼎氏著「油絵のスケッチ」という本を読んで急に自分も油絵をやってみたくなった。・・・(中略)・・・手近な静物や庭の風景とやっているうちに、かく物がだんだんと少なくなって来た。・・・(中略)・・・それでとうとう自画像でも始めねばならないようになって来た。いったい自分は、どういうものか、従来自画像というものにあまり興味を感じないし、こと人の自画像などには一種の原因不明な反感のようなものさえもっているのであるが、それにもかかわらずついに自分の顔でもかいてみる気になってしまった。・・・(中略)・・・この初めての自画像を描くときに気のついたのは、鏡の中にある顔が自分の顔とは左右を取り違えた別物であるという事である。これは物理学上からはきわめて明白な事であるが写生をしているうちに初めてその事実が本当に体験されるような気がした。・・・(後略)

寺田寅彦は、若いときに行ったX線回折の研究で国際的にも高く評価され、その後、音響や地球物理学の分野で活躍された学者じゃ。ちょうど、1920年(大正9年)に東大理学部教授を病を理由に退かれている。この油絵の話は、その療養中のことになるだろう。

当時の寅彦は、5年前、師とも友とも慕う夏目漱石(1867年~1916年)を失い、今、自らも同じ病(胃潰瘍)を患う者としてある種の覚悟ができていたのかも知れない(注:死因は、腫瘍)。そんな新鮮な眼で鏡の中の顔を眺めると、鏡像が左右逆であることをあらためて体感したのではないかな」

「ラウエのX線回折の実験(1912年)を知ってすぐ同時期(1913年(大正2年))に追試したとは、すごいわね。『人物で読む物理法則の事典』(米沢富美子総編集:朝倉書店:2016年4月第2版)によれば、寺田寅彦が生涯で発表した論文は、欧文209,和文58編に上っている。亡くなられた年齢(57才)を考えると、精力的に研究を行い、それ以外に夏目漱石の弟子として、随筆を書いたり、俳句を作ったりされているのだから」

「ちなみに、漱石の『吾輩は猫である』に登場する理学士『水島寒月』は、寅彦がモデルと言われている。漱石の他の作品にも寅彦をモデルにしたと思われる人物が登場しているが、寒月がもっとも、実際の寅彦と似ていると言われているようだ」

「へー、そうなんだ。ところで、その寅彦先生ともあろう、お方が、どうして、左右が逆に見えてしまう鏡を見ながら、自画像を描こうとしたのでしょう?」
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(2)衣服の打合せ

「ま、自撮り写真に精を出して、『いいね』を欲しがる現代人としては、当然の疑問じゃのう。

寅彦は、同文中の別の個所で、自画像を描くうちに、浴衣の打合せ(洋服類の前身頃の左右の重ねが合ったところ:広辞苑第7版)が、鏡の像では、左前になっているのを見て、自分の理性と芸術は、見たとおりに左衽(おくみ)(=後述の左前)に描けと命ずるが、一方、そのように描くと年取った母親が気にするだろうからと無理矢理に右衽(=右前)に直して描いたとも書かれている」

「えーと、ここで、突然ですが、衣服の打合せについて、ともちゃんが解説するんで、よろしくね。

洋服の打合せは、男性は、右前、女性は、左前なんだけど、和服では、男女の別なく、右前(和服の着付けでは、時間的に右手側を先に着付けるという意味とのこと。だから、結果的に自分の左手側が後になるので、上側になる。しかし、こういう説明するとややこしいので単に相手から見て右側が上になる着方を右前と覚える方が分かりやすい)のね。

図で説明すると、下の2枚の写真のように、洋服だと、女性は、向かって左側が上になる『左前』で、男性は、向かって右側が上になる『右前』となる。和服とは、違うの。ボタンで留める衣服は、どちらかを上にする打合せがある。セーターやシャツでは、関係がない。


 一方、和服では、下の写真のように男女とも向かって右側が前側となる『右前』、

 となっているの。

和服は、奈良時代の法律で男女の別なく、右前で、服を着るように定められたなんて、知らなかったわ。下記のページで紹介されている。
 『719年(養老3年)に元正天皇によって発令された衣服令にあった「右衽着装法(うじんちゃくそうほう)
 晴れ着のあれこれ https://www.hareginomarusho.co.jp/contents/kimono/960/
 そのため、左前にするのは、経帷子(亡くなった人に着せる衣装)のときだけという。それで、寅彦先生は、自画像を母親が見たときに不吉に感じぬように、右前に直したという訳。先生の人柄が伝わってくる話ね。だからさ、どうして写真を見て、描かかなかったってことよ?」
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(3)写真撮影の頻度や枚数

「寅彦が自画像を描くときに写真を使わなかった理由は、正確には、わからないが、自画像にふさわしい手頃な写真がなかったと考えるのが自然だと思う。

付け加えれば、鏡で見る自分の左右は、逆だが、時間は、現在だ。それに対して、写真が撮られたのは、過去であって、今の(リアルな)自分の顔では、ないという気持ちもあったかも知れない。

ここで、『寺田寅彦の生涯』(小林惟司著:東京図書:1977年7月25日第1刷)の写真を見てみると、
・ 明治41年(1908年)1月撮影(30才)のふるさと高知での親族との集団写真、
・ 明治42年(1909年)5月(31才)のベルリン留学中の写真館で留学生4名でのグループ写真、
・ 大正6年(1917年)撮影(39才)、上半身のポートレイト(肖像写真)、
・ 昭和10年(1935年)8月(57才)の浅間山火山観測所で撮影した集団写真、
 の4枚で、寅彦の顔が確認できる。もっとも、1枚目と4枚目の集団写真は、小さすぎて、自画像には、利用できないだろう。

もちろん、この書籍に採用されたもの以外にも、寅彦の写真は、あったと思う。だが、『自画像』が書かれた大正9年(1920年)頃の写真技術や機材の普及度合いを考えると多数あったとは、考えにくい。

ところで、ともちゃんや、自分が写っている写真は、何枚持っているかな?」

「えーと、数えたことないよ。いっぱいあることだけは、確かね」

「みんなデジタル写真かいな?」

「さすがに、全部、デジタル写真じゃないわ。学校の卒業アルバムもあるし、小さい頃、フィルムカメラで撮ってもらった写真や七五三などのときに近所の写真スタジオで撮ってもらった写真、あとは、友だちからもらった写真などね」

「そうじゃろうな。ところで、フィルム写真の技術は、寅彦の自画像の1920年から約90年で、頂点に達した。たとえば、当時主流だった写真乾板は、フィルムへ変わり、また、モノクロ写真もカラー写真へ、カメラももちろん、輸入品から国産品へと格段の進歩があった。日本製の高級カメラが世界を席巻したのも、そんなに昔のことではない。

しかし、このようなフィルムカメラによる撮影に要する費用は、カメラ本体の代金を除いても、一般家庭では、無視できる金額では、なかった。フィルム代の他に、現像費、焼き増し代も必要だった。ロールフィルムからカートリッジ式のフィルムに代わって、1巻は、20枚ないしは36枚だったから、このような費用を考えると、自ずと、撮影枚数に金銭的な制約がかせられていた。すなわち、フィルム写真の時代は、個人が気軽に多くの枚数の写真を撮ることは、難しかった。そのため、写真の総数も少ないのじゃ。

だが、2010年前後から、デジタルに変わり、撮影枚数の制約が、記憶媒体の容量のみになってしまう。しかも、年を追う毎に容量は、増えている。その頃を頃にして、撮影枚数が急増し、1枚あたりの価格が急落したと言えるじゃろう」

「う~ん。写真を紙に印刷しなければ、確かに安くなったわ。近頃は、クラウド上にアップした写真を共有すれば、コピーして渡す必要もない。あるいは、SNS上で友だちに公開しても良い。

あとあれね。フィルムカメラの時代は、カメラを手元に置いていないと写真が撮れなかったけど、今は、スマホでも写真を撮れるようになって、写真を撮るチャンスが増えたことも、写真の枚数が多くなっている理由ね」

「フィルムカメラの時代でも、『セルフタイマー』という小道具をカメラに装着して、タイマーのゼンマイを巻けば、数十秒程度の時間の余裕を持てたため、撮影者自身やグループの写真も撮影できた。

とは言え、問題は、シャッターを押す瞬間を撮影者が決められないことだ。さらに、フィルムを写真屋さんに渡して、できあがるまでに、数日から1週間程度の日数がかかった。なので、グループの集団写真などは、全員が揃って、綺麗に撮れていることは、少なかった。まして、自撮りでは、ポーズや表情、視線などを自由にとることは、モデルさんや俳優でも、無理じゃったろう」

「それで、親や友だちにとってもらうか、入学式や卒業式、修学旅行などでは、写真屋さんに出張してもらうか、あるいは、家族で写真館に出かけて、記念写真を撮ってもらっていたのね」

「ま、そういうことになるな。もっとも、一般の人が写真館で家族の写真を撮ったりするようになったのは、昭和の高度成長期以降じゃろう。それ以前は、上流階級の人達を除けば、写真を撮ったり、撮られたりするのは、めったになかったことなのだ」
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(4)デジタルカメラの普及

「ともちゃんや、デジタルカメラが普及したのは、いつ頃だったか、覚えているかの」

「えーと、おじぃさんの2016年8月の『アナログ写真のデジタル化』によれば、2009年頃となっていたわね」

「おお、さすがに、よう読んでもらっているようじゃな。それまでは、わしは、フィルムカメラを使っていたということだ。もちろん、世間にデジタルカメラが登場したのは、もう少し前だ。しかし、フィルムカメラに引けを取らない画素数や使い勝手などを備えて、主流となってから、2020年の現在まで、まだ、約10年強ということじゃ。フィルムカメラからデジタルカメラに変わって何が変化したと思うかな?」

「そうね。なんと言っても、撮った写真をすぐ見られるようになったことかしら」

「そのとおり。それに付け加えると、ファインダーの代わりに液晶画面で構図を確認できるようになったことかな。そのため、だれでも写真を撮れるようになったこと、また、スマホの普及で、いわゆる、自撮り写真も簡単に撮れるようになったことも大きいじゃろう」

「フィルムカメラの時は、だれでも写真を撮れたわけではなかったということ?」

「フィルムカメラの頃は、撮影は、母親ができてもフィルムをカメラに装填するのは、父親しかできなかったりした。また、カメラのファインダーが思うように使いこなせず、写真の構図がおかしくなってしまう人達も結構いた。従って、グループの写真などで、見知らぬ人にカメラを手渡して、撮影を依頼した場合などは、きちんと撮影できるかどうか、常に不安がつきまとった。

我が家でも、母親が撮ると写真の手前が異常に空いてしまい人物が上半分ぐらいになることがあった。また、わしが自分でフィルムの装填ができるようになって以降も、特にフィルムの自動装填機構が標準になるまでは、フィルムがきちんと巻き取られているかどうか、一抹の不安が残った。フィルムが巻き取られておらず、一枚も撮れていなかったことも一度ならず経験した」

「ところで、話を自画像に戻すと、写真を元にして自画像を描く場合、大きなサイズの写真が必要じゃないかしら。ほら、プロの絵描きさんでも、サービス版程度の大きさの写真を見て、30~40cmの大きさのキャンバスにその写真の人物を描けと言われても難しいと思うんだよ。まして、寅彦先生は、素人でしょ。雄大な風景をキャンバスに写したり、小さな写真を拡大して、キャンバスに描いたりすることは、とても難しかったと思うわ」

「なるほど。描く対象の大きさとキャンバスの大きさの違いは、重要なポイントだ。それこそ、写真の生まれた秘密と関係する話だな。節をあらためて、少し、写真史を深掘りしてみよう」
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4.写真の歴史(初期)

手元の本(小西六写真工業株式会社(現コニカ・ミノルタ)が発行した『写真とともに百年』(普及版:昭和48年(1973年)3月15日発行)を元にして、写真の初期の歴史について、抜き読みしてみました。なお、適宜、ネット上の情報や参考書から補足している個所もあります。


(1)カメラの誕生

「写真(ここでは、フィルム写真)を作るためには、大きく、『カメラ』(暗箱、レンズ、シャッターなどの光学機器)と『感光・現像・定着』という2つの要素が必要だ。

先に発明されたのは、カメラの方だ。暗い部屋に外の光が小さな穴から差し込むと、外の景色が壁などに上下・左右が逆さまに写る現象は、紀元前4世紀のアリストテレスも観察し、その説明を試みているそうだ」

「それが、いわゆる『ピン・ホールカメラ』(針穴写真機)のことね。細長いボール箱の片方に半透明なセロハン紙を張り、反対方向のボール紙に針先で穴を開けて、外に向けてみると、外の対象物がセロハン紙に逆さまに写る、というものね」

「そのとおりじゃな。針穴が大きすぎると、セロハンに写る像は、明るくなるが、ぼけてしまう。針穴の直径(約0.5ミリメートル)は、光の波長(たとえば、赤い光≒600ナノメートル=1万分の6ミリメートル)に比較して、非常に大きい。しかし、暗箱の長さに比べれば、非常に小さくなっている。

コロナ禍で学校が休みになっていたので、家庭内工作で、作られた方もいらっしゃるかも知れない。NHKの『すイエンサー』でも、最近取り上げられていた。(2020年2月24日(火)放送:『ピンホールカメラを作って記録せよ!』)

ピンホールカメラの原理は、下図のようなものだ。像は、穴が小さいほど、鮮明であるが、暗くなる。穴を大きくすると、像は、明るくなるがぼけてしまう。像は、上下・左右が逆となる。暗箱の内部は、暗く、かつ、黒く塗りつぶし、光が乱反射しないようにすることが肝心だ。


 暗箱が円筒であれば、円筒の長さ=a、円筒の半径=r、対象物の高さ=H、穴から対象の中心までの距離をLとすると、
 H/(2L)=r/a、の関係がある。これより、a=(2L/H)×r、なので、L=10(m)、H=1、r=0.05=5cm、とすれば、
 円筒の長さは、a=1 (m)、となる。すなわち、大きい像を得るには、円筒が長い必要がある。



 実際は、穴の大きさには、最良の大きさがあるらしい。ウィキペディアによれば、穴の半径をx、光の波長をλ、と置けば、無限の遠方の対象物とすれば、前述の記号も利用して、a∝x^2/λ、という関係があると鮮明になるいう。たとえば、赤い光、では、
 λ=600×10^-9、x=0.5×10^-3、とすれば、a(円筒の長さ)≒0.41=約40cm、となる。(ただし、像は、1mの場合よりも小さくなる)

この現象を使った『カメラ・オブスキュラ』(Camera obscura:ラテン語:暗い部屋 dark chamber)は、すでに10世紀頃にアラビアなどで知られていた。16世紀に入ると針穴を大きくすると像がぼける欠点を補うため、レンズを使い、より鮮明な像を得るべく、絞りも取り付けられた。だから、この『カメラ・オブスキュラ』がカメラのご先祖様といってよいじゃろう」

「えーと、カメラ・オブスキュラは、『カメラ・オブスクラ』とも言われるのね。絞りは、何のためかというと、レンズの見かけの大きさを小さく見せる仕組みなの。小さな針穴を使うのと同じ。

また、レンズを使うと、ピントを調整する必要が出てくる。焦点距離が短いレンズほど被写界深度が浅くなり、収差によるぼけやゆがみが目立つようになる。

代表的な収差には、『色収差』(光線の波長によってレンズの屈折率が異なるため焦点の位置がずれる)、球面収差(レンズの曲率により焦点がずれる)などがある。球面収差は、絞りにより、見かけ上レンズの中心部分のみを利用することで抑えられる。

なお、色収差を減らす工夫は、後世、色消しレンズ(代表的ないくつかの波長の光の焦点が一致するように異なる屈折率のガラスを組み合わせたレンズ)により、ほぼ、解消された。球面収差については、球面でないレンズを作るなどの工夫がなされた。

絞りのもう一つの働きは、明るすぎる場合に光の量を減らす働きね、もっとも、これは、像を目で見るんじゃなくて、感光材料が使えるようになって、重要になったと思うけどね」

「そうだな。レンズが使えるようになって、明るい像が得られるようになり、趣味的な玩具から実用的な道具に進化していった。このようなカメラ・オブスキュラは、風景画などを描く場合に外部の風景を正確に縮小してスケッチするために使用された。プロの画家達も利用していたといわれる。遠近法に基づく正確な描画が可能となる。




 18世紀になると、45度に傾けた鏡を用いて、水平な面に像を映し出す工夫がなされた。この頃は、『カメラ・オブスキュラ』を単に『カメラ』と呼ぶようになった。携帯に便利とするため、鏡を使って暗箱の長さを縮める工夫や画像の左右・上下を反転させる仕掛けも施された。

 レンズと鏡を使った『カメラ・オブスクラ』。ウィキペディア。
 この写真 の作成者 不明な作成者 は CC BY-SA のライセンスを許諾されています。

なお、ガラス製のレンズは、古代エジプトやメソポタミアの遺跡からも見つかっている。アラビアのアルハゼン(Alhazen:アラビアの物理学者。本名イブン=アル=ハイサム。天文学、数学に通じ、特に光学にすぐれた業績を残す。((965頃~1039頃)日本国語大事典精選版)が11世紀の初めに表した書物で、すでにレンズを紹介しているということだ」
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(2)ニエプスのヘリオグラフィーとダゲールのジオラマ

「普通に考えれば、感光材料の発見は、様々な化学物質に対する知識や経験が積み重なって、可能になると考えられる。実際、世界で最初の感光材料は、意外なものであった。

フランスの富裕な家庭に生まれたニエプス(Joseph Nicéphore Niépce:フランスの発明家。アスファルトの感光性を利用して写真の撮影に成功。ダゲールの銀板写真完成に協力。(1765~1833)広辞苑第7版)により最初の感光術が発明された。

ニエプスは、平板印刷の一つである『石版法』の研究を行っていたとき、元となるデッサンを描いていた息子が軍隊に召集されてしまった。そこで、カメラを使って、対象を写し取る研究を始めた。こうして、完成したのが『ヘリオグラフィー(ヘリオグラフ)』と呼ばれる写真術である。アスファルトが日光に当たると硬化して油に溶けにくくなる性質を利用したものだ」

「デッサンを描く人がいなくなってしまったので、感光材料を発明しようとするなんて、まさに、必要は発明の母ね」

「ニエプスの発明したヘリオグラフィーは、感光材料として、アスファルトを石油(テレピン油またはラベンダー油)に熔解したものを金属板に塗って使用した。感光に要する時間は、極めて長く、6~9時間を要したということじゃ」

「えー!人を写すのは、無理ね。風景でも、なんと、大変なこと」

「確かにな。しかし、とにもかくにも、カメラ・オブスキュラの像を残すことに成功した。
 光線が強くあたった個所が硬化し、弱いところは、硬化の程度が弱い。その後、油で硬化していないアスファルトを溶かす。硬化した部分は、白くなり、硬化しない部分は、金属板の色が出るので、陽画ができる。中間的な階調は、再現しづらかったという。
 ※最初の写真は、『光と色と 光学と色彩学に関する話題 by Photon』の下記ページを参照。
 https://optica.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-0133.html、

さすがに、これでは、時間がかかりすぎるので、ニエプスは、ヘリオグラフィーの改良を続けていたが、その後、彼が提携した相手がダゲール(Louis-Jacques-Mandé Daguerre: 1787~1851。フランスの画家,発明家。迫真的な幻影を出現させる「ジオラマ」の経営者だったが,写真の発明に没頭し,1839年に最初の実用的写真術,ダゲレオタイプを公表した:大辞林4.0)という人物であった」

「その『ジオラマ』という言葉は、今は、風景や建物などの立体模型を指すと思うんだけど、ダゲールさんのは、違うようね?」

「うん。この『写真とともに百年』では、『照明の変化により実際の風景のような錯覚を起こさせる装置』と書かれている。また、『このジオラマを作るには、カメラを使う必要があったという。』しかし、これだけでは、具体的には分からないが、ともちゃんが言ってくれた風景模型、鉄道模型などのミニチュアとは、違うようだな」

「大辞林では、フランス語でdiorama、『明治中期に流行した見世物の一。遠近法を用いた長大な背景の前に小道具を配し,照明を施したものを窓からのぞき見るもの。実際の光景を見ているような感じを楽しむ。幻視画。ディオラマ。』とあるわ。この背景というのが、カメラ・オブスキュラを利用した風景画なんだと思う。パリ市民の絶賛を博したとされているぐらいだから、たいしたものだったんじゃないの」

「そこで、いろいろと検索してみると、『ひょうご歴史ステーション』というページの中にもう少し、詳しい説明を発見した。
 http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/

このなかにあった2018年8月の学芸員コラムの『透かし絵から情景模型 ジオラマの歴史』と題する文章である。一部を抜粋して紹介する。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1808.html
 『(前略)高さ14メートル、幅22メートルのキャンバスに描かれた絵を、350人もの人間が収容できる暗いホールの中で鑑賞するのであるが、もちろんそれはただの巨大な絵ではなく、特殊な仕掛けが施されていた。そしてそれこそが「ジオラマ」の本質だった。

「ジオラマ(diorama)」という語はギリシャ語のdia(~を通して)とorama(眺め)を組み合わせた造語で、「透かし絵」を意味している。その名のとおり「ジオラマ」には、後ろから光を当てると透過光により絵柄に変化がもたらされる仕掛けがあった。(中略)

1831年に初披露されたジオラマ「シャモニー渓谷から眺めたモンブラン風景」は、格別評判がよく2年間もの長きにわたって公開された。それはジオラマが再現した風景がきわめて真に迫っていたからだが、ダゲールはジオラマにリアリティを持たせるために本物を使用していた。前景にある木こり小屋やモミの木、山羊などは、絵ではなくシャモニーから輸入した本物の木こり小屋やモミの木であり、生きた山羊であった。だが照明などの光学的な効果により実物と絵との境目は巧妙に隠されていた。ジオラマを見た観客は、どこまでが絵で、どこからが自然のものなのか、まったく区別がつかなかったのである。 (後略)』と書かれている」

「これは、驚き。辞書から受ける感じとは、スケール感が違う。なるほど、これならパリ市民も驚くでしょう。今のジオラマは、背景もないし、単なるミニチュア模型になっていて、照明の変化で見る人を驚かせたという昔の面影がなくなってしまったということか。当時の実物を見たくなるわね」

「さすがにフランスにも、ダゲールの頃のものは、残っておらんようじゃ。強いて言えば、博物館などで、背景の前に剥製や人形などの模型を置いたイメージかのう。しかし、見る側のわしらがCGを使った映画などで目が肥えているので、真の感動を生み出すのは、難しかろう。

そうそう、毛色は、違うが、今でも見られるというか、体感できるところがあるじゃないか!

ディズニーランド、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)などのテーマパークだ。あるいは、手近なところでは、夏に各地で開催される『お化け屋敷』がそれに近いかも知れない。中が暗いからな。あれが明るければ、怖くはなかろう」

「コロナさんの関係で、お化け屋敷は、今年は、無理でしょう。密接、密集、密閉に加えて、叫ぶ、泣く、走るだから、お化け役の人達が真っ先に逃げ出すでしょう。まさに、お化けも逃げ出すコロナ様ね。

あとは、2次元だけど、ジブリなどのアニメ映画の精密に描かれた背景画と手前のセル画は、まさにそれね。

ダゲールさんがシャモニー(Chamonix フランスの南東端部,モンブランの北麓にある町。アルプス観光の中心地。1924年第一回冬季オリンピックの開催地:大辞林4.0)からの眺めを作るために、おそらくは、現地でカメラ・オブスキュラを組み立てて、そこに映し出された風景をデッサンして、それを絵画にしたてということなんでしょう。その大きさから考えると、大工さん以外に絵描きさんと長い時間が必要だったと思う」

「そうだな。カメラ・オブスキュラで、それほど大きい像を得るためには、暗箱部分の断面が少なくとも、ジオラマの背景画の大きさ以上は、必要だったろうし、奥行きも同様に必要だ(※)。工数も経費も大きかったろう。そのため、ダゲールは、ニエプスのヘリオグラフィーに興味を抱いたのだと思う。節をあらためて、ニエプスとダゲールのその後を追ってみよう」
※製図の拡大器のような道具を利用して、後日、スケッチを拡大することにより、元となるカメラ・オブスキュラの大きさを抑えた可能性は、あるかも知れない。(2020/7/4追記)
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(3)ダゲールのダゲレオタイプとタルボットのカロタイプ

「ニエプスは、ダゲールからヘリオグラフィー用のレンズを仕入れていたという。それで、ダゲールがヘリオグラフィーを知ることになったのだが、容易にニエプスは、ヘリオグラフィーの秘密を明かさなかった。

しかし、研究資金に行き詰まり、生活にも困窮するようになったニエプスは、ダゲールに協力を求めて、共同研究のための契約を1829年12月14日に締結した。ダゲールが資金を拠出し、ニエプスは、ヘリオグラフィーの技術と研究する労力を提供する内容だったという。

しかし、残念ながら、4年後にニエプスが急逝し、ダゲールは、ニエプスの息子イシドールと共同研究を続けた結果、1837年に『ダゲレオタイプ』と呼ばれる銀板写真術を考案に成功した」

「どんなものだったのかしら?」

「『銀板または銅板に銀メッキしたものを使用する。この銀板をよく磨き、沃素蒸気でいぶし、表面にヨウ化銀を生成する。この銀板をカメラ・オブスキュラに入れて、光を当てる。その後、水銀蒸気でいぶして、感光させ、食塩で定着させる』というものだった。光を当てている時間は、ヘリオグラフィーより、大幅に短縮された。これが初期のダゲレオタイプのあらましだという。

当初は、定着のための脱銀がうまくいかなかったが、イギリスのハーシェル(後述)のハイポ(チオ硫酸ナトリウムの通称。広辞苑第7版)を知り、これを利用してダゲレオタイプの写真術を完成した」

「ようやく、ニエプスさんの遺志がかなえられたわね。下世話な話だけど、儲かったのかしら?」

「先駆者というのは、あまり、報われないことが多いと思うが、さすがに練達の商売人であったダゲールは、議員で学者として知られていたフランソワ・アラゴー(Dominique François Jean Arago:フランスの物理学者・天文学者。フレネルと共に光の波動説を確立。渦電流現象を発見。太陽コロナや彩層も研究。(1786~1853):広辞苑第7版)の知遇を得て、フランス政府にこの発明を買い上げてもらうことに成功した。

ダゲールの発明は、年金6000フラン、ニエプスの遺子イシドールのヘリオグラフィーは、年金4000フランで、その特許をフランス政府が買い上げ、ダゲールのダゲレオタイプの写真術は、1839年8月19日、アラゴーが発表した」

「えーと、この『写真とともに百年』によるとその発表の様子は、こんな感じだったという。
 『パリの科学アカデミーは、立錐の余地がないほど満ちあふれていた聴衆が、しわぶき一つせずにアラゴーの演説に聴き入っていた。アラゴーは、ダゲールの発明について、熱心に説き進め、「ダゲール氏が今回発明したこの驚嘆すべき技術はまことに分かりやすく、むずかしい操作は一つもありません。今お話ししたとおりにやれば誰でも彼がお目に掛けたものとまったく同じ結果になります。この技術には、絵画の知識とか、生来の器用、不器用、いわんや熟練、経験の有無、そのようなことはいっさい関係ありません」と結んだ。』とあるわ。いかに、写真術が世間に驚きを持って迎えられたのかが伝わってくる」

「ダゲレオタイプは、1839年から10年ばかり、隆盛を極めたが、1851年に『コロジオン湿板法』が出現すると、漸次、忘れられていった。しかし、ダゲレオタイプは、近代の写真術の基礎であり、ニエプスのヘリオグラフィーと比較して、格段に優れたものであった。このため、ダゲールは、写真の祖として、いまもなお尊敬されているのじゃ」

「そうでしょうね。写真は、人物や風景以外でも、科学、農業、工業、軍事等あらゆる面での正確な記録に役立つからね」

「複雑な操作や熟練が必要であれば、限られた人しかできないので、様々な分野で活用することが難しい。定められた操作を守れば、誰にでもできるというところが、普及のためには、必要だからな」

「ほぼ、同時期にダゲレオタイプに刺激されて、イギリスのタルボット(William Henry Fox Talbot:1800~1877:イギリスの発明家・写真家。ダゲレオタイプと並ぶ最初の実用的写真術,カロタイプを考案。1844年から46年に史上初の写真集といわれる「自然の鉛筆」を刊行した。広辞苑第7版)が『カロタイプ』という写真術を発明したそうね。

カロタイプは、銀板の代わりに紙を使うところが特徴だった。タルボットが1841年6月10日に英国王立協会で発表した。紙に硝酸銀の水溶液を塗り、暗いところで乾燥させる。次に紙をヨウ化カリウムの水溶液に浸して、ヨウ化銀を生成させて、やはり、暗いところで乾燥させる。この紙を硝酸銀、没食子酸、酢酸の混合液に浮かばせてから、再び、暗いところで乾燥させる。

こうして処理した紙をカメラに入れて露光し、再び、暗いところで、硝酸銀、没食子酸、酢酸の混合液をブラシで露光面に塗って、現像し、ついで、臭化カリウム水溶液で定着する。カロタイプの感光性は、比較的高く、夏の強い日差しでは、F15ぐらいのレンズを利用して、1分ぐらいの露光でよかったという。

カロタイプの特徴は、もう一つあり、前記のように作られた半透明な用紙は、ネガ(白黒反転した状態)なので、再度、感光性のある紙に密着させて露光し、ポジを作ることができる。1枚のネガからポジは、何度でも、作ることができる点が優れていた。この辺は、後年のフィルム写真と同様なイメージだわね」

「そうだな。ダゲレオタイプは、高価な銀板(または銅板に銀メッキ)を使う上に、1回の撮影で、1枚の写真しかできなかったからな。なお、カロタイプは、タルボットに敬意を表して『タルボタイプ』と言われるようになった。ただ、カロタイプ(タルボタイプ)も湿板写真術が出現すると廃れていった。次節では、その湿板写真術を概説しよう」
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(4)アーチャーらの湿板写真

「イギリスのアーチャー(※)らによって、湿板写真術が発明された。アーチャーは、ドイツのベトガー、スイスのシェーンバイン(Christian Friedrich Schönbein:1799~1868:ドイツの化学者。オゾンを発見。また,綿火薬を発明。大辞林4.0)とともにコロジオン(低硝化度の硝化綿をアルコールとエーテルの混合液に溶解したやや粘性を持つ液体)などをガラス板に塗布することにより、ダゲレオタイプやカロタイプよりも優れた写真術を開発した。

※アーチャー:Frederick Scott Archer (1813–1 May 1857) was an English photographer who is best known for having invented the photographic collodion process which preceded the modern gelatin emulsion. He was born in either Bishop's Stortford or Hertford, within the county of Hertfordshire, England (United Kingdom of Great Britain and Ireland) and is remembered mainly for this single achievement which greatly increased the accessibility of photography for the general public.
 https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Scott_Archer、より。

(F・アーチャー(1813年~1857年5月1日)、写真コロジオン処理を発明したことで最も有名である英国のカメラマンは、最新のゼラチン・エマルジョン塗料に先行した。彼は、ハートフォードシアの郡の中で、どちらの司教のStortfordまたはハートフォード・イングランド(グレートブリテン‐アイルランド連合王国)で生まれて、大いに一般市民のために写真撮影のアクセスしやすさを増やしたこの一つの業績のために、主に記憶されています。:機械訳 )2020/6/21追記。

さて、あらましは、次のようなものであった。よく乾燥した綿火薬(硝化綿)を硫化エーテル、33%のアルコールに溶解してコロジオン液を作る。コロジオン液にヨウ化銀を溶解したアルコール液とヨウ化鉄を溶解したアルコール液を混合し、ガラス板に流し、これを硝酸銀の水溶液にくぐらせて、湿ったまま、カメラに入れて撮影する。現像液は、無水没食子酸液、定着は、ハイポを使用した。その後、酸性硫酸鉄を現像液に、定着に青酸カリを用いた。

この湿板法は、濡れている間に撮影するという不便さは、あったが、ダゲレオタイプと同様に鮮明な画像を得られ、ガラス板の下に黒いビロードを敷いて明るい場所で見れば、ダゲレオタイプと見まちがうほど似ていて、ダゲレオタイプより低価格であった。また、カロタイプ(タルボタイプ)と同様にネガ画像をガラス板に得られるため、任意枚数のポジを作れる利点があった。

ダゲレオタイプは、鮮明であるが、高価であり、カロタイプ(タルボタイプ)は、低価格であったが、画像が不鮮明だった。両者の欠点を補い、長所を備えていた湿板写真術は、またたくうちに、広がった」

「でも、アーチャーは、恵まれなかったのね。特許を取っていなかったため、1857年にロンドンの片隅で貧窮のうちに亡くなったという」

「アーチャーの名前が広辞苑などの辞書に載っていないのは、そのような理由があったのだな。ニエプス、ダゲール、タルボットは、載っているのにな。残念なことだ。(イギリスのウィキペディアに掲載されていたので、前述のように注釈を追加した。2020/6/21

なお、イギリスの天文学者ハーシェル(John Frederick William Herschel:1792~1871:イギリスの天文学者、父は、Frederick William Herschel(1738~1822:イギリスの天文学者)。恒星の等級と明るさとの関係を研究した。また,南半球で星数調査を行い,統計星学の先駆者ともなった。広辞苑第7版)も、写真の発展に大きな貢献をしている。

青写真法、昇汞補力法、前述の定着剤ハイポの発見の他、写真用語のネガティブ(Negative:陰画)、ポジティブ(Positive:陽画)、フォトグラフ(Photograph:写真)、フォトグラフィー(Photography:写真術)という言葉もハーシェルが創案した。

湿板写真術は、湿った状態でカメラに装着しなければならないという難点があるため、乾板、そして、フィルムへと開発が進んでいく。しかし、写真史が長くなってきたので、それらは、別の機会に譲るとして、最後に日本への写真術の渡来とその後の普及について、記載するとしよう」
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(5)写真術の到来と島津斉彬

「ダゲレオタイプ(銀板写真)の写真機が日本に到来したのは、幕末の天保(1830~1844)11年頃という。パリの学会でのアラゴーの発表(1839年)から、約2年という速さであった。入手したのは、薩摩藩とつながりの深かった『上野俊之丞』(薩摩藩の御用商人とも江戸の時計師ともいう)という。彼が手に入れた写真機が日本で最初の写真機であった。俊之丞は、この写真機の取り扱いと写真術を習得し、薩摩藩藩主『島津斉彬(なりあきら)』らを撮影した。

さて、斉彬だが、写真術の習得を命じた家来にこう諭したと書かれている。
初めてこの術を発見するや、その労苦如何にぞや。今、これを研究する、また、容易にあらず。人々いわん、この術遊戯玩弄の一瑣なりと。これ誤れり。この術は父母妻子の容姿を百年後に残す貴重の術にして実に人事中主要の技術なり。深く究め長く修めてその術を極むべし。あに一時の遊技とすべきものならむや

大意は、こうじゃろう。『この写真術の発明がどれほど大変であったかと感じ入る。今、おまえ(家来)が、この技術を習得するのも、容易なことではないであろう。世間では、写真術は、所詮、遊びではないかと言う者もいる。しかし、それは、間違っている。写真術によれば、父母や妻、子ども達の姿を後の世までも伝えることができる。これは、人が生きていく上で、大変重要な技である。この技を深く習得し、長く伝えるべきである。このことを肝に銘じ、まちがっても、一時の遊芸にしないように心がけるが良い。(分かったな)』と。斉彬の見識の高さが伺えるエピソードじゃな」

「ああ、大河ドラマ『篤姫』でも、斉彬役の高橋英樹さんがそんな感じのセリフを仰る場面があったような気もするわ」

「当時は、当然ながら、ごく一部の大名や商人、学者などが実物や写真に触れられただけで、庶民が見るものではなかった。なお、上野俊之丞が習得したダゲレオタイプの写真術は、後世に伝わらなかったようだ。

そうした中で、幕末から明治・大正と活躍した日本人写真師の先駆けは、『下岡蓮杖』氏とされている」
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(6)日本人写真師の祖 下岡蓮杖

「下岡蓮杖は、元々、絵師であった。江戸の島津家にて、写真を初めて見て、その精緻さに衝撃を受けたという。その後、写真術に興味を持ち、アメリカ公使ハリスの秘書のオランダ人ヒュースケンからその手ほどきを受けた。次に、横浜で写真館を開業していた写真師ウンシンなる者より、湿板写真術を教わった。ウンシンが写真館をたたみ、帰国する際、蓮杖にカメラなどを譲った。

蓮杖は、大いに喜び、1862年(文久2年)、横浜の野毛に写場(写真を撮る場所)を開いた。明治以前は、写真を撮られると魂を抜かれるなどの迷信があり、容易にお客が入らなかったという。蓮杖は、夜逃げを考えるほど困窮したというが、少しずつ外人客などが訪れ、やがて、横浜 弁天町に移転し、明治となる頃から、ようやく日本人の客も増えて生活が安定したという。

蓮杖は、写真館の傍ら、様々な輸入物資を扱い、商売を成功させていった。その後、東京の浅草に移転し、写真館は、他人に任せて、写真の背景画に腕を振るった。蓮杖が亡くなったのは、1914年(大正3年)、93才の長命だったという。

こうして、次第に日本人の写真師が増えていき、地方でも、写真師としての修練を積んで、写真館を営む者も現れた。これらの人達が町の写真屋さんの走りとなったのだな」

「この本には、『女写真師のはじめ』という興味深い記事も載っていたわ。各地で写真師が増えて、こんな俗謡も新聞に載るほどだったという。
 『朝は早よからマシネを抱へ、テーキホトグラフの程のよさ』、
 と写真師のかっこ良さを謡っている。この、マシネ=Machine:写真機器、テーキホトグラフ=Take Photograph:撮影の意味だという。

へー、写真師=今のカメラマンは、明治の人達の憧れの職業だったことが窺えるわね。ところで、そんな写真師が使うカメラや薬品などは、全部、輸入品だったんでしょ?」

「そうだな。幕末から明治にかけて、カメラや薬品などすべて輸入品だ。もっとも、明治初期の頃から、輸入品のカメラなどを解体し、暗箱などは、指物師が木で作り、レンズなどは、輸入して、組み合わせるなどして、徐々に国産化が進んでいく。

並行して、乾板、ついで、ロールフィルム(ジョージ・イーストマン:コダックの創業者。1880年(明治13年)にアメリカのロチェスターで乾板の製造に着手。1885年(明治18年)、紙フィルムの製造。1889年(明治22年)、透明なロールフィルムを開発。前年の1882年にコダックカメラを製造)が使われるようになった。フィルムが登場したことで、その後、フィルム映画へとつながっていくのだ」
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(7)小西本店の創業

「ところで、この『写真とともに百年』は、社史なんだけど、その会社が『小西六写真工業』なのね。ご年配の方は、『六櫻社』や『さくらフィルム』の方がなじみがあるかも知れないわ。

その創業は、明治5年(1872年)10月にさかのぼる『小西本店』がその前身という。創業者の『杉浦六右衛門』は、薬種問屋『小西屋六兵衛店』を譲り受けた五代目小西屋六兵衛の息子だった。六三郎は、幼名とのこと。襲名して六右衛門になった。ちなみに、薬種問屋というのは、江戸時代に漢方薬の材料=生薬、長崎からの西洋薬、硝子機材などを取り扱っていたお店ね」

「六三郎は、明治5年(1872年)10月に写真の撮影を体験して、自身の写真を手にしたという。その写真が前掲の本に載っているが、羽織袴姿で、いかにも才気鋭い商人のように見える。この『写真』に強い衝撃と啓示をうけた六三郎は、写真機材や石版印刷に必要な石版の輸入・販売等を行うことになった。

 小西六の創業者:杉浦六右衛門(小西六三郎)。『写真とともに百年』より。

小西本店⇒小西六本店⇒合資会社小西六(大正10年(1921年))⇒株式会社小西六(昭和11年(1936年))⇒小西六写真工業株式会社(昭和18年(1943年))、というように発展していった。第2次大戦の激化のため、軍部の指示により、小西六は、小西六写真工業と改称し、販売・輸入部門を他社に売却し、フィルム・写真機材の製造に専念することになった。カメラや写真フィルム等は、重要な軍事品でもあったからな。

この本では、明治初期に呱々の声を上げた小西本店が海外における写真技術やカメラの発展を背景に時代とともに成長していく様を豊富なエピソードとともに記している。特に、ライバル商店との熾烈の競争や協力、写真展や写真講習会の開催、関東大震災、フィルムやカメラの国産化への厳しい道程、第2次大戦と戦後の復興などを記し、一企業の歴史に留まらず、比較的公平な立場から日本の写真界の歴史をたどることができる貴重な一冊となっている。

なお、ともちゃんが言った『六桜社』は、もとはと言えば、写真乾板の国産化のために、小西本店が明治35年(1902年)に新宿区淀橋に設立した別会社だった。後に統合されて、『淀橋工場』といわれるようになった。

※上の写真は、1955年(昭和30年)頃の淀橋工場の仕事始めの記念写真。

この淀橋工場は、第2次大戦後、東京都が行った西新宿の再開発事業への協力のため、昭和38年(1963年)に八王子に移転して、『八王子工場』と呼ばれるようになった。淀橋工場の跡地は、現在、新宿中央公園などになっている。
 下写真は、1968年(昭和43年)頃の新宿中央公園、


 その東側で造成中の高層ビル建設予定地だ」


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(8)東郷平八郎の双眼鏡と小西本店

「小西本店では、写真機材、カメラ以外にも望遠鏡や双眼鏡などの光学機材の輸入も行っていた。この本によれば、『明治33年(1900年)頃から、望遠鏡、双眼鏡をドイツのツァイス、イギリスのロスから、少量ずつ輸入していたが、日露戦争開戦直前、ツァイスから6倍・8倍の軍事用双眼望遠鏡各50個、5倍・10倍を5個、計55個を仕入れて、陸海軍人に売りさばいた。これは大いに当たり、好評は好評を生んでたちまち売り切れとなり、ツァイスに次々と電報で注文し、明治37年(1904年)6月頃までに200個以上を売った』という。

※日露戦争『1904年(明治37)2月から翌年にかけて,満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが,軍事的・財政的に限界に達し,ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み,両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれて,明治38年(1905年)九月ポーツマスで講和条約を締結した。』(大辞林4.0)

それらの双眼鏡の1個が海軍機関大監(機間大監=きかんだいげん=軍艦の機関を扱う職員の職名で、大佐相当:ウィキペディアの『海軍機関科問題』を参照)関重忠を通じて、連合艦隊司令長官の東郷平八郎に渡ったという。これは、ドイツのツァイス製双眼鏡(5倍・10倍兼用)であった。

しかし、実は、この双眼鏡には、先約者がいたという話も書かれている。先約したのは、佐世保局気付第6艦隊気付水雷艇第56号乗組の海軍中尉『大野甚造』であった。大野は、代金まで支払っていて、明治37年(1904年)7月の手紙で、小西本店に苦情を申し入れている。そのとき、すでに双眼鏡は、東郷の手元に渡っていたので、大野は、長官のところにあるのは、私のものであるので、貴店の責任で、東郷長官から返還してもらい、私の方に送って欲しいと強く訴えている。

これは、事の理が大野にあるので、店主の杉浦六三郎も大変な苦境に立たされた。しかし、すでに開戦中であり、仕方がないので、懇意にしていた海軍機関大監 関重忠に仲介を依頼して、大野甚造に泣きついて、ようやく了解してもらったという。六三郎は、生前、あんなに困ったことは、なかったと述懐していたという。

もっとも、司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、この双眼鏡の出自が異なっている。(後述)

ともあれ、東郷が日露戦争後に、双眼鏡の修理を小西本店に依頼したのは、確かなように思える。小西本店では、修理依頼品をドイツへ送ると時間がかかるので困ったが、店の若い技術者『平岡貞』が修理し、修理品を東郷に直接届けた際、店主の六三郎が記念にと色紙の揮毫を依頼したという。

揮毫してもらった色紙は、2枚あり、1枚は、『守徳』として、六三郎あて、これは、惜しくも、大正12年(1923年)の関東大震災で本店社屋とともに焼失してしまったが、もう1枚の平岡あての『寛裕』は、今も水戸の常磐神社に残っていると書かれている」

「司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』(文藝春秋版 2009年7月新装版第4刷)の第6巻131ページに双眼鏡の話が出ているわ。

東郷の胸元にぶらさがっている双眼鏡のことはすでに何度かふれた。かれの双眼鏡だけがツァイス製の高倍率のプリズムで艦隊のどの士官のめがねよりよくみえた。「明治37年2月、日露開戦のとき、カール・ツァイス製のプリズム双眼鏡がわが国の軍部において、初めて兵器として採用されたのである。(後略)」と、片山三平氏がその著書『測量機の発展史』で述べている。が、”初めての採用”、とはいえ、実際にはこの双眼鏡は東郷と、もうひとり駆逐艦乗りの塚本克熊という若い中尉がもっていただけであった。(後略)

さらに、この文に続けて、片山三平氏(掲載当時の昭和47年:氏は86才)の話として、『そのころ私は玉屋で寝起きしてしておりました。東郷さんのお屋敷まであの双眼鏡を届けに行ったのは私でした」と語っておられる』とされているので、片山氏の認識では、自身が玉屋から双眼鏡を東郷さんに届けたと思っていたことは、確かね。

この玉屋というのは、銀座にあった眼鏡店で、片山氏は、明治33年から小僧として、奉公し始めたとある。だけど、こうなると、先の小西本店から海軍に納められた品の一つが東郷長官に渡ったという話や先約していたという大野甚造との逸話と食い違ってきてしまうわね」

「たしかにな。上述のように、司馬氏が語っておられるように『坂の上の雲』に東郷の双眼鏡のことは、何度か出てくる。たとえば、第3巻の54ページに『東郷は、艦橋に立っていたが、かれの双眼鏡が最初に港口の敵艦をとらえた。ついでながら、かれのもっている双眼鏡だけが日本海軍でただ一個のツァイス製の八倍という最新のもので、載っている島村参謀長や秋山真之はいずれも二倍程度の旧式双眼鏡しかもっていない』とある。これは、日露開戦時(明治37年(1904年)2月)に連合艦隊主力が、旅順(『中国,遼寧省大連市の一地区。遼東半島南端にあり,黄海に臨む』(大辞林4.0))港にいるロシアの旅順艦隊を攻撃しようとしている際の叙述である。

ちなみに、開戦前のロシア艦隊は、第1艦隊の極東艦隊(旅順、ウラジオストック)と第2艦隊のバルチック艦隊(黒海)と3個所に分かれていた。これにあたる日本の連合艦隊は、1組しか存在しなかったので、まずは、主力艦隊で、極東艦隊を2つの港に封じ込め、早期に無力化を図る。それにより、大陸に渡る陸軍や弾薬、食糧の輸送に支障がでないようにする必要があった。

後に起こった日本海海戦(1905年(明治38)5月27・28日,ロシアの派遣したバルチック艦隊と,東郷平八郎の率いる連合艦隊が日本海の対馬沖で交戦,日本側の圧倒的勝利に帰し,日露戦争の戦局に決定的影響を与えた。大辞林4.0)は、ロシアがバルチック艦隊を旅順(旅順陥落後は、ウラジオに入港させる予定)に向けて出航させる作戦に出たために必要となった。

実は、旅順艦隊との攻防は、その約1年半後の日本海海戦ほど、日本海軍の圧倒的勝利とは、ならず、多くの犠牲を払うことになった。ここでは、その詳細には立ち入らないが、ごく、大まかに言えば、『黄海海戦』では、外洋に出てきた一部の旅順艦隊を撃沈し、撃沈を免れた2隻が廃艦同様の状態でウラジオストックにたどり着いている。残りの旅順艦隊は、再び、旅順湾に戻り、巨大な要塞砲に守られて、停泊しつづけることになった。

このため、連合艦隊は、内地に向けて戦艦の修理に戻ることができなかった。(※大きな被害を受けた艦船は、修理のため帰国)、このまま、バルチック艦隊を迎え討つことになれば、日本側の大敗は、必至であり、大陸に渡っている陸軍への補給は、途絶え、壊滅してしまう。それを避けるためには、旅順要塞、特に海軍が主張した旅順湾を見下ろせる203高地の攻略が必須となったのじゃな」

「そのあたりは、『合理的と云うこと』(2013年7月のご挨拶)でも、取り上げているわ。

陸軍の第3軍が203高地を占領するに至り、203高地頂上からの観測により、旅順湾上に残存する旅順艦隊の艦の位置が正確に測定でき、要塞外からの長距離砲の砲撃により、ほとんどが沈められた。これにより、連合艦隊は、旅順湾の封鎖を終了し、修理や補給のため、第1艦隊は、呉へ、第2艦隊は、佐世保に戻った。開戦からおよそ、約10ヶ月後のことであった。内地に戻った東郷や一部の幕僚らは、一時、東京に戻った。ということだったわね」

「そうだったな。東郷達は、戦艦の修理や補給を終え、明治38年(1905年)2月に大陸の鎮海湾(現在の中国浙江省杭州市)に向けて、再度、出航した。従って、東郷らは、明治37年の末から38年の2月の初めまで、数ヶ月、内地にいたということだ。

さて、東郷の双眼鏡に話を戻すと、司馬氏の記述では、前述の個所と他にも、8倍の双眼鏡と書かれている。一方、東郷の双眼鏡は、『記念館三笠』(公益財団法人 三笠保存会)に保存され、展示されているということじゃ。
 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

上記HPには、東郷の双眼鏡についての直接の記述は、ないが、以下のHPに見学した方の記事があった。
 『軍艦三笠 考証の記録』(15)東郷平八郎の双眼鏡
  http://blog.livedoor.jp/studio120/archives/8042924.html
 『ネイビーブルーに恋をして』の「記念館三笠見学~東郷長官と塚本中尉の「ツァイス」」
  https://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/924a1a14dd57bb71406a78c44858f831 

これらの記事を拝見すると、東郷の双眼鏡が、『5倍・10倍兼用のツァイス製双眼鏡』であることは、確かだ。

後者のブログでは、さらに詳しく、『明治36年に”小西六”(のちのコニカ)の杉浦氏がドイツから購入し、その三台の一つが東郷大将に贈呈された一台約350円 これは当時の月給の一年半分に相当する「トウゴウ・モデル」はプリズム式、5倍/10倍、接眼部はダブルの5×24、10×24のコンバーチブルタイプ当時はこれを「角型眼鏡(つのがためがね)」と呼んでいた』とあった」

「なるほど、5倍・10倍兼用のものというと、ツァイスから5個を仕入れたという『写真とともに百年』の記述と符合するわね。記述では、その前から少量ずつ輸入していたという。

ただ、3台をドイツから六三郎さんが購入し、東郷さんらに贈呈したというのは、この普及版の本には、出てきていない話だけど、日露戦争直前に計55個(6倍、8倍のもの50個と5倍・10倍兼用5個)を輸入したとあるので、その前にサンプルとして数個を購入するというのは、あり得る話ね」

「この『写真とともに百年』は、『坂の上の雲』が発表された後に書かれている。そのため、その差異について、『司馬遼太郎氏の近著『坂の上の雲』第6巻には、東郷長官の双眼鏡は前記と異なる経由で入手したように述べてあるが、真相は、以上の通りである』とかなり自信を持って記載されている。もし、東郷さんが、8倍の双眼鏡を玉屋さんから購入したことも、また、事実とすれば、5倍・10倍兼用の双眼鏡を入手する前の話なのかも知れないな。

なお、司馬氏が東郷の双眼鏡のことに、度々、言及している理由であるが、『合理的と云うこと』にも記載したように、『坂の上の雲』には、海軍の合理性が世界水準の通信機や下瀬火薬などに現れていたと書かれている。司馬氏は、それらと同様に、東郷のツァイス製の最新式双眼鏡も、その合理性の象徴の一つと捉えていたのかも知れない」

「そうね。あとは、1回目の出航(明治37年2月)と2回目の出航(明治38年2月)とで、東郷さんの双眼鏡が新しい製品と入れ替わった可能性も、わずかには、残るでしょう。でも、私なら、使い慣れた方を持って行くでしょう」
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(9)学校でアルバムを作る訳

「では、ここで、クイズじゃ。日本の学校では、どうして、卒業アルバムを作るのかな?」

「えーー!。チコちゃんに叱られてしまいそう。言われてみると、不思議ね」

「昔は、普通の家庭では、子どもの写真を撮る機会が少なかった。そのため、せめて、学校の修学旅行や卒業時の写真を本人や親御さんのために記念に残してあげたいという動機から始まったのではないのかな。

※上は、幼稚園の卒業写真。前列左端は、筆者。後列右は、園長先生、その左は、担任の堀先生。

先の島津斉彬の言葉などを考えても、儒教の教えが背景にあったことは、間違いない。明治になって、義務教育を始めるにあたって、政府は、江戸時代に寺子屋などで教えられていた儒教の精神を受け継ぎ、また、必要に応じて、一部を換骨奪胎して、忠君、愛国とともに父母に孝養を尽くす、妻子を愛するというような徳目を教えていきたかったと思われる。

そこで、わしの想像だが、当時、庶民が気軽に写真館で子どもの写真の撮影などできないだろうと考え、学校で写真アルバムを作るというアイデアが生まれたのでは、ないかと思う。

明治の早い時期から卒業アルバムが作られている。その理由としては、アルバムは、印刷物であり、全卒業生分が同じもので、当時としては、安く上がり、かつ、校歌や氏名・住所などの文字情報も印刷して掲載できる利点が大きかったであろう。また、背景には、子どもの死亡率が高かったこともあるだろうし、戦争や結核などの病気で若くして亡くなる人も多くいたこともあるんじゃないかな」

「なるほどね。卒業アルバムを作るようになった理由は、ネットを検索しても、はっきりしたことが分からないわね」
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5.鏡にまつわる話

(0)鏡の製造の歴史

鏡について、写真と同様に歴史をさかのぼると大変ですので、その製造の歴史について、簡単に触れて、その後、鏡にまつわる、二、三のエピソードを挙げるに留めましょう。

金属鏡については、日本では、3世紀頃に中国から渡来したと考えられています。それまでは、水面に映る水鏡に頼っていたのでしょう。金属の鏡の多くは、銅製であり、さびが出やすいので、時々、表面を研ぐ必要がありました。

より映りを良くするには、錫メッキを行います。平安後期になり、錫メッキを施した鏡が作られたことが分かっています。さらに、鎌倉時代に入ると、鏡のメッキを行う専門の職人も現れましたが、庶民には、なかなか手が届かない品物でした。しかし、江戸時代に入ると、一般の家庭でも金属鏡が使われるようになりました。

一方、ガラス製の鏡は、フランシスコ・ザビエルが1575年に日本にもたらしました。その後、ガラス鏡の製造は、定着しませんでしたが、1740年代から1800年代にかけて、大阪近郊で製造されるようになりました。これを『鬢鏡(びんかがみ)』と言い、大(20cm角)が年産3000枚、小(5~6cm角)が4万枚と言われます。
※実物の写真は、こちらのページに載っていました。Rika_Joppari氏のブログ記事『鬢鏡』
 https://jopparika.exblog.jp/16164288/

板ガラス製の鏡に移行したのは、板ガラスの輸入が始まった明治に入ってからでした。

西洋では、紀元前2800年頃にエジプトで、銅の鏡が作られています。ガラス鏡は、1317年にイタリア・ベニスのガラス職人が、ガラスを使って鏡を作る方法を考え出しました。しかし、大量生産は、難しく、広く一般に使われるようになるのは、1835年、ドイツのフォン・リービッヒがガラスの上に硝酸銀溶液を沈着させる方法を開発した後のこととなります。

参考URL
『東京都鏡商工業協同組合』 http://www.mirror.or.jp/index.htm
『よく分かる鏡の世界』 http://www.ywkagaminosekai.com/
(2020/6/22追記)

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(1)卑弥呼の鏡、八咫鏡(やたのかがみ)など

「古代の鏡と言えば、なんと言っても、『魏志倭人伝』に書かれた、魏の国王が邪馬台国の女王『卑弥呼』に贈ったという鏡、いわゆる、卑弥呼の鏡じゃな」

「そうね。倭人伝には、贈られた銅鏡は、100枚と書かれている。ま、100枚というのは、たくさんという意味かも知れないけど、いずれにしても1枚や2枚ではなかったのでしょう。『魏志倭人伝』については、『目力(脳が見る、百見は一写に及ばず、他人の空似、せん妄) 』(2018年7月)で触れているわよ」

「そうじゃな。各地の古墳が発掘されて、銅鏡も出土している。大陸から渡ってきたものと日本で作られたものの2種類があるということだ。詳細は、ウィキペディアの『銅鏡』などを参照して欲しい」

「次に挙げるとすれば、『八咫鏡』(やたのかがみ)でしょう。三種の神器(剣、鏡、勾玉)の一つなんだから」

「これも、ウィキペディアからの引用で気が引けるが、神話では、ニニギノミコトが高天原から降臨する際、天照大神より、この鏡を私と思い、祀るようにとのお言葉があったということじゃ。そのため、八咫鏡は、伊勢神宮に祀られている。なお、宮中の賢所には、その鏡の形代(写し)が置かれている。

また、『日本書紀では、『八咫鏡』の製作に先立ち、『日像鏡』(ひがたのかがみ)と『日矛鏡』(ひぼこのかがみ)が作られたと書かれている。これらは、天照大神の前霊(さきみたま)として、『日前神宮』、『國懸神宮』にそれぞれ祀られているとされているが、これまで、調査されておらず、実態は不明』とのことじゃ。(ウィキペディア)

なお、日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮(くにかかすじんぐう)のHPの御由緒によれば、
日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。(後略)』ということじゃ。
 日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮(くにかかすじんぐう)(和歌山県和歌山市秋月365)
 http://hinokuma-jingu.com/」

「えーと、八咫鏡というのは、どのくらいの大きさかしら?」

「ま、公開されていないので、正確には、分からない。火災で何度か焼けた可能性もある。焼けても作り直しただろうが、大きさは、合わせても、細かい文様などは、初代とは、異なっている可能性はある。

ただ、鏡を納める容器の大きさなどから、大体、直径が約50cm程度の銅鏡と考えられている。ウィキペディアによれば、『大型内行花文鏡』と同様のものではないかと原田大六がその著書に記しているという。

その大型内行花文鏡は、福岡県糸島市の『平原遺跡』で出土して、国宝に指定されている直径46.5cmの鏡だ。すべて壊れた状態で出土した鏡40面のうち、5面が大型内行花文鏡とされ、4面が糸島市の『伊都国歴史博物館』に、残りの1面は、『九州国立博物館』に展示されているということじゃ。
 伊都国歴史博物館
 https://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/index.html
 九州国立博物館
 https://www.kyuhaku.jp/」

「ああ、その伊都国博物館や邪馬台国の話は、2019年5月10日の『諸説あり!邪馬台国スペシャル』として、BS-TBSで放送された番組の中にも出ている。平原(ひらばる)遺跡からは、多数の鉄のやじり、『硯』(すずり)とおぼしきもの、杉の木で作られた組み立て式の文机が多数見つかっている。中でも、硯は、島根県の遺跡で一つ、出土しているだけで、畿内では、まだ、見つかっていないそうよ。机は、その年代が3世紀のものということで、卑弥呼の時代と重なるという。また、木や竹に書いた文字を削って消すための小刀も出土しているのには、驚くわ」

「わしも、そのビデオを見返してみた。前述の割れた鏡40面とともに平原遺跡内の1号墓から見つかった、綺麗なオレンジ色のメノウの首飾り、神秘的な形の青い勾玉(まがたま)、古代中国で高貴な女性が耳につけたという耳飾り(耳璫=じとう)を目にすると、それらが大陸からの渡来品であることはもちろん、女性が身につけた品であろうことから、1号墓に埋葬された人物が卑弥呼であっても、おかしくないと感心した。

また、その銅鏡であるが、前述のとおり、計40面がすべて割れた状態で埋葬品とともに見つかったということだ。おそらく、故意に割ったと推測され、死者の蘇りを防ぐためであろうと解説されていた」
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(2)西遊記や封神演義に現れる鏡

「中国の伝奇小説については、2019年12月の『今年の漢字は「想」か?』で取り上げた。これらの小説の書かれた時期は、新しいが、鏡がどのような機能を持つのがふさわしいと考えたのかが分かる」

「『西遊記』では、悟空が取経の旅に出る前に、天界を相手に大暴れする場面で登場している。その鏡は、『照魔鏡』という名前で、妖怪を見つけ出すレーダーのように使われている。戦いの最中に姿を消した悟空を天兵達が捜しあぐねるなか、李天王に『照魔鏡』で宇宙を照らされて、悟空が二郎真君に化けて、ちゃっかりと、その屋敷に乗り込んでいるのが分かってしまうのね」

「なるほど。鏡が妖怪の正体だけでなく、その所在まで、突き止めるというのは、すごいな。レーダーや電波探知機のような機能を持たしているのだな。

では、『封神演義』では、どうかと言うと、似た物として、『照妖鑑』(しょうようかん)という宝貝(ぱおぺい=道具)が登場している。第70回『準堤道人が孔宣を収める』に出てくる。準堤道人とは、西方の仏弟子のひとり、孔宣は、孔雀の化身ということだ」

「封神演義をかいつまんで話すと、天界、仙界、人界、の3つの世界に加えて、神界という新しい世界を作り、出来過ぎた人間や出来のよくない仙人を神界に入れて、それぞれ神に封ずる、という壮大な計画(それを封神と言う。神に封ずるためには、殺さなくてはならず、その殺害予定名簿が封神榜(ほうしんぼう))と実行過程を描いた物語なのね」

「仙界で解決できないときは、西方世界の力を借りようというのが、正統派の下心なんだな。よって、365名の出来過ぎた人間や出来損ないの仙人は、封神の運命(天数)からは、とうてい、逃れられない仕組みとなっている」

「ははは、相手を如何にだまして、有利な立場に立つか、というのが、戦いに勝つ基本であることがよく分かるわ。さすが、孫子の兵法の国ね。正統派には、戦略眼があり、情報収集力もあるのに対して、異端派は、バラバラで常に目先のことしか考えないので、負けてしまうのね。ところで、孔雀がどうしたって言うの?」

「孔宣という名前の武将が敵役として登場しているのだが、正体が分からない上に無敵だ、という場面で、正統派の崑崙十二大仙のひとりである『雲中子』が作った宝貝(ぱおぺい)『照妖鑑』を使って、孔宣の姿を映してみても、虹のようなもやが写るばかりで正体がわからない。その上、仙界の大仙達が自身の宝貝(ぱおぺい)を使って総がかりになっても、孔宣には、かなわないのだ。

さあ、困ったというところで、西方の準堤道人が(もはや、呼ばなくても勝手に)現れて、孔宣の頭を払子で、はたき、あっけなく孔雀の原形を顕して、なんなく西方に連れ帰り、めでたしめでたしと第70回が幕を下ろす」

「じゃ、孔宣は、封神されないんだ」

「そうなんじゃ。孔雀は、仏教と縁があるから西方に移って助かることになっている。封神演義の作者は、いつも、敵役が何らかの手段で殺されて、その魂が封神台に収まる、というシナリオが続くと読者が飽きると考えて、意外な強敵、驚きの結末を用意している。だが、結局、何回も繰り返されるので、パターン化されてしまうんじゃな」

「えーと、照妖鑑の鑑という文字は、鏡ではないよね?」

「文字は、たしかに違うな。妖怪図鑑、恐竜図鑑というようなものか。照妖鑑=センサー+ディスプレイ+データベースと言えるかも知れない。

なお、鏡とハッキリ書かれている宝貝もある。それは、いくつか登場するが、異端派の『一君九聖』の一人『金光聖母』が金光陣で使った21面の鏡で、日光のエネルギーを有しているという。その光が当たると一瞬で当たったものは、焼かれてしまうものじゃ。SFに出てくるレーザー銃とでも言うべきものだな。これは、第46回の『広世子が金光陣を破る』に出てくる」

「なるほど。崑崙十二大仙の一人の『広成子』は、金光陣を破るに当たって、ちゃっかりと、『八卦紫寿仙衣』という服を着ているのね。その中で首をすくめれば、鏡からの光線が当たっても、へっちゃらなの。そして、金光聖母が再度、鏡から金光を発する瞬間に『番天印』という広成子の宝貝(放った者の命令通り相手を打ち砕く印鑑)で、金光鏡をたたき割り、金光聖母の頭を打ち砕いてしまう」

「そのとおり。上には、上の強力な宝貝がある、というのが、封神演義の世界だな。このように、金光聖母は、自身の金光鏡を無敵と信じる余り、それが破られた時の次なる攻撃の用意をせず、また、敵の武器への防備も怠った。そのため、あっけなく、命を落とし、封神されてしまった。まさに、『負けに不思議の負けはなく、勝ちに不思議の勝ちもなし』じゃな」

「おじぃさん、勝ちに不思議の勝ちがあり、じゃなかったっけ?」

「そりゃ、言葉のあやじゃろう。負けた相手からすれば、負けた理由があったはずだからな。戦いに勝つためには、相手の武器を上回る武器を手に入れ、相手の武器を防ぐ防備を手に入れる、という現代に通じる合理的な思想を感じる。この封神演義は、孔子一派に攻撃されて、黙殺され続けたにもかかわらず、中国の民衆に愛されて、今日まで生き残った。そこには、血湧き肉躍る物語としての面白さも当然あったが、根底には、中国民衆の合理的志向があったからではなかろうか」
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(3)仏像と鏡

「日本では、(1)のように鏡が尊ばれている。神社のご神体は、鏡が多い。一方、仏教や仏像を考えると、あまり、鏡を持つ仏様は、ないような気がするのう」

「おじぃさんの記憶では、あてにならないので、わたしが調べましたよ。

密教曼荼羅』(久保田遥羅・F.E.A.R.:新紀元社)の図像を確認しました。仏像が手に持っている物を『持物』(じぶつ)というそうなの。この本の276ページ以降の『持物解説』によると、鏡は、『宝鏡』という名で登場している。それによると『宝鏡は、円形の鏡で、人の心の底を照らし出して、一切の秘密や邪念を明るみに引き出すといわれる』ものね」

「ほう、宝鏡にそんな働きがあれば、現代の警察官や検察官などは、ぜひ手元に置きたい道具となるだろう。ところで、その本では、実際に宝鏡を持っている仏様がおったかいな?」

「それが、宝剣とか宝珠とかを持つ仏像は、多いのよ。だけど、宝鏡は、少ないわね。明らかに確認できたのは、『千手観音』、正式には、『十一面千手千眼観自在菩薩』と言われる仏様だけだったわ。

図像で描かれていたのは、立像でした。全部で42本の腕(大脇手)があり、38本で38個の持物を、残りの4本で2つの持物を持つため、持物の合計は、40個となるのね。その2番目にありました、『宝鏡』が。その働きは、智恵開眼=智恵を開く、というもの。代表的な千手観音菩薩像は、次のようなものね。

・ 唐招提寺の千手観音菩薩立像は、42本の大脇手以外に911本の小脇手がある。
  (作られた際は、合わせて1000本と言われている)、全高が5.36mもある。8世紀の作。国宝。
 ・ 三十三間堂の中尊(中央の仏様)の千手観音菩薩は、座像である。42本の大脇手がある、高さ約3m、鎌倉時代の作、国宝。

 上の写真は、京都市三十三間堂(1991年7月撮影)

ちなみに、この本の図像では、1番目が『錫杖』で、発菩提心=よい願いを起こす、3番目が『月輪』で、熱毒消除=毒や熱病を除く、・・20番目が2つの腕で持つ『宝鉢』、腹病平癒=腹痛を治す、・・・、最後の40番目が持ち物ではないけど、2つの腕の手を合わせる『合掌』、衆人愛敬=人に敬われる、だそうよ」

「さすが、千手観音様、鏡もお持ちでしたな。しかし、余分というか、多い手を脇手と言うとは知らなかった。夏は、脇汗が気になりそうな、お姿ではあるのう」

「おじぃさん、そんなことを言うと、仏罰が当たるわよ。とは言うものの、他の仏様、大日如来を除く如来は、飾りや持物を持っていないので、菩薩、明王、天の多くの画像や説明を拝見しても、他の仏様の持物には、『宝鏡』らしきものが確認できなかった。もちろん、この本で確認できないだけで、実際には、宝鏡を持つ仏像があるかも知れないけどね」

「鏡の人気が少ないのは、驚いたな。想像だが、『宝鏡』の働きが『相手の心の底を映す』、『相手の智恵を開く』程度であれば、各の仏様がおのずと備えておられそうだ。そのため、千手観音のように手に余裕があれば、持物として取り上げるだろうが、そうでなければ、他の持物を押しのけてまで、持たせないのではなかろうか」
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(4)鏡で映す、鏡で照らす

「ここまで見て来て、神話、宗教、物語では、鏡の機能に、『映す』と『照らす』という2つがあることが分かった。これは、古代の人が水鏡や金属鏡を観察した結果を素直に発展させたものと思われるのう」

「なるほど。鏡に映すと、自分や相手の姿が映るわね。もし、神秘的な力が宿る鏡であれば、相手を直接、見たのでは、分からない心底や正体が映し出されると考えるのは、自然な事ね。

また、鏡で太陽の光を反射させると暗い場所を明るく照らすことができる。電気のなかった時代は、たいまつ、ランプ程度の明るさしか体感していないので、鏡からの光線は、印象深いものだったでしょう。

実際の鏡は、太陽などの光を当てないと光が出ないけど、神秘的な鏡であれば、自らが発光して、闇を照らすこともできそうだと考えたのでしょう。千手観音様の『宝鏡』が『智恵を開く』意味とあるのは、光で照らすことにより、相手の智恵を曇らせている魔の闇を払い、その眠っている知恵を起こしてあげる、という意味でしょう」

「たしかに。では、次節からは、わしらが鏡の世界をどのように感じているか、また、それは、なぜなのか、という謎について考えてみよう。(ようやっとじゃったな)」
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6.鏡の中の世界

(1)物理的に考える

「こちらの世界の座標軸(X,Y,Z)を下図のようにとる。



 すると、上の図のように、こちらの世界の釣り竿を持った子どもが鏡に映っている。
 このとき、こちらの世界では、子どもは、左手で釣り竿を持ち、左足を前に踏み出している。
 一方、鏡の中の世界の子どもは、右手で釣り竿を持ち、右足を前に踏み出している(ととらえる人が多い)。
 すなわち、鏡の中の世界では、左右と前後がこちらの世界とは、逆になるのだな」

「これが、NHKの『チコちゃんに叱られる』(選)2019年12月20日放送の『なぜ鏡は左右逆に見えるの?』という問題ね。

ここで、番組でも指摘されている点なんだけど、
 A:『鏡の中の世界の子どもは、右手で釣り竿をもち、右足を前に踏み出している』ととらえる人が6~7割なんだけど、
 3~4割の人は、
 B:『鏡の中の世界の子どもは、左手で釣り竿を持ち、左足を前に踏み出している』と2種類のグループに分かれるそうよ」

「そう、これを聞いたときは、驚いたな。わしは、Aであったのでな。番組の中で出てきた説明を別の言い方をしてみよう。

Aの人達の考え方は、こうじゃろう。(ま、わしの考えじゃが。)

こちらの世界の座標系(X,Y,Z)を下図のように反時計回りに180度回転(時計回りとしても同じ)すると鏡の中の世界に重なる。
 こちらの世界の座標系を自分の体を中心に考えても良い。前を見て、床面に垂直に立ち、右腕を体の真横に延ばす。右腕の方向がX軸の正方向、顔が向いている方向がY軸の正方向、足から見て頭方向がZ軸の正方向となる。

そこで、体、あるいは、座標系を地面の上で、レコード盤の上に載っているかのように180度回転すると考えれば、新しい座標系が生まれる。これが、鏡の中の座標系だ。自分の体全体を真後ろに向きなおったとしてもよい。

このとき、鏡の中の座標系を、(X',Y',Z')とすれば、Z'=Z、となり、上下は、変わらない。
 しかし、左右と前後は、入れ替わる。X’=-X、Y'=-Y、
 すなわち、こちらの世界の点P(X,Y,Z)は、鏡の中の世界では、P'(-X,-Y,Z)となる。
 ※図では、見やすいように座標系の原点を違えて書いているが、同じ原点位置とする。(以下同様)

そこで、やや、大仰じゃが、変換行列Tと位置ベクトルPを使えば、こちらの世界の点Pは、鏡の世界の座標では、P'、すなわち、
 T×P=P'、に移ることを簡明に表せる。

 のようにな」

「自分が鏡に向かっているとき、鏡の中の像は、こちらを向いていることが分かるでしょ。つまり、お互いは、反対向きになる。

ところで、番組では、『右』とは、何か、という話が出てきた。広辞苑では、『南を向いた時、西にあたる方』が右だった。一方、大辞林は、『その人が北を向いていれば,東にあたる側』としている。ま、結局は、同じことだけどね。

さて、広辞苑にならえば、下図のように、自分が南を向いて、鏡に向かっているとする。西側が右腕側ね。東側が左腕側で、釣り竿を担いでいる。一方、鏡の面は、北を向いているので、中に映る自身の像も北向きだ。北を向いているときの東側が右なので、右腕で釣り竿を担いでいると感じる」

「Aグループの人にとっては、こちらの世界や鏡の中の世界を包み込む大きな世界から観測すれば、大きな世界では、東西南北の方角が固定されている(絶対空間)のだ。その観測系からとらえているので、ともちゃんが説明してくれたように、左右と前後が入れ替わったと感じると言うことだろう。

さて、3次元空間では、互いに直交する3本の座標軸のうち、2つが決まらないと3つ目が決まらない。辞書の説明の、南と上が決まって、初めて、右が決まるというのは、この事情を述べている。

逆に言えば、2つが決まれば、3つ目は、一通りに決まる。上の図の場合は、南=Yの正方向、上=Zの正方向なので、X,Y,Z軸の各単位ベクトルを、i,j,k、と書けば、i=j×k、の関係がある。これで、Xの正方向が決まる。(i=-j×k、とするのが左手系:後述)

なお、×は、ベクトル積で、3次元のベクトル、u、vのベクトル積w は、w=u×v、wの大きさは、|u||v|sin(θ)、である。θは、uとvのなす角、また、wの方向は、uからvにかけて、右ネジを回したとき、ネジの進む方向(u、vのいずれとも直交する)と定義される。

 右手系の座標系。
 上の図に即して言えば、jとkのなす角は、90度で、大きさも1なので、j×kは、その向きを右ネジの進む方向とすれば、自ずとiが決まる。もちろん、3つのうち、任意の2つが決まれば、いいので、k=i×j、などとしてもよい」

「大きな世界は、まるで、お釈迦様の世界ね。孫悟空は、自分の座標系が唯一と思っていたけど、お釈迦様から見れば、それは、ちゃんちゃら可笑しい。

さて、問題は、Bグループの人達の感じ方ね」

「そうだな。Aグループの者は、自分の座標系を180度水平に回転して、鏡の側に持って行った。そのAグループから見ると、Bグループの人達のとらえ方は、理解しにくいが、以下のように想像してみよう。わしの仮説じゃ。

Bグループでは、下図のように、座標系を鏡に映したものと考える。このとき、下図のように鏡側を向いていたY軸は、Y''のように180度向きを変える。しかし、X軸の鏡側であるX''やZ''は、XやZと同一方向を保つ。(鏡に関して対称的に変換するので鏡映変換という)

このとき、X''=X、Y''=-Y、Z''=Z、である。前掲と同様に、こちらの世界の点Pは、鏡の中では、P''に移る。行列とベクトルで表せば、
 S×P=P''、すなわち、

となる」

「でも、おじぃさん、こちらの世界の座標系は、『右手系』、すなわち、『3次元の直交座標軸の向きを、右手の親指がx軸、人差指がy軸、中指がz軸に対応するように定めた座標系。』なのに対して、鏡側の座標系をそのようにすると、『左手系』になってしまうよ。左手系は、『左手の親指がx軸、人差指がy軸、中指がz軸に対応するように定めた座標系。』(広辞苑第7版)」

「たしかにな。しかし、人の脳の側に立って考えると、鏡の後ろ側に回り込むというAの考え方に比べて、分かりやすい(計算量が少ない)と感じられる。

ま、仮説だから、本当にBグループの方々がこういうとらえ方をされているかどうかを実験的に明らかにできれば、面白いじゃろう。利き手や利き目と関係があるのかどうかとかな」

「なるほど。鏡の世界の左手系では、P''=S×P、なので、両辺にSを左からかけると、S×P''=S^2×P=I×P=P、(Iは、単位行列)、一方、右手系では、P'=T×Pなので、Pに前の結果を使えば、P'=T×S×P''、となる。

結果的には、上のように、X''のみがX'と符号が異なることが確かめられる。これは、AグループとBグループの人では、鏡の中の左右の違いについて、逆のとらえ方をしているという意味。ま、こうならないといけないので、結果は、当たり前だけどね」

「なお、付け加えると、Bグループの人が鏡像の左右が逆になることに気がついていない、という意味ではない。ただ、鏡像の左右のとらえ方に違いがあるというだけだ」
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(2)バックミラーでの後続車の見え方

「番組では、鏡と対面した場合、鏡の中の像の左右について、前節のような2つのグループに(実験的には)分かれることが解説されていたが、ドライブ中のバックミラーに映る後続車の見え方については、2つのグループに分かれないという謎が出てきていたのう」

「そうね。番組をご覧になっていない方向けに図で説明しますね。

 たとえば、下の図のように公道を練習中の車があって、後続車が追い越そうとして、右のウインカーを点滅させたとする。このとき、練習車の運転席のバックミラーには、図の点線内のような像が映るでしょう。そのとき、練習車の運転者は、後続車の右ウインカーが点滅していると認識する。だれも、バックミラーの世界に入り込んで、点滅しているのが後続車の左ウインカーだとは、感じないということなの。それは、なぜか?」


「そうじゃな。前節のBグループ=座標系を鏡映、ということではないかな」

「前方の車のバックミラーの大きさが小さいからとかは、関係がないかな?」

「それもあるかも知れない。こういう実験をしてみると、どうかな。


 ここで、大きな鏡の前に2人が立っている。手前側がこちらの世界だ。観察者から見ていると、後ろから来た人は、左手を挙げて、挨拶しているんじゃが、鏡を見たAグループの観察者は、後続者が右手を挙げていると感じ、Bグループの観察者であれば、左手と感じるだろう」

「なるほど、鏡に観察者自身だけが映っている前節と同様に、AとBのグループに分かれるでしょうね」

「では、下図のように鏡が小さくて、観察者の姿は、映らず、後続者の一部のみが映る場合は、どうじゃろう」

「いやー。驚きました。おじぃさん!
 こんなに鏡が小さいと、観察者が推測しなければならない余地が多くなるわ。つまり、鏡に映るのは、自分でなく、前方にもそれらしき人がいない。そうすると、鏡に映るのは、後ろから来る人だろう。

だけど、ほんの一部しか映っていないので、Aグループのように、鏡の背面に回って後続の人の右手と考えるのは、(脳にとっては、負担になり)難しい。こんな場合、ほぼ、全員がBグループのように左右を逆転して考えないで、鏡に映る手は、後続者の左手であると、とらえるでしょう」、

「もちろん、実験してみないと分からない。この図は、観察者や後続者を俯瞰している図だからな。いったい、鏡にどの程度、映るとAグループが多くなるのか、あるいは、このようなシーンでは、Bが大半なのか? 少し、鏡を大きくしてみよう。



 さらに、鏡を大きくした場合じゃ」

「そうね。鏡が大きくなって、観察者も一部映るようになると、変わってくる気がするわね。最後の図だと、Aグループの人も出てきそう」
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(3)寝ころんで見る

「これは、朝永振一郎先生の随筆集『鏡のなかの世界』に出てくる話じゃ。同書は、1965年(昭和40年)12月8日第1刷。みすず書房から出版されている。ここに、『鏡のなかの世界』と題するものがある。理研時代に経験した雑談を取り上げている。まさに、この節の内容にピッタリじゃ。

ある人が『鏡のなかの像の左右が逆になるのに上下は逆にならないのはなぜか』という議論を提出した。

まずは、幾何光学から考えて上下が逆にならない理由を挙げた者がいた。『頭から出た光は、鏡で反射されて、眼に入る。同様に足下の方も同じで、頭からの光と足下からの光が反射する際、交差しないので、上下は、逆転しない』と。

ところが、この節は、直ちに反論された。『その論法だと鏡像の左右も逆転しないのではないか』とな」

「なるほど。朝永先生達も、ずいぶんと、前に議論されていたのね」

「まあ、そうだな。とは言え、NHKの番組(前出のチコちゃん・・)によれば、古代ギリシャの哲学者も議論していたと言うから、優に数千年は、経っている問題だな」

「それで、他には、どんな説が出たのかしら?」

「物理学者らしく、地球の重力場が影響しているという説、すなわち、上下は、重力により方向が決まるからというのもあったようだ。先生が書かれているように、重力の方向が心理に影響している可能性は、ありそうだ。

そこで、問題が心理的な話となれば、『人間の体は、上下には、非対称だが左右は、ほぼ対称的という性質が影響している』という説、『人間の体が縦に長いからだ』という説などが出たという。

中には、『顔に目が2つ横に並んでいるため』という説もあったが、片目をつぶっても変わらないではないかと直ちに反駁されたという」

「えーと、その中に、『畳の上にあおむけにねころんで、顔の前に水平に鏡をかかげてみれば、畳の下に下向きになった顔が見える』という方が出てきたのね」

「そうだな。図にするのが難しいが、シーンは、こんな感じかな。

 鏡は、寝ている人が手で支えているのだが、そこは、絵が難しいので、省かせてもらった」

「実際にやってみると、上下は、入れ替わるけど、左右は、微妙ね。わたしが試した鏡が小さいのと、あまり高く持ち上げられないので、十分には、確かめられなかった。普通に立って鏡を見たときの記憶と比べると違う気がするわ。寝ている状態では、Bグループの割合(鏡のなかの人物も右手を挙げているととらえる)が多くなりそうね」

「姿見のような大きな鏡を水平に支えるのは、丈夫なロープなどで吊さないと難しい。とても、一人では、簡単に実験できないが、何人かのグループならできそうだ。安全に注意して、大きくて、軽い鏡で実験してみて欲しいのう。

先生は、重力の心理に対する影響について、『宇宙船の中で鏡を見たらどのように見えるか、ガガリーンさんに聞いてみたい』とも書かれている。このエッセーが最初に書かれた頃を偲ばせる。
※Yurii A. Gagarin:ソ連の軍人・宇宙飛行士。1961年(昭和36年)、人工衛星ヴォストークで地球を一周。人類初の宇宙飛行に成功。(1934~1968))

今は、国際宇宙ステーションがあるのだから、これは、ぜひ、クルーの方々にお聞きしたい質問だな。

先生は、最後に『ただ、この理研での議論は、あまりにも早い時期に行われすぎて、リー・ヤンのパリティ非保存といったような素粒子の法則は鏡映に対して不変性をもたないという大学説にまで発展するには、そのときまだ機が熟していなかった。これは、なんとも残念なことであった。』と結ばれている。

※ パリティ非保存(パリティ対称性の破れ):『1956年にヤン(楊振寧、Chen Ning Yang)とリー(李政道、Tsung-Dao Lee)は、当時説明不能だったK中間子の崩壊に関する現象を説明するため、弱い相互作用が関与する物理現象ではパリティの対称性が破れると予想した。この予想は、1957年にウー(呉健雄、Wu Chien-Shiung)により、弱い相互作用が関与する物理現象であるベータ崩壊を観測する実験で確かめられた。』(ウィキペディア)」
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(4)鏡像の奥行き

「鏡を見たとき、中の自分の顔が意外と離れて見える事に気がつくでしょ。こちらの世界の顔も、鏡の世界の顔も、お互いに同じ距離だけ、鏡の位置から離れるのね。


 図で書くと、上のような感じ。
 Eは、自分の右目、Pは、自分の右手とする。(Pは、本来、どこでもよいが、図では、Eと同じ平面と考えている)
 Pに対応する鏡像の手をP'とする。また、Qは、Pからの光線が鏡で反射してEに達するときの反射点である。
 光線は、その光路を行く時間が最小になるように伝播するので、PQとQEの長さは、等しくなる。それは、反射の法則でもある。
 PQ、QEの長さを等しく、Lと書けば、EQをそのまま延長したEからの距離が2Lとなる位置にPがあるように見える。
 これにより、PHとP'Hの距離が等しい」

「ともちゃんの説明を、より分かりやすく説明すれば、下図のような感じかな。


 P'の鏡の表面との距離は、L×Cos(θ)、で、これは、Pと鏡との距離に等しい。
 P、E、Qの3点がこの画面に平行でない場合も、それら3点を含む平面上で考えれば、同じことだろう」
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7.鏡像と写真

(1)鏡像の特徴(明るさ、色、奥行き)

「これまで、鏡について、いろいろと調べてきた。そこで、こんどは、写真との違いを考えてみよう」

「鏡像は、写真よりも明るいわね」

「なるほど、鏡は、光をほぼ全部反射しているから、紙に印刷してある写真よりは、一般には、明るいな。それ以外には、何があるかな?」

「色かしらね。もちろん、カラー写真も素晴らしいけど、鏡の方は、基本的に光の色でしょう。写真は、印刷色ね。光の色では、出せるけど、印刷色では出ない色もある。それもあって、鏡像の色の再現力は、写真よりも、どうしても高くなるわ」

「なるほど。光の3原色は、赤、青、緑、一方、印刷のインクの3原色は、赤、青、黄色と黒か。ここでは、詳しく書かないが、ともちゃんが言うように印刷では、表せない光の色があるからな。他には?」

「前節でも出てきているけど、鏡像では、奥行きが感じられる点ね」

「写真では、奥行きが感じられないかな?」

「そんなこともないけど、迫力(臨場感)が違うのよね」

「それは、なぜかな?」

「そうね。写真からでも、近い、遠いという感じは、伝わる場合がある。手前のものが後ろのものを隠すので、重なりがあると奥行きがあるように思える。たとえば、下の写真のように。

 一番奥に木立があり、手前にすだれが下がっている。すだれの下には、縁側があり、手前の座敷につながっている。
 そのさらに手前の畳の上にお皿があり、スイカと麦茶のような飲み物が入った透明なコップが置かれている。
 スイカやコップなどに影があることで、立体感も出ているわね」

「そうだな。ものが重なったり、影があることで、奥行きや立体感が感じられる。では、同じ風景が鏡に映っているとしたとき、それを見たわしらは、写真と、どこが違うと感じるのかな?」

「鏡像を両眼で見るとすれば、鏡の中の近い場所にある物を見たとき、視差があるはずでしょう。視差により、物との距離を感じ取れる。しかし、写真では、どんなに、物同士の重なりが写し込まれていても、すべては、写真の表面に印刷されているので、写真の場所によって視差が違うことは、あり得ない。その点、鏡像には、本当の意味の奥行きがある。これが写真とは違う鏡像の臨場感の正体ね」

「なるほどな。鏡像の写真を撮ったとしても、それは、残せないものだな。(3D写真やVRでない限りな)。寅彦が自画像を鏡を見て、描こうとしたのは、これらの点が写真よりも優れているということもあるかも知れない」

「もちろん、鏡像の大きさは、重要だったでしょう」
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(2)写真の特徴1(保存、形、露光時間)

「では、今度は、写真が鏡像に比べて優れている特徴を挙げてみよう」

「まずは、画像を保存できる点かしら。カメラ・オブスキュラの時代から、人々が追い求めてきたものだからね」

「たしかに。写真の歴史で、先人達の苦労を学んだな。

鏡像は、人の目で見ている限り、そう長いこと見続けることは、できないし、その場にいない他人に伝えることもできない。また、天体の写真などでは、長い露光時間をかけて、写真に撮って初めて観測された天体も多い。これなどは、特筆すべき写真の効用だ」

「そうね。逆に非常に短い瞬間などは、人の目では、とらえきれない。そのような短時間の瞬間も写真で見ることができるのも、長所ね。すなわち、人間の目とは、違う時間スケールの露光時間を自由に選択できる点が特徴だわ。

次には、左右、前後が実際と異なる鏡像と異なり、写真は、私たちが見たとおり、その対象をとらえることね」

「そうだな。自画像で触れたように、鏡の中の姿と写真の姿は、たとえ、明るさ、色調などを同じにしても、違うものだ。鏡の中の像は、この世界の姿のものとよく似ていても、存在しないものだ。そのため、鏡は、神話や呪術、物語などを生んだ。

しかし、写真は、写す対象をほぼ、ありのままにとらえるので、そのような物語や呪術と関係しにくい。これは、長所だ。もっとも、昨今の様々なフェイク技術の進歩で、写真が常に真実の姿をとらえていると信じるのも、また、難しい時代になったことは、心に留めておかないといけない。

なお、鏡像も水平方向の反転処理をすれば、写真と同じ向きになるが、普通の『鏡』では、そのような像をリアルタイムで映し出すことは、できない(後述の2枚鏡などの例外はある)」

「静止画から動画の発明につながった事もあるでしょう。静止画を連続して、見る(パラパラ漫画)ことで、動画ができることが分かった。それが映画の発明に実を結んだのね。これも大変な発明だったわ」

「ま、写真の発明が、動画につながったことは、確かだのう」
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(3)写真の特徴2(無人・遠隔、X線等の可視光以外)

「うっかりしとったが、写真の特徴は、まだまだ、あるではないか!」

「いや、これは、お殿様、私としたことが、まことに気がつかず、申し訳もござりませぬ。まずは、無人撮影でござりまする。

これがあってはじめて、高山、深海、あるいは、宇宙空間や月やその他の惑星などに行って撮影したり、その近くまで無人宇宙船で撮影できたりするんだからね」

「そうだな。そういう大がかりなものでなくても、野生動物の夜間の生態の観察、クジラやウミガメなどに取り付けての海中撮影などでも無人撮影が活躍している。

また、ドローンを使った様々な高さや距離からの迫真映像も遠隔撮影なれば、こそだ。アマゾンの大河の上をまるで、鳥のように飛行して撮影できるなど、素晴らしいものだ」

「でも、良いことばかりではないわよ。偵察衛星による撮影や無人機での攻撃も、使われるようになって来ていることを忘れてはいけないわね。今や、安全な事務所の倚子でディスプレイを見ながら、無人機からミサイルを発射できる時代になってしまった。これは、カメラだけでなく、人工衛星や無線などの技術の進歩によるものだけど」

「たしかに。『西遊記』や『封神演義』に出てくる想像上の武器がどんどん現実のものになって来ている。ある著名な先生が、『第3次世界大戦がどのようなものになるかは、わかりませんが、それ以後の戦争では、人間は、石を投げあうことになるでしょう』と語ったと言われている。究極の兵器が使われてしまえば、今の文明も、また、失われてしまうだろう。ナスカの地上絵をわしらが見て不思議がるように、最終戦争後の遠い未来の考古学者らは、朽ち果てたミサイルや宇宙船の残骸を見て、何と思うだろうな」

「お殿様。そう、ネガティブにならないで下さいませ。ここで、お茶など、一服、お召し上がりくださいまし。

えーと、すごく、役立っている技術もあるじゃない。X線写真(レントゲン写真)よ。それまでは、体の外側から、想像するしかなかった生きている人間(ここ大事ね)の体内の様子を撮影できるようになった。(今、考えても、すげーと思うわ)

これにより、骨折などから、肺炎、結核などによる肺の炎症に至るまで、ほぼ、瞬間的、かつ、副作用の少ない検査が可能になった。

X線写真と普通の写真との比較を下の図に示しておいた。コロナによる新型肺炎でも、大活躍した医療技術のレジェンドね」


「さてと、レントゲン(X線)写真と普通の写真とは、大きな違いがある。1つは、X線画像が透過画像であること、もう一つは、X線では、レンズを使った変換がなされないことだ。

対象にX線を当てるとX線がよく通ったところほどX線用乾板(乾板内には、X線増感紙というX線が当たると蛍光を発する紙で挟んだフィルムがある)のフィルム(蛍光によって感光する)は、蛍光が強く当たった部分は、感光し、当たりにくい個所は、感光しにくい。

注意すべきは、体を通過したX線をそのまま乾板に当てる方式であるため、上図の左側の普通の写真のようにレンズを使わないので画像の左右は、逆にならない。

また、蛍光で感光したフィルムを現像すると蛍光が強く当たった個所ほど、黒くなる。つまり、普通の写真のネガをそのまま見ているのだが、普通の写真のネガと異なり左右が逆転していない。ここは、うっかりすると、錯覚しやすい。

普通の写真では、ネガを元に(引き伸ばし機でレンズを使って)印画紙に焼き付けるのでネガの左右(と上下)が反転して、対象を外から見た状態に戻る。結果として、普通のポジ写真とレントゲン写真(ネガ)の左右は、同じになるのだ。

※X線乾板の増感紙の話は、以下からです。
 日本放射線技術学会
 https://www.jsrt.or.jp/data/citizen/housya/x-01/
 ※X線写真の左右の説明の点は、以下の記事を参考にしました。
 呼吸器内科医のブログ
 https://pulmonary.exblog.jp/23527619/」

「ま、X線写真も、現在は、フィルムや乾板ではなくて、X線を蛍光に変えて、その光量をデジタル画像に変換するので、撮影からあっという間に医師の机上で見ることができるわね。従って、簡単に左右を入れ替えて、患者さんなどに説明もできている。

あと、ついでと言っては、まったく申し訳ないけど、X線CT(〔computed tomography〕検査のために,X線の走査装置とコンピューターを組み合わせて体内の断層像を得る方法。X線を360度回転しながら照射して人体の横断面を撮影,各方向からの像をコンピューターで処理して,その平面の画像を得る。X線のほか,粒子線・超音波などを用いたものもある。イギリスのハウンズフィールド(G. N. Hounsfield ( 1919~2004 )),アメリカのコーマック(A. M. Cormack ( 1924~1998 ))が開発。(大辞林4.0))を忘れては、いけないわ。

「まったくじゃのう。

さらには、寺田寅彦らのX線の回折写真、その後の湯川秀樹の予言した中間子の発見、などなど、広い意味の写真技術が大活躍している。最近でも、エジプトのピラミッドや福島のメルトダウンした原発内部を宇宙線を使って、撮影する試みも行われている」

「ここまで、ご覧いただければ、『はじめに』などで、触れた、コロナウイルスによる新型肺炎や寅彦先生のX線回折の話も、無駄なおしゃべりでなかったことが、おわかりいただけたのでは、ないでしょうか?」
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(4)カメラ付き鏡(リアルミラー)

「PCのカメラで撮影している画像をモニターして、リアルタイムにディスプレイに映し出すことは、できるわね。ここで、気がつかれましたか!みなさん、Skypeで、自分の姿が鏡像として、表示されていたことを思い出してください。

話がつながりましたよ。そんな、リアルな鏡があります。ただし、『鏡』と言っても、スマホアプリですが、『リバーサルミラー』等のキーワードで検索してみてください。『普段鏡でみている顔は他人から 見られている顔と違います!』というようなフレーズで宣伝していました。

ただ、『リアルミラー』というようなハード的なカメラ内蔵式ディスプレイは、見つからなかったわ」

「なるほど。スマホプリとしては、あるのだな。普通の鏡のようなハードとしては、今のところ、見つからなかったか。上の図にあるような、リアルミラーがあると、観察者が一人で見ているときは、いいが、複数人で見ることができるのかどうか、特に、後続者の視点の画像を鏡面に見せることができるか、どうなのかな」

「カメラが上の図のように付いているとして、そのカメラからの映像を映し出すことになるでしょう。こうなると、鏡と言うより、大きなディスプレイだけど、モデルさんや俳優、タレント、さらには、メイクするすべての人は、こんなのがあると便利だと思うわ。

なりたい私は鏡に映り、今ある私は写真に残る』という創作ことわざもあるしね」

「2枚の鏡を90度接して置くと、正面の人が見た場合、左右が正しく見えるな。(これが前述の2枚鏡)

※実際に2枚の鏡を直角に組み合わせて、背後、やや上から撮影してみた。(2020/6/19撮影)
 鏡のフレームが結構、邪魔になる。さらに低い位置から撮影したかったが、その場合は、カメラが映ってしまう。

対象物の位置によって、上の図のように最大3つまでの像が映る。3つの鏡像のうち、正面の像が、いわゆるリアルミラーとなっていて、左右が正しく表示されている。残りの左と右の鏡に映る像の左右は、逆転する。

人形を鏡から手前方向に引き離すと左右の像は、人形の位置から見えなくなる。
 2つの人形とその配置(上の図のものと若干異なるが)を正面、やや上から撮影したものが下図だな」

「なるほど。2回の反射で元の状態に戻るのね。中学生の理科で、習ったそうだけど、忘れてしまっていたわね。

また、3枚の鏡を、それぞれ、90度ずつ接する「3枚鏡」というのもあったわ。光を来た方向に反射させることができる仕組みだって。

『コーナーキューブ』と言われるそうね。自転車の後部に付いている反射板『リフレクター』もこれの応用だった。
 参考:『正多面体クラブ』 コーナーキューブ(再帰性反射)
 http://polyhedra.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-447c.html
これだと、左右と上下が反転するんでしょ?」

「う~ん。3辺の集まった点に対して対称に折り返して見えるというが、そうすると、上の図のようになるのかな。こんなに綺麗に映るかは、不明じゃ。インターネットを検索すると、左右を反転させないためのゴーグル的な装置やバックミラーは、昔から、様々な工夫や発明が試みられているようだ。鏡だけでなくプリズムを使ったものなどな。これ以上は、ここでは、深入りしないことにしよう。

ところで、カメラで撮影したものを映し出す方式だと、明るさや色は、鏡像に引けを取らないだろうが、奥行き感が出るかのう。3D効果が得られるような工夫があると、さらに迫真性が増すだろう。カメラを2台以上付けて、対象との距離を測定し、たとえば、近い、中ぐらい、遠いの3つ程度の画像を切り出して、明るさ、彩度を変えて、投影または表示できれば、より、リアリティが出るかも知れないな。

ただ、鏡のように見る人によって異なる画像を表示するためには、VR装置のようなものを各人に被ってもらわなくてはならない。そう考えると、鏡は、何もせずに、鏡を見る人の位置や角度により、何人もの人に、同時に違った画像を提供できる。それを考えると、つくづくと、『鏡』は、すごいものだと、いまさらながら感心する」
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(5)人の眼と画像反転

「人間の眼には、レンズの機能がある。外の対象物をレンズにより、網膜に写し、その画像の情報を電気信号に変えて、脳に送り、画像を認識しているのだろう。そこで、網膜に写る画像は、レンズにより、上下と左右が反転しているはずだな」

「そうでしょうね。下図のように簡易化して考えると、Y軸方向の情報を両眼の視差なり、重なり、対象物の大きさに対する知識などから推定して、β(Y)、として認識されるでしょう。

今、網膜の座標系を(u,v,w)と考えて、外部の点の座標を(X,Y,Z)とすれば、

 と、αは、縮小して映ることを表す。
 β(Y)は、対象との距離を推定した量。こうすると、XとZは、縮小され、反転し、Yは、推定されて、(u,v,w)に移る。
 そこで、この[u,v,w]を脳に送って、再度、[u',v',w']に変換する。

 結果的に、外の対象物は、

 となり、

 と脳に伝わるのではないかしら。
 もっとも、この変換回路は、赤ちゃんとしてこの世に誕生した、あるいは、誕生する前から、形成されるでしょうから、人間が意識して行っているのではないでしょうね」

「なるほど。それで、鏡を見る場合は、どうなるのかな?」

「Aグループの人は、鏡を見たとき、鏡の向こうに回り込んでいる。

 なので、眼の中から脳へは、

 となり、これは、

 となる。
 XとYが、-αX、-αβ(Y)と符号などを変えて、脳内に送り込まれるイメージになる。

一方、Bグループの人は、鏡に並行に鏡映変換するので、Y軸のみ符号が反転し、

 となるので、

 すなわち、

 となる。Yだけが、-αβ(Y)と、符号などを変えて伝わる。

「ま、一応は、もっともらしいが、あくまでも、わしらの見方なので、真偽のほどは、保証できないのう」

※一般的には、こちらの座標系と鏡の中の座標系の原点位置がずれていたり、座標軸そのものが平行とは限りません。特に、原点のずれは、行列のかけ算では、なく、ベクトルの各要素に加減算しないといけません。なお、3次元空間の座標計算を行列のかけ算だけで行うことも可能です。その場合は、4つ目の座標を導入する『同次座標』を使う方法があります。しかし、今回は、原理的な話なので、そのような大げさな道具を持ち出しませんでした。ご了承ください。(同次座標は、2007年1月の『ベジェ曲線』で触れています)
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8.終わりにあたって

今回もご覧いただきありがとうございました。今回は、反射望遠鏡、一眼レフカメラ、乾板写真以降の写真の歴史など多くの事柄に触れることができませんでした。また、機会がありましたらば、取り上げてみたいと思います。次回も、本欄で元気にお会いできますことを願っています。

なお、Skypeの利用につきましては、友人のY氏のご協力、ご教示をいただきました。この場をお借りして、厚くお礼を申し上げます。

※旧ドメインは、2017/6/1で閉鎖いたしました。お気に入り、スタートページ等の変更をお願い申し上げます。
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 作成日 2020/6/15
一部微修正 2020/6/16
タイトルを一部変更、写真が優れている点等を追加 2020/6/17
2枚鏡の図を差替え 2020/6/18
画像を追加、2枚鏡の図を差替え 2020/6/19
アーチャーに関する英国のウィキペディアの記事等を追記 2020/6/21
鏡の製造の歴史、『8.左右は状況により変化』を追記 2020/6/22
『8.左右は状況により変化』を1.(5)へ移動 2020/6/23
数枚の写真を追加 2020/6/26
誤字・脱字等を修正 2020/6/29
文章のごく一部を加除訂正 2020/7/2
写真等を追加 2020/7/4、7/5
画像サイズ、種類を変更 2020/7/8

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